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リギアレクト・ストーリー

黒い崖

作者: 滝本しぶき

黒い崖族の族長ウルグルの物語です。

 小柄な人影が道を歩いていた。日が落ちて久しく、夏とはいえさすがに冷え込んできた頃だ。

 ここは、シカナの街からマカタマシマの街へ向かう一本道で、途中には街も村もない。道の大部分は高木の森を通っており、夜はもちろん昼間でさえめったに一人で通る道ではなかった。

 シカナの街は、この地方最大の都市であるマハ・ブルールに近く、また、ゴアナ公爵領へと続く道の始点ともなっているため、旅人や商人等で賑わっている。また、マカタマシマは多くの工芸家を擁することで有名で、ワイジス王国の貴族達の間ではマカタマシマ出身の工芸家を召し抱えること自体がひとつのステータスとなっている。

 人影は夜になってなお歩き続けていた。まるで眠る事を知らないように。

 ここは、二つの街の中間地点にある森の、マカタマシマの街に近い側の出口にあたる。ここからしばらくは高木のない平地が続くので、月明りでも充分道が分かる。

 しかし、ただ道に迷わないで済むということと、安全であるということとが、いつも同じというわけではない。

 それまで出ていた月が雲に隠れ、急に闇が訪れた。

 薄暗い中、突如影が立ち上がった。一人、二人、いや、待ち伏せをしていたのだろう十人近い人影が、小柄な人物を取り囲んだ。

「こんな時間に一人歩きかい?ぼうや。」

「夜に一人なんて、ママはどうしたんだい。」

「こぉんな夜は、こわーい化け物が現れて、子供なんか喰われちまうぜ。」

 明らかにバカにした調子で口々にはやしたてる。

 にらみつけて脅す者、バカにして笑う者、ただ冷ややかに眺める者、そのすべてが手に武器を持っている。

 一人が背後からフードを掴んで引くと、隠れていた顔が現れた。金色のよく手入れされた髪、白くやわらかそうな頬、夜でありながら明るく光る碧眼、その顔に恐怖の色はなく、あどけないながらも落ち着き大人びた表情をしていた。まるで、どこかの貴族か王族の子息のようだった。

 一瞬、盗賊どもが静かになった。これほど美しい子供など見た事はない。皆一様に口を半開きにしてその顔に見入っていた。

 しかし、盗賊どもは誰も気付いていなかった。皆で子供らしき人影を、取り囲んだのではなかったか?後ろに回った者までも、その顔がなぜ見えたのか?その矛盾にも気付かぬまま、十人の男達は息絶えていた。

 小さな人影は、すべての盗賊から命と、その持ち物の一部を奪うと、フードを被り直した。

 それまで隠れていた月が姿を表わし、一瞬だけ小柄な人物の顔を照らした。

 それは、灰色のゴツゴツした肌の、いびつにつぶれて上向きの鼻を持った、人外の生き物の顔だった。


 黒い崖族と呼ばれるオークの部族がある。

 主な街から外れたこの地には、人間が立ち入る事はめったにない。また、立ち入った者は、ことごとく黒い崖族の戦士達により殺され、喰われてしまっていた。そのため、人間達は黒い崖族のことを知らず、オークという人喰いの存在も一般には知られていない。それは、子供達を恐がらせるための作り事とされていた。しかし、人喰いのオークは、ここに存在している。

 黒い崖族の族長は、ゴギという名の老オークだ。その周りには常に三人の息子と八人の孫が控え、それぞれがゴギの手足となって働いている。黒い崖族は、この辺りで最も大きな部族なのだ。

 オークというのは獰猛な種族で、およそ口に入る物なら何でも食べてしまう。虫や鳥をはじめ、犬、トラさえも食料としている。また、時として傷ついた仲間を食べてしまう事さえある。

 ゴギが大きな部族をまとめ上げられるのは、その大きな胃袋を満たせるだけの食料を集める知恵を持っていることが主たる要因となっている。ゴギは、いつどこへ行けば獲物が獲れるのか熟知していた。また、狩りの時、自分に成り代わって指揮をとれる息子達がいる。一族が飢える事はこれまでなかったのだ。

 しかし、ここしばらく獲物が減ってきていた。どの狩り場も巨大な力で荒らし回られ、獲物もほとんど取り尽くされていた。部族の大半は草や木で飢えをしのぎ、弱い者は殺されて強い者の腹に収まった。

 ゴギは責を問われた。食料を調達できなければ、ゴギなどただの老いぼれでしかない。力のない者は強い者に喰われるのが定めだ。息子達すらゴギに罵声を浴びせるまでになっていた。ゴギは最後の手段に討って出る事にした。人間の村を襲うのだ。人間の村は食料であふれている。

 ゴギは、この襲撃を自分の息子達ではなく、ウルグルという若者にまかせることとした。自分の息子達の能力はよく分かっている。三人いればどのような戦いも負ける事はないだろう。だが、今はゴギを亡き者として自分が族長になろうと、それぞれが争いを始めてしまっている。

 ウルグルは、おとなしく目立たないが、思慮があり力もある。また、族長にはいくつもの思惑があった。

 ゴギとウルグルは、部族の男達を連れて人間の村を目指すこととなった。


 マカタマシマの街はツァーデルト伯爵の領地内にある。ツァーデルト伯爵は、自身も陶芸の名人であり、マカタマシマの工芸家達と親交も深い。マカタマシマの工芸品は、王国内のみならず他国にまで名が知れ渡っていた。

 ツァーデルト伯爵領には、マカタマシマ以外に三つの街があり、他はごく普通のありふれた街だ。マカタマシマは、ツァーデルト伯爵の城下にあったからこそ栄えた街であり、また、工芸家が多かったからこそ伯爵が陶芸に傾倒したのでもある。

 この街には毎日大勢の商人が出入りしている。商人は様々な品物と共に噂を運んでくる。街で商品とともに噂を交換していくのだ。そうして次の目的地を決める。

 商人達は、この近辺で大規模な戦いが行われようとしていることについて耳にしていた。東の街とその周辺に人が集まり、武器をそろえている。

 ドラゴンが出現した。

 この街の人間も、ここに出入りする商人達も、まだ見た事のない伝説上の怪物ドラゴン。人づてに目撃談を聞いた事があっても、実在するかどうか誰もが半信半擬の存在だが、それと戦おうという人間が集まってきている。

 戦いは近い。


 黒い崖族族長ゴギは、この時期ヤギが集まるはずの岩場にきていた。

 例年なら大量にいて、一族の腹に収まるべき動物達が、今年はまばらにしか見当たらず、異常に警戒している。遠くから姿を見かけただけで逃げてしまうのだ。

 黒い崖族の戦士達は、ヤギを戦の前の腹ごしらえにしようと矢を射かけたが、始めから射程外にいる的に当たるはずもなかった。

 ふと、族長は傍らに居るはずのウルグルの姿がないのに気付いた。どこへ行ったのかいぶかしむ間もなく、騒々しくヤギの鳴き声が響いた。

 岩場の向こうで動くものがあった。二頭のヤギを両手に引きずりウルグルがこちらに歩いてくる。戦士達は我先にとウルグルの元へ駆け出し、族長はそこに置き去りにされた。ウルグルはヤギの調理を指示すると、族長の元へやってきて恭しく頭を下げた。

「ただいま食事の準備をさせておりますゆえ、どうぞこちらへおいで下さい。」

 族長はうなずくと、既に火にあぶられているヤギの元へ向かった。ウルグルを連れてきたのは失敗だったかもしれない、そんな思いが胸中をかすめていた。


 ツァーデルト伯爵領の東の外れにマナン村がある。ここより東には未開の地が続き、そこを旅する者はいない。その東には人間の住む街がないのだ。

 そこは、人間の領域ではない。

 地上に人間達は繁栄したが、それでもなお人の踏み込めない場所がある。そういった所には未知の生物が棲んでいて、それらは悪夢の中にしか現れなかった・・・今までは。

 ドラゴンが出現したというのはこの辺りだった。

 春からその噂が広がり出し、やけ焦げた跡や、大きな爪の跡、手のひらよりも大きなウロコが目撃され、遂に村が襲われたのだ。

 村人の半数は逃げのびて、今はマカタマシマの城壁の外に設けられた避難所に保護されている。伯爵はただちに百名の兵をマナン村に差し向け、事の収拾を計った。

 そして今、マナン村では生き残りの保護と、村の被害状況の調査がなされていた。

 その中に小柄な男がいた。彼は熱心に焼けた家や家畜小屋等を見て回っていた。中でも、ブタを囲っていたであろう場所に残っていた囲いの残骸や、焦げ跡、そして地面に残された足跡を熱心に調べていた。

「ドラゴンではない、ワイバーンだ。」

 その言葉は誰に聞かれる事もなく、ただ小柄な男の胸の内のみにしまい込まれた。


 斥候からの報告に族長は驚きを隠せなかった。

 村が焼けている。

 ゴギは若い頃、冒険好きが高じて遠出をし、ここで人間の村を見つけたのだった。その後も息子達と一緒に何度か様子を見に来ている。今までは食料が足りていたため、人間の村を襲うという危険を避けて来た。しかし、食料のなくなってしまった今こそ、その危険を冒す時だと決意を固めたのだ。

 火事でも起こしたのか?

 族長は思案した。予定では夜陰に乗じて家畜を奪うつもりでいた。村の全滅を目論んだわけではない。しかし、焼けた村には人と馬がいるだけで、ブタや鳥のいる様子がない。ここは、馬の二頭も頂けば良いかと考えた。

「族長、ここはやめておいた方が良いのではありませんか?」

 ウルグルが小さく話しかけた。もちろん相手を哀れんで言っている訳ではなく、奪う物がないからという理由だ。

 それは族長にも分かっていた。だが、すでに頭にある狩猟場はすべて調べ、ゴギにはもうここしか残っていなかった。

「繋いである馬を頂く。ウルグル、馬の扱いは任せるぞ。二頭もあれば良い、他の者では欲張り過ぎるからな。」

 ウルグルは了解の印に頭を小さく下げた。

 辺りは暗く、静かだった。静かすぎるのは、辺りに生き物がいないせいだが、その事こそがオークどもをここまで来させた理由なのだ。

 ここにいるのは黒い崖族の戦士十九人と、村の中の人間が数名、その馬が五頭、それだけだった。いや、オークどもはそれだけだと思っていた。

 家の火が消えてしばらく経った頃、馬達が大きくいなないた。ウルグルは手綱を縛ってある横木を重い剣でへし折ると、二頭の手綱を握り、残りをすべて追い払った。手綱を掴まれた二頭は、逃げようと暴れたが、太い腕にはばまれ逃げる事はできなかった。

 家の中からは物音が聞こえる。暗闇で人数は確認できないが、中の人間と戦士達が戦っているのだろう。

 ウルグルは馬の片方にまたがり、もう一頭を引いて集合地点へ戻った。手はずでは、馬を奪った後、後方を守りながら他の戦士達も戻ってくることになっている。しかし、すぐに戻っては来ないだろうとウルグルには分かっていた。人間達を総て殺し、馬が手の届かない所へ逃げてしまった事を確認できるまで辺りを走り回り、それでようやく戻ってくる事になる、そう予想していた。族長の怒る姿が目に浮かぶ。

 集合地点には族長と二人が待っていた。ウルグルは馬を降りて手綱を二人に預けた。

「よくやった、ウルグル。馬は生かしたまま持ち帰ろう。」

 ウルグルは頭を下げた後、族長と並んで戦士達の戻りを待ち構えた。

 突如、角笛の音が鳴り、何本もの松明が見えた。族長が一人に命じて様子を見に行くよう指示を出し、ウルグルにはこの場に残るよう命じた。

 一人は駆けて行くと、すぐに他の者達と戻って来た。

「人間だ!人間達が隠れてやがった!」

 ウルグルは族長を見た。族長の表情がこの事態を予期していなかった事を物語っていた。あせり過ぎたのだ。あせって確認を怠ったがために、十九人の戦士が窮地に立たされている。

 逃げて来た戦士達の後を松明を持った人の列が追って来た。手に武器を持ち軽い鎧を着けている。まるで今夜の襲撃を知っていて待ち構えていたかのようだ。

 ウルグルは、重い剣を頭上に構え列の先頭を襲い、そのまま乱戦へともつれ込んだ。ウルグルの剣は重い。当たった人間は切られるのではなくへし折られ、潰されていく。ウルグルの腕力が強すぎるため、普通の剣では折れてしまって役に立たない。そのため、この剣は専用に大きく、厚く作られていた。

 巨体のオークが鬼神の強さで戦い続けるのを見て、人間達は徐々に下がり始めた。下がりながらも人数は増え、ウルグルと戦士達を囲んでしまった。

 完全に囲まれたのに気付き、ウルグルは動きを止めた。輪の中心に族長がいて、それを守るように五人の戦士が武器を構えている。

 人間達はすべて鎧を着て武器を構えている。歩兵、弓兵、あそこにいた馬は連絡用の足だったのかもしれない。忙しく人が動き、軽装の歩兵が下がり、プレートメイルを付けた重装歩兵と入れ換わっていく。どこかに指揮している者がいるようだ。重装歩兵は長い槍を構えている。

 後ろを切り開き、逃げるしかない。重い鎧を着た重装歩兵は長距離を早く走れないはずだ。ウルグルが動き始めた時、村の方で叫び声が聞こえ、火柱が上がった。いや、上がったのではなく、炎が吹き下ろされたのだ。後方の兵達は、炎を見て動揺した。その隙にウルグルは人間をなぎ払って道を作り、仲間を呼んだ。

 人間達は明らかに狼狽している。今なら囲みを突破する事も可能だろう。しかし、振り向いたウルグルは、もっとひどい災厄がこちらに向かってくるのを知った。

 人間達の松明の列に沿って、村を焼く炎を背に大きな鳥のような姿が近づいてくる。

 人間はただちにその場から散り、重装歩兵が密集隊形で盾を掲げ長槍を構えた。

 ウルグルは、急いで族長と戦士達を連れ、道を離れた。

 大きな翼が頭上をかすめ、長い炎が道をなめる。その炎が重装歩兵の上を通り過ぎる頃、怪物の口から苦痛の叫びがあがった。同時に道の両脇から矢が飛ぶ。

 怪物は攻撃から逃れるため、上空へと羽ばたいた。その風圧で、直下に居た人間達が飛ばされた。

 ウルグルと戦士達は、あおりを受けて転びつつも、走ってその場を後にした。これで獲物が獲れなくなった理由がはっきりした。あの怪物が喰っていたのだ。


 黒い崖では、族長の息子の三人がいきり立っていた。

 獲物を持ち帰れなかった族長に罵声を浴びせ、小突き、地面に這いつくばらせる。ウルグルは、ワイバーンの事を話し、族長に代わって申し開きをしたが、三人とも聞く耳を持っていなかった。

 三人の後ろには、孫の八人が今にも襲いかからんばかりに興奮している。

 族長と共に帰って来た戦士達は、四面楚歌の状況に陥ってしまった。

 今まで、賢明な族長の元、飢餓など経験して来なかった黒い崖族の者は、ここにきて本能的な狂気に取り憑かれていた。

 息子の一人”力ある”ドベキが剣を掴むと、族長を滅多打ちにした。哀れな老オークは抵抗もできずに絶命した。別の息子”知恵のある”ゴバリが血だまりの中の腕を掴むと、その肉をむさぼり始めた。

 それを合図に、もう一人の息子”器用な”バボバと他の者達も生き残りの一群に襲いかかり、共喰いが始まった。

 戦士達は必死に抵抗したが、生きて逃れる事はできなかった。

 しかし、ウルグルだけは違っていた。重い剣を振り回し、近寄れないよう牽制しながら退路を探す。弱そうな部分を探して移動し、また牽制する。

 皆がウルグルを怖がり近づこうとしない中、一人が群集をかき分けて前へ進み出た。手にした剣に血を滴らせ、口の周りも血で汚れている。

 力強い斬撃を、重い剣で受ける。ドベキは三人の息子の中でも最も腕力の強い奴だ。二撃、三撃、ウルグルは避け続けた。隙を見て切り込もうとした時、バボバの姿、血塗れた口に笑みを浮かべつつ、弓を構えるのが目に入った。とっさに横へ飛び退いたが、避けきれず、右腕に矢が突き立った。

 左手の人垣が薄いのを見てそちらへ向かう。皆、ウルグルとは距離を置いて下がり、やがて左右に分かれた。開いた道の向こうに、空が見える。そして、地面が切れている。

 計られた。

 ゴバリが、指先で頭をつつき、汚れた口を歪ませた。いつのまにか群集をまとめ、この崖に追い込むように仕向けたのだ。黒い崖に。

 族長の息子三人がウルグルの前に並んだ。一人が剣を構え、もう一人が弓を引き、もう一人がナイフを構える。

 ウルグルは剣を正面に構え、相手の出方を待つ。知らず足が下がり、かかとに石が当たった。崖を転がる石の乾いた音が響く。

 ナイフが飛んでくる。ウルグルは剣を少しだけ動かして弾き、そのままの動きで襲いかかる剣に自分の重い剣を叩きつけた。強い衝撃を受けた剣が折れて宙に舞う、そこへ偶然に矢が当たり、軌道をそれ、ウルグルの左胸に刺さった。矢は見えていたのだ。避けたはずだったのだ。それにもかかわらず当たってしまった。

 驚いて胸に刺さる矢を見下ろし、よろよろと後ずさる。二の矢が飛んだが、ウルグルの体はずるずると崖を滑り落ちて行った。

 三人は順に崖下を覗き、身じろぎもせずに落ちていく姿を確認してから、広場の方へ戻って行った。三人が三人とも族長の座を狙っているのだ。争いは避けられまい。その前に広場にあるゴチソウを平らげるつもりなのは三人に共通した意識だった。

 ウルグルは、落下の途中で正気に戻った。矢が刺さったのと崖に落ちた事で、一事的に意識が混乱していたが、ようやく頭がはっきりして来た。剣はまだ手に持っていた。手を伸ばせば届きそうな壁面に切っ先を伸ばしてみる。

 ガキッ!

 壁面に触れた途端、剣が手を離れて弾け飛んだ。体が回転を始め、制御が効かない。それでも必死に手を伸ばし、何かを掴もうともがく。

 背中に何かが当たる感触があり、手が細い物を掴んだ。細い枝だが、根元近くから折れている。枝は落下を止めてはくれなかったが、回転を止める役に立ってくれた。姿勢を変えて、棚状になっている部分に手を伸ばす。つかまる事はできたが、棚はすぐに崩れてしまった。しかし、あきらめずに何度も壁面をつかむ。つかむ所がボロボロと崩れる。それでもなお出っ張っている所に手や足をかけようと必死でふんばった。

 大きな棚に手が掛かり、今度は崩れなかったが、落下により重くなった自分の体重を支えきれず手が離れた。直後別の棚に背中をぶつけ、枝に顔をはたかれた挙げ句に地面に着いた。

 ウルグルは死ななかった。


 マナン村では怪物襲撃の熱も覚めやらぬまま、新たな兵達が到着していた。襲撃からは三日が過ぎ、その間に死傷者の搬出も終え、前線とするための壕や防壁の準備も進んでいた。

 ここにもう一度飛来するのか誰も確証はなかったが、不思議と来るであろう予感が皆の胸にあった。

 怪物の炎は、伝説に語られるドラゴン・ブレスよりも威力がなかった。種族的なものなのか、それとも伝説が誇大に語り継がれたのか、鋼の鎧は溶ける事もなく、中の断熱材はその熱を防ぎきったのだ。重装歩兵のファランクスは、怪物の炎と突風を防ぎきり、長槍をその胸に突き立てる事に成功した。

 前回の攻撃はおかしな連中に邪魔をされた。そのために、命令が混乱し、石弓隊と投げ槍隊の到着を待たずして、重装歩兵と長弓隊、軽装の歩兵隊のみで戦う事となってしまい、それも重装歩兵の長槍が刺さっただけで、不本意ながら逃げられてしまったのだ。

 今度は、邪魔が入っても混乱しないよう、剣を帯びた警備兵が巡回し、騎乗の騎士も待機している。

 村は、今や要塞と呼んでもおかしくない状況だった。


 ウルグルは、深く心地好い眠りから、徐々に覚醒に近づいていた。

 不意に背中の痛みを意識し、その後、頭、顔、手、足、いたる所の痛みが一度に襲って来て、うめき声を上げた。

「お、目が覚めたか。」

 人の気配がする。しかし、動く事ができなかった。

「まあ、目が覚めたのならこれを飲め。」

 口に苦い汁を流し込まれる。せき込みながらもそれを飲み下し、再び目を閉じた。

 痛みは絶間なく続いている。

「薬が効けば痛みはマシになる。まだ休んでいろ。」

 飲んだ薬が効き始めるのには時間がかかる。その間ウルグルは考えた。何でこうなったのか、これから何をすれば良いのか。

 痛みと共に薄くなる意識の中で、ウルグルは復讐を誓った。


 黒い崖では争いが続いていた。

 三人の息子の一人、”知恵のある”ゴバリは村の大半を仲間に引き入れ、”力ある”ドベキはその残りを掌握していた。”器用な”バボバは既に殺されて父親の骨と共に崖の下だった。

 前の族長ゴギは、息子は三人集まってはじめて族長が勤まると思っていた。村に三人で残したのも、自分に万一の事があっても、三人が協力すれば村を治め、周辺を押さえる事ができると確信していたのだ。

 ウルグルは、知恵でゴバリに劣り、力でドベキに敵わず、器用さでバボバに及ばなかったが、それらすべてを持ち合わせていた。ゴギも、三人も、次期族長としての最大のライバルはウルグルだと考えていた。

 今回の襲撃がうまく行けば、手柄はゴギのものであり、失敗すればウルグルのせいにして、息子達の安泰を計ろうという裏もあった。しかし、その思惑は、飢えの前にもろくも崩れ去り、ゴギ自身の命と村の安全はすでに無くなっていた。


 目を覚ますと、そこは洞窟だった。

 ウルグルは痛む体を無理に起こし、周囲を見回した。明るく見える方から冷たい空気が流れて来る。

 体はまだ痛むが、動けないわけではない。体を起こしかけたがめまいを覚え、もう一度横になった。

 人の気配がする。

「起きたか?」

 めまいを無理矢理押さえ込み、目を上げると、そこに小柄なオークがいた。子供ではない、だが年寄りでもない。

「途中一度目を覚ましただけで、十日間も寝込んでたんだ、無理はするな。」

 ウルグルは苦い薬の事を覚えていなかった。飢えは感じないが、力が落ちている事は自覚していた。

「今、食い物を持って来る。ちょっと待っていろ。」

 小柄な男は外へ出て行った。

 今度は上体を起こして洞窟の中を見回した。ちょうど日が差し込む時間なのか周囲は明るい。日光の角度と気温からして明け方のようだ。

 二三歩離れた所の壁が棚状になっており、そこに白っぽい物が置かれている。ドクロだ。

 小柄な男が椀を運んで来た。

「あれは、何だ?」

 手の中の物を油断なく見つめながら尋ねた。

「ああ、族長の遺骨さ。奴等が崖から捨てたから俺が拾っておいたのさ。」

 差し出された椀を受け取る。

「族長のスープか?」

 そう言いながらも飲み干す。

「すまんな、あの骨は埋葬しなきゃならんので、そういう用途には使えないんだ。トカゲだよ。」

 トカゲのスープは、ウルグルにとって鳥のスープと大差ないものだ。

「変わった奴だな。」

「ああ、オークらしくないだろ?人間達と長く一緒にいたからな。」

 小柄な男の顔を見る。オークそのものの顔だ。鼻は上を向き鼻孔が大きく、口は裂け犬歯がはみ出ている。耳の上端が尖り少し垂れている。目の周りにはしわがあり、皮膚は灰色にくすんでいる。どれもこれもオークとしては普通の顔立ちだ。

 顔を見ていて、ふっと、ゴギの事を思い出した。

「まさか、もう一人いたのか?」

「正式な子ではないけどね。それでもおやじはおやじだ。」

 その眼が輝く。

「あんたは、俺の兄弟どもに殺されかけた。だが、こうして生きている。」

「何が言いたい?」

 ウルグルは雰囲気に飲まれまいと、体に力を込めた。痛みを無視して、いつでも動けるように体勢を整える。

「復讐だろ?」

 小柄な男が耳元でささやいた。

 ウルグルの頭の中で、言葉が形を取り像をなした。崖の上にいるのは自分自身で、三人は黒い崖の下で骸を野犬にかじられている。

 ウルグルの腕が動いた。

 小柄な男の喉元に、包帯を巻かれた手が巻きついている。

「おかしなマネはするな!」

 ウルグルが吠えた。

 小さな男は恐怖にすくみ、首に絡んだ指から逃げようともがく。

「お前は誰だ!何者だ!」

 さらに吠える。ウルグルの声は洞窟を揺らし、周囲に恐怖を叩きつけた。

 小柄な男は、半ば放心したように目を見開き、口は揺れ、手足は小刻みに震えている。足には力が入らず、ほとんど首吊り状態になっていた。

 ウルグルは手を放し、倒れそうになる体に手を貸した。小柄な男はへなへなとへたりこんだ。

 しばらくして、目の焦点が定まらぬまま震える声でこぼした。

「すごいな・・・。」

「何者だ?」

 今度は静かに尋ねた。

「黒の魔術師ロウギー。西の魔術師学校で魔術師を名乗る事を許された。おやじは黒い崖族のゴギ、おふくろの名は知らない。ゴアナ公国マナン村の女だった。人間だ。」

 人間。その事が頭にしみ込むのに時間がかかった。

「俺は生れてすぐに殺されかけていた所を、旅の師匠に拾われたんだ。」

 オークと人間の子、マンオークだったのだ。外見はたまたまオークに似ているが、中身は人間という事に他ならない。

「復讐と言ったな。それはお前のか?」

 問いはしたが、答えには興味はなかった。言われなくても、ウルグルに復讐は必要だった。負けたわけではない、今度は戦う意志が沸いて来た。

「黒い崖に復讐したいのだな、お前と言う存在を生じめたゴギの一族に。自分を捨てた人間に。」

「お前の力が必要だ。そのために助けた。そして、お前もそれを望むはずだ。」

 小柄な男、ロウギーの声に熱がこもり始めた。

「ああ、望む。復讐の力を。」

「その言葉を待っていた。」

 魔術師の呪文は寄り代を得て、形を成す。

 ウルグルの体は、まず大きく膨らみ、皮下で泡が移動しているように、表皮が腫れたり窪んだりを繰り返した。その体が元の二倍程度になると、表面の動きが収まり、見る間に皮膚が変化し、岩のようにゴツゴツとした硬い物に変わった。

 ウルグルは、今や既にオークではなく、ウルグルという名の怪物へと変貌したのだ。


 ワイバーンが現れた。その報は兵達の間を瞬く間に駆け巡った。

 兵達は、かねてからの計画通り一本道の真ん中にファランクスを置き、その両脇の茂みに弓兵を隠した。残りは防壁から機を窺う。

 じきにワイバーンの姿が見え始めた。高い位置から降下を始めた所らしく、その姿が見る間に大きくなって来る。

 敵の攻撃ルートは、予定通りファランクスに向かっている。重装歩兵は長槍を持つ手に力を込め、弓兵達は矢をつがえる。

 充分引きつけてから長槍を構える。前回と同じく、相手の勢いを利用して貫こうという作戦だ。弓兵達も矢を射かける。

 しかし、ワイバーンは長槍の届くよりも前に右へ旋回し、通り過ぎざまに炎を吹きかけて行った。その方向に居た弓兵達は炎に巻かれ、反対側の者も通過の衝撃で吹き飛ばされた。

 目標を見失った重装歩兵はバラバラの方角を向き、怪物の姿を追った。

 防壁の後ろで炎が踊り、軽装の兵達が慌てて飛び出して来る。騒ぎに気付き重装歩兵が後ろを向いた時、防壁を乗り越えて怪物が姿を表わした。そのまま翼を広げて上昇し、再びファランクスめがけて急降下し、先程と逆の側を炎でなめた。さらに、通り過ぎざまに重装歩兵達を長い尾で薙ぎ払った。

 騎兵は馬で追うが、空を縦横に飛ぶ怪物に追い付けず、むなしくランスを揺らすばかりだった。

 重装歩兵はその重い鎧のため起き上がる事もできず、弓兵のほとんどと、防壁の後ろに居た者は火傷を負っていた。ワイバーンは勝利を確信し、彼らを今夜のゴチソウに決めた。

 急降下するとその勢いを借りて重装歩兵達を踏み潰す。その足の下で長槍が折れ、鉄の鎧がひしゃげる。二歩三歩歩いた後、目の前にいる人間を喰らった。動ける者が武器を手に近づくのを避けて上空へ舞い上がり、また別の場所に下りては動けなくなっている人間達に噛みつく。

 すでにここは、ワイバーンの餌場と化していた。

 舞い上がり、降りて喰らい、また飛び上がろうとした時、尾が何かに引っ張られるのを感じて首をめぐらした。

 見ると岩に尾の先が引っ掛かっている。いや、岩ではない。

 その場の人間達は新たな怪物の姿に驚愕した。そして、ワイバーンは人間達よりも驚いていた。尾を掴んでいる者は大きな人型の生き物で、ゴツゴツとした硬質の肌をしている。人間達はこのような生き物を年月を積み重ねるうちに忘れてしまっていたが、ワイバーンは出会うと厄介な相手として覚えていた。

 その姿はトロールのそれだった。

 ワイバーンは自由になろうと、体を反転して尾を振り回すが、相手はびくともしない。炎を吐きかけようと息を吸い込んだ瞬間、尾を引っ張られて体が半回転し、吐き出した炎は半円形を描いて周囲を焦がした。

 さらに、尾に引きずられ、ワイバーンの巨体が横倒しとなり、そのまま引きずられて一瞬宙に浮いた後地面に叩きつけられた。

 ワイバーンは痛みとそれからくる怒りの咆哮を上げた。人間達は、その声に恐怖を抱き、武器を取り落しその場にへたり込んだり、恐慌に陥り逃げ惑ったりし始めた。

 硬質の怪物は、倒れているワイバーンの鼻面を拳で殴りつけ、長い首のあごのつけねの辺りに腕を回して絞め上げた。ワイバーンのあがきは長くは続かなかった。窒息ではなく、首の骨が砕かれていたのだった。

 黒衣の小柄な男がどこからか現れ、剣を渡す。怪物は、剣を受け取るとワイバーンの首を切り、片手でその首を持ち上げた。

「よくやった、ウルグル。」

 その言葉は族長を思い出させ、ウルグルはにやりと笑った。


 黒い崖に怪物が現れた。

 族長”力ある”ドベキはその報を聞いて戦士達を招集した。ここしばらく争いが続いたため、その数は減ってしまったが、誰もが戦い慣れしていた。

 最後まで族長の座を争った”知恵のある”ゴバリは、その策略もむなしく力の前に倒れ、今では崖の下に骸をさらしている。ドベキは黒い崖族族長の座を手中に収めたのだ。

 ドベキは領地の外れまで戦士達と共に進んだ。当然、戦場では先頭に立ち、誰よりも勇敢に戦う。だからこそ、戦士達はドベキに敬意を払い、族長と仰いで従うのだ。

 大きな人型の怪物が、大きな塊を持ち、黒い小さな影を従えている。その姿が近づくにつれ、持っている塊に皆の目が集中した。

 刺のあるハ虫類の顔、つい最近耳にした、そう、ワイバーンの顔だ。

 その顔と同じくらいのサイズの人型の生き物、巨人、オーガー、トロール、かつてオークが暗黒の軍勢に荷担した際、戦場で肩を並べた大きな連中に似た奴が歩いて来る。

「でかいの、何の用だ。」

 族長が大きな声で問いかけた。

「ドベキ、久しぶりだな。」

 族長は、突然名前を呼ばれて驚いた。このような知り会いなどいない。代々語り継がれて来た中に、大きな連中と共にいた時代があった事は知っていたが、現実に出会う事などまったくなかったのである。

 怪物はなおも近づいて来る。その顔が判別できる所まで来ていた。どこかで見た覚えがあるような気がする。

「バボバとゴバリは、もう片付いたのか?」

 ドベキは、はっとした。

「ウルグルか!?」

「そうだ!」

 そう言った瞬間、ウルグルは首を投げ捨てて走り出した。ドベキも剣を抜き走り出す。戦士達もそれに従った。

 ウルグルは重い剣を軽々と振るった。ドベキはそれを受けるが重い剣の勢いを止められず、弾き返された。二振り、三振り、いずれも剣を止める事ができず、かわすのが精一杯だった。

 戦士達は援護に弓を引いたが、飛んだ矢は、ウルグルの硬い皮膚に阻まれ、刺さる事はなかった。

 隙をついてドベキが突きを入れたが、ウルグルはそれを左手で払い、体勢が崩れた所へ切りつけた。重い剣はドベキの胴に喰い込み、背骨で止まっていた。ウルグルが左手を添えて剣を引き抜くと、ドベキの体は力なく地面に倒れ込んだ。

 戦士達は、族長の死を前に動きを止めた。並みのオークであればこの瞬間に逃げ出しただろう。黒い崖族の戦士達は真の戦士として成長していた。

「ここにいるのはウルグルだ!族長ゴギの汚名を晴らしに来た。」

 小柄な男が声を張り上げた。戦士達が小柄な男に注目する。

「そこに持って来た首こそが狩猟場を荒らしていた張本人だ。こいつがいなければ全てがうまく行っていたはずだ。ゴギは族長のままでいられたし、その息子三人も死ぬ事はなかった。」

 言葉を切った小柄な男の代わりにウルグルが話し始める。

「ドベキ達は、ゴギの言う事を聞かず、殺してしまった。だから今殺されても文句は言えまい。だが、彼はどうやら良い族長だったようだ。それは今の戦いと、君達を見れば分かる。」

 戦士達はウルグルに敬意を表した。今の言葉で、ウルグルの正当性を認めたのだ。


 ウルグルは黒い崖に戻り、一族全てに認められ、新たな族長となった。その宴にはワイバーンの首が供じられ、ここしばらくの一族の飢えは癒された。

 小柄な男ロウギーは、ウルグルに影のように付き従い、助言をし、様々な働きをした。その結果、周辺のオークどもは、黒い崖族族長ウルグルを王と仰ぐようになった。

 オークの王国は、やがてワイジス王国と手を組み、かつての暗黒の軍団の仲間と共に人間達へ恐怖を与えに行くこととなる。

 まだ、人間達はそのことを知らなかった。


怪物ウルグル誕生の物語、キーパーソンのロウギーについてはまたの機会に書きたいと思います。

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