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朱天の詩  作者: 千年寝太郎
第一章
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第五節

 暗闇の中、必死に探し回った。

 どこかに、出口は無いか。

 どうやったら、家へと戻れるか。

 戻れるはずも無かった。

 だって、私は――――。



―――5月11日(火)同刻 鬼界颯―――



 これはとてもまずい事になった。

 いつかは起こりえること、と予測はしていたのだが、実際に起こってみると、これは結構どうやったらいいのか分からない。

 そういえば翡翠にこのラーメン屋の事を教えていたことを思い出して、少しだけ、後悔した。


 とにかく冷静になれ、と颯は自分に言い聞かせた。


「お前は、誰だ?」

 巧が尋ねてくる。

 三年ぶりに見た顔は、とても大人びていて、それでいて、颯と全く同じ顔をしていた。遺伝子が同じというのは、違う環境で育っても、ある程度の外見的類似性を生み出すから恐ろしい。

 久しぶり、と声を掛けてみるべきだろうか。

(まあ、そんなに深く考えても、結果は変わらないか)


「おい、大丈夫なのか?あいつ……」

 結局顕在化は身に付かず、颯の力を借りて顕現し、ラーメンを待って座っていた金剛が、深刻そうな顔をして尋ねてくる。

「ああ。……少しごたごたになりそうだから、ラーメン食って勘定よろしくな」

「……ああ……」


 頷いてから、金剛は一時停止して、

「待て。金は置いていけ」

「……ちっ」


気づかれたことに舌打ちをして、颯はポケットに突っ込んであった財布の中から、千円札を取り出した。

 それから、気を取り直して、颯は軽く手を挙げる。


「よう。久しぶり」

「……お前はナニモンだ?」

 巧は剣呑な目つきで睨んでくる。

「鬼界颯だって。お前の弟の」

 これは本当。

「馬鹿を言うな。颯はそんな口調で話さねえ。もっと丁寧な口調だった」

「三年も会わなきゃ、口調の一つや二つ、変わるさ」

 これは、少し嘘だ。確実には、精神が混ざり合った結果、こういう性格になった。それだけだ。

「じゃあ、なんで三年間、連絡の一つも寄越さなかった?みんな心配していたんだぜ?」

「連絡の取れないところにいたからな」

 実際に連絡は取れない場所に居たが、会いに行こうと思えば会いに行けた。

「今になっても連絡を寄越さなかった理由はなんだよ?」

「連絡する必要が無かったから」

 連絡をしない方がいいと判断したからだ。会うことで、混乱をきたすのは明確だったから。

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だ」

 そう。詳細は語らずとも、そのままの意味。

「だから、どういう意味なんだって」

「連絡したところで、誠はともかくお前は、絶対に信じないって思ったからな。止めておいた」

「何をオレが信じないってんだ?」


 颯は肩を竦める。

 余計な希望を抱かせてはいけない。事実はここで伝えておいたほうが、後々、誤解も後悔も生み出さなくていい。

 分かっていても、唇は少しだけ、震えた。

 それでも不敵に笑ってみせる。


「俺がもう死んでいるっていう事だよ」


 おそらくは条件反射だったのだろう。巧は腰に吊るしている刀を即座に引き抜いて、颯の首筋に向けて叩きつけようとし―――それよりも遥かに素早く、いつでも彼が襲い掛かって来てもいいように用意していた颯の扇子が、巧の刀を受け止めた。


「おいおい、よしてくれよ。ここは飯を食うところだぜ?他のお客様に迷惑だ」

「ふざけるな。今ここでてめぇを叩き伏せて、正体を晒してやる!」

 刀に力が籠る。


(やはりこうなるか)


 颯は小さく息を吐き、扇子を手の中でくるりと回して刀を受け流す。目の前の巧がよろけるとほぼ同時に、その横を足の裏に妖力を込めてすり抜けた。

瞬間。驚いたような表情の天霧八尋と目が合ったが。敢えて視線を逸らして外へ出たところで、巧の怒鳴り声が聞こえた。


「待ちやがれ!」

「頭に血が上り易いことで。昔から変わらねえな」

 足の裏に霊力を込めて追って来る巧を見て、颯は笑った。


(ここで顕在化を解けば、あいつに俺は見えなくなるが……それじゃあ、解決にはならないか)


 冷静に判断し、しばらく追いかけっこをして、巧の頭を冷やすことにした颯は、そのまま町中へ向かって駆け出した。

 霊力が人間の使う、自らが作り出せる神秘だとすれば、妖力は妖怪が作り出せる神秘である。使用用途は霊力とほぼ同じ、体内で練り込んで身体能力を高める、というところから始まり、術の行使に必要なエネルギーまで、用途の応用範囲は広い。

 違うところがあるとすれば。

 人間よりも妖怪のほうが、遥かに元の身体能力が高い、という所か。

 なので、同じような速度で動いても、人間と妖怪では力の消費量にかなりの差がある。窓伝いに壁を器用に登れば、巧は確かについてくる。そのまま颯がひょいひょいと屋根を飛んで渡れば、まあ、巧もついてくる。ただ、巧はあからさまに体力が削れてきているらしく、呼吸が荒くなってきている。一方の颯は全く息切れしていない。


(巧は昔から体力があったけど、さすがにこの動きにはついてこれないか)

 そろそろ、屋根から足を踏み外して落ちてしまう前に、一度小休止をした方がいいか。

 そのように気遣って振り返れば、一気に速力を上げて突きの一閃を繰り出してくる巧の姿があった。


「うわっと、あぶね」

 それを紙一重でかわし、巧と距離を取った。

「ちっ、惜しい」

「ああ、もう。体力お化けなのは変わらねえか」

「てめえに変わらねえって言われる筋合いはねえ。どうせあれだろ、颯の記憶を奪ったとか、そういう類の野郎だろうが。たまに妖魔でもそういう奴がいるって聞いたことがある」


 何度も荒い呼吸を吐き出しては吸って、を繰り返す巧。

「妖魔と一緒にしてほしくはないんだが……。ていうか、まだ俺が死んだって信じてねえのかよ」

「ったりまえだ。颯がそう簡単にくたばる筈がねえ」

「その信頼はありがたいけれど……」


 まっすぐな目で告げられて、少し颯は言葉に詰まった。

 けれどね、本当に死んでしまったんだよ。

 これは、事実。信じられないのならば、自分の骨でもなんでも見せられればいいのだが―――今、この段階でそれができない。


「ていうか、それなら今、目の前にいるお前は一体何になるんだ?幽霊か何かか?」

 いや、巧のその言葉は割と合っている。

「そんなトコロ」

「馬鹿を言うな。幽霊は明治期初頭に居なくなった妖魔の一種だぞ」

「そう伝えられていたけれどな、本当は違う。見えなくなっただけさ、殆どの人間が。見鬼の才能を失って、な」


 巧が眉間に皺を寄せた。どうやら、聞き覚えのない単語に反応したらしいが、相変わらず、頭を使うのは嫌いであるらしい。

「なんだよ、それ!」

 すぐに尋ねてくる。


「幽霊とか、妖怪とか、霊的存在を見る能力の事。明治初頭、一部の一族を除いてすべての人間が見鬼の才を失った。この世界から、妖怪などの意志のある霊的存在を全て他の世界に移住させることを条件に、人間が差し出した才能だ。お前らが脱獄囚っていう黄泉の国から逃げ出した死者の魂を見えないのは、その才能の欠如が原因だ。だから嫌な感じがしたら、そこに近づくんじゃねえぞ。お前、短気で考え無しだから、すぐに突っ込むだろう?」

「はあ?何を知った風な口を!危険はすぐに排除しなけりゃ、次の被害を呼ぶかもしれねえだろうが!」

「勝てない相手に突っ込んで行くのは、ただの自殺だよ。お前、誠を一人にするつもりか?」

「っ……」


 歯ぎしりをして、巧が視線を逸らした。なんだか気まずい表情を浮かべている。彼のこういう表情の時は、大抵。

「なんだ、また喧嘩してんのか?」

「うっせえ!あいつ、帰って来いってうるさいんだよ!」


 痛い所を突かれれば、すぐにキレる。そこまで三年前と全く一緒で、颯はくつくつと笑った。

 ああ、本当に変わらない。普段通り楽しい兄弟の時間がまだ続いていることが、本当に嬉しい。できることならばその時間に帰りたいが―――それはもう、叶わない。

「笑うな!糞、調子狂うな!」

「別に笑うくらいいいじゃねえか」

 笑いを必死に抑えた颯は、そして。


 地脈が蠢く気配を感じ取って、表情を引き締めた。


(なんだ?)

 嫌な感じがする。


 この世界―――人間が見鬼の才を失い、人の想像や感情から生まれた妖怪すら立ち去り、虚ろとなった世界である、虚無界において、発生しない筈の気配がある。その方向へと、素早く颯は視線を動かした。

 途端。

 巨大な黒い輝きが、空へまっすぐに伸び上がった。


「な、なんだ、あれ!」

 巧が驚きの声を上げるあたり、虚無界で常日頃発生している光ではないことが分かる。

「負力……?いや、なんだ、この、感じ……?」

 巧の顔から汗が噴き出る。おそらく、冷や汗。それも仕方がない、と颯は思ってから、指を鳴らす。巧の周囲に瞬時に結界が張られた。人一人が丁度立っていられる程度。蹴破ることはもちろん、持っている刀を振りかぶるスペースは作っていない。


「な、なんだよ!これ!」

「こうでもしなきゃ、あそこに行くだろ、お前」

「当然だろうが!」

「止めとけ。死ぬだけだから」


 結界を殴り、巧が答える。

「誰が死ぬか!」

「死ぬんだよ。誰だって、いつかは。よーく覚えておけよ」


 颯は踵を返して、黒い輝きが立ち上る方へと、ビルの屋上を足場にしながら駆け出した。

 背後で「待て!」と巧の叫ぶ声が聞こえたが、それに気を払っている余裕はない。

 飛んだ。地面とほぼ平行。地面からは数十メートルある位置で。宙に浮いた足が、そのまま大気を掴んで更にまた、高く飛んでいく。風をきり、向かう先は黒い光が立ち上る場所だ。

 上空で足を止めて様子を見る。そこは商店街で、古い商業施設が所せましと並んでいた。そして、人で賑わう商店街の交差点に、黒い光が立ち上っていた。黒い光の根元には、蠢く無数の小さな霊がくっつき始めている。それは怨念と言われたりするものの類であり、おおよその人間には見えない、感情の塊だ。


「なに?」「また警報が鳴らなかったぞ!」「逃げろ!」

 何が起こったのか分からない人間たちは、戸惑い逃げ回りつつも、怨念たちから離れて行っている。


 さて、問題は。

 今、まさに集まり、巨人として形を作りつつある怨念たちが、人間を襲うやもしれない、ということである。

 あれはいわば怨霊と呼ばれる化け物で、この虚無界では発生することのない亡者である。


「地獄の門が開いたことで、地脈に変化が生じたのか……?何にせよ、やばいな」

 軽く腕まくりをして、爪先で大気を叩けば、体はすっと重くなって、地面へと落下する。人間ならば足が折れ、全身が粉々に砕けるはずの高さから、華麗に着地した颯は、ポシェットから札を取り出した。

「借りるぜ、千花。“金剛招来”!」


 空高く放り投げた札が、強い輝きを放つ。輝きは光の線となって、怨霊もどきを取り囲む。何をしようとしているのか、本能で感じ取ったのだろう。怨霊は札を握りつぶそうとするが、

「させないぜ」

それよりも早く、颯はその場で強く拳を握りしめた。


 途端、札に描かれた文字が浮かび上がる。瞬間、怨霊もどきの札を握りつぶそうとしていた腕が弾け飛んだ。

「そこは俺の領域だ。勝手はさせねえ」

 にやりと笑って、告げた。

 その背後。

「……なんであなたが、その結界を使えるの!」

 声が飛んできて、颯は肩を震わせた。振り返れば、そこには天霧八尋が立っている。

(……やべ)

 巧と会った時以上に焦った。

 この結界を使っているところを、見られたら。



―――5月11日(火)17:20 天霧八尋―――


 通常、結界は場を二つに分断し、攻撃などを防ぎ、時に敵を閉じ込める檻だ。

けれど、天霧の結界は少し違う。いわゆる領域結界と呼ばれる結界は、結界の中を完全な異世界に仕立て上げることができる。結界の中は術者の領域であり、敵を好き勝手にできる。つまり、防御だけではなく、捕らえた相手ならば攻撃もできる結界である。

 この結界は血筋に由縁するものであるため、通常、天霧の血を引く人間以外は、領域結界を扱えない。だからこそ、天霧は昔から祓魔師に重宝されてきた。唯一絶対の結界術。その正当な後継が八尋。

だから、八尋は領域結界を使える全ての人間の顔を知っている。


 そのはずあった。

 けれど。

「なんであなたが、その結界を使えるの!?」

 目の前で領域結界を使っているのは、クラスメイトである鬼界巧とうり二つの顔を持つ少年。天霧とは全く関係ない血筋の少年だった。


「え、えと、それは……あーと……」

 そして、少年―――自称「死んだ人間」である鬼界颯は困ったように視線を彷徨わせている。

「って、あ、結界、結界!」


 結界の内側に閉じ込められている、黒い靄のようなものが暴れ出し、慌てて八尋は指摘した。ていうか、あの黒い靄は一体何なのだろうか。負力とは異なる気配を発している。この間、道で偶然出会った奇妙な妖魔に似た気配だ。人の形をしていて、人のように見えて、けれど、心の底からの恐怖と畏怖が同時に沸き上がるような、気持ち悪い感覚。

 その黒い靄の背後には、黒い輝きが高く空へと伸びている。

 こんなもの、見たことがない。


「暴れんな……よ!」

 舌打ちをして、素早く颯が印を切った。同時、周囲に張られた術札が強く輝き、領域結界が縮小した。黒い靄は苦し気なうめき声を上げた。そのまま振り上げた黒い靄の拳のようなものは、再び予兆もなく爆発し、今度は人間でいう右腕が消えた。


(すごい)

 八尋はぐっと息を呑んだ。

 颯の領域結界は、八尋のものと異なり、逃げ道が一切ない、完璧な結界だったからだ。空中に止まらせる札を起点に作り上げる領域結界は、札が弱点である。その札を潰されれば、結界は弱まり消える。

 その札を護るために、結界内を全て自らの支配下におき、敵に一寸の隙も見せず、下手な動きをすれば肉体ごと爆破する。

 三十年は修行が必要と言われる、領域結界を完全に使いこなしている。


 信じられない。

 天霧の人間ではない。

 いや、そもそも彼は人間なのか?


「うっし、このまま一気に……潰す!」

 颯が力強く柏手を打てば、結界は一瞬のうちに掌の上に乗る程度まで収縮し、弾けて消え去った。

「やった!」

「まだだな」


 八尋の確信を得た言葉に、しかし颯は冷静に答えて目を細めて、一歩、足を引いた。

 途端、左腕にまるで巻き付くように、何かが現れた。八尋は一瞬理解ができなかったが、しっかりと見て、理解した。白い炎。冷たくもなく、熱くも無い。無機質で、それでも通常の炎よりも更に明るい、眩い輝き。それが颯の左腕の表面から発生していた。


「金剛、翡翠!このまま地脈を一気に元に戻すぞ!」

 颯の言葉に、答える声があった。

「了解、なのじゃ」

 一人は、着物を着た長い黒髪を持つ幼女の姿をした、翡翠。彼女は知っている。いつの間にか、八尋の後ろに立っていて、八尋は少しびびった。

「あいよー」

 もう一人は、金髪の青年だ。彼は商店の屋根の上に立っていて、ぼんやりと黒い光を眺めていたが、ため息を吐きながら立ち上がった。彼は、金剛という名前なのだろうか。彼は屋根の上から飛び降りて、面倒そうに呟く。


「なんでこっちの世界に来てまで、地脈調整をしなきゃなんねーんだよ?」

「しょうもないじゃろう。世界の危機じゃて。文句を言っている暇はないぞ」

 金髪の青年を叱りつけ、翡翠はにかりと笑った。

「さあて、ゆくぞ、颯!準備はいいかの!」

「勿論」


 言うと共に――颯は白い炎を纏った左腕を振った。炎が地を這うように黒い輝きへと向かっていく。黒い輝きと白い炎がぶつかり合った瞬間に、黒い輝きの色が変色。まるで黒い絵の具の上に薄い白い絵の具で塗ったかのような、灰色へと変色していく。それまで地面から発生して立ち上っていた輝きは、動きを止めて静止し始めた。

 みるみる内に出来上がったのは、灰色の氷の柱だ。


「んじゃ、やってやんぜ」

 金髪の青年は地面に掌を置く。すると、見たことのない、しかし漢字によく似た文字が翡翠の周囲と、それから灰色の氷の柱を取り囲む。

 それを確認してから、翡翠は声を上げた。


「それでは地獄の皆々様!ここに現れたるは本来、虚無界に現れるハズは無かった、人為的関与が一切ない地脈の乱れ!そしてあなた方の長年の平和ボケの結果である!」


 地獄。虚無界。地脈の乱れに平和ボケ。

 一体何のことやら、分かるようで分からない。


「とっとと承認せい、馬鹿共が!此度ばかりは拒否する理由は無いじゃろう!」

 ぶるり、と八尋は震え上がった。急に辺りが冷えてきて、足元には霧が発生していた。霧は徐々に濃くなっていき、その中に、幾つか人影が見え始めた。呼吸が苦しくなってくる。吐き気がこみあげてくる。何が起こっているのかは分からないが、ここに居たら死んでしまう。そんな言いようのない生命の危機感を持ち始めていた。


「よっと」

 目の前に、突如、温かい赤い炎が浮かび上がった。炎を挟んで向こう側には、真っ赤な瞳をした鬼界颯の顔があった。

「悪いな、巻き込んだ。吐き気とかは、まだあるか?」

「……え、あ、あれ?」

 問われてもう一度、深呼吸をする。呼吸は楽だ。吐き気はない。


「生きていたり、慣れていない奴にはこの霧はちっとばかし辛いもんなんだよ。俺の近くから離れるなよ?下手をすれば魂を持っていかれるぞ」

「持っていかれるって……一体何に?」

 八尋の問いかけに、ふむ、と小さく颯は声を出して、それから指をさす。

「あいつらに」

 視線を動かして、ぎょっとした。


 霧の向こう側から現れたのは、文字通りの“鬼”だった。額に角を持ち、牙を持つ。ただ、顔が怖いということと、肌の色が赤、青、緑であるという以外は人間とさほど変わらない姿かたちをしている、スーツ姿の鬼が三人。彼らは翡翠の前に立ち、告げる。

「十番、承認する」

「八番、これを承認する」

「十七番、承認」

「遅い!」


 無表情で同じ言葉を繰り返す鬼たちに、翡翠は一言。すると、


「「「すみませんっした!」」」


三人の鬼は声を揃えて翡翠に深々と頭を下げた。幼女に鬼が頭を下げているとは、これまた珍妙な光景だ。

「おぬしら、仕事を何だと思って居るのじゃ!仕事は迅速な対処が第一じゃろう!」

「だってこいつが」

 隣の緑色の鬼を指さす赤鬼は、

「だってそいつが」

更に隣に立つ青鬼を指さし、

「あれ、坊ちゃんじゃねえか。また家出か」

青鬼は金髪の青年に気づいて声を掛ける。


 すると、

「なんだ、また金魚の糞をしているのか」

緑色の鬼が呆れたようにため息を吐いて、

「いい加減に稼業を継げよ。親父さんもおふくろさんも心配しているぞ」

赤鬼が眉間に皺を寄せて告げて、

「反抗期長いよな。もう二十四だっていうのに」

青鬼は肩を竦めて、


「「「誰と一緒にいたって、お前の下っ端気質は変わらないよ」」」


三人が声を揃えた。

「やかましい!ほっとけ!」

 金髪の青年は顔を真っ赤にして呻いた。

「お前ら、千花のことはいいから仕事しろ」

「颯、頼むから本名で呼ばないで」


 颯の言葉に反応して、金髪の青年が頼み込むが、颯は無視した。

 鬼たちは顔を見合わせて、

「まあ、赤髪鬼さんのご要望ですしね」

などと言ってから、鬼たちは灰色の氷の柱の周りを取り囲み、ぶつくさと言葉を呟き始めた。すると、氷の柱の色が、上のほうから徐々に抜けていった。やがて氷の巨塔の色が通常の氷と同様の透明へと変化した頃には、辺りの霧も大分収まっていた。


「「「これにて終了。報告のため、地獄へ帰還する」」」


 じゅわり、と音がする。鬼が一瞬で消えた音だった。

 霧はゆっくりと晴れ、やがて静かな商店街の姿が露わになった。

 終わったのだろうか。


「はい、お疲れ」

 八尋の目の前に浮かんでいた炎を握りつぶし、颯は彼女から視線を外した。

「さて、帰る―――」

 そんな彼の服の裾を、がっしりと八尋は掴んだ。


「まだ、答えてもらっていないのだけれど」

「……何の話だったかな?」

 とぼけている。

「いろいろと、よ。まず、あなたはなぜ、天霧の結界術を使えているのか」

 颯は八尋と視線を合わせようとしない。上等だ。

「それと、さっきの黒い靄と光はなんだったのか」

「ははははは」

 笑いごとではない。

「更に、先ほど鬼界くんに言った言葉」

「俺も鬼界だけれど?」

「話のこしを折らないで」

「だって答えたくないから」

「なんで答えたくないのよ?」

「赤の他人のお前が知る必要がないから」

「赤の他人じゃないわよ。私は天霧の次期当主よ。天霧の結界の使い手の情報は、全て覚えておかなきゃいけないの」


「いや、赤の他人だ」

 声のトーンが下がった。声色が冷たくなった。少し驚いて、そっと八尋は颯の顔を覗き見る。ただ、赤い瞳が暗闇を迎えた空の下で、爛々と輝いているように見えた。

「他人なんだよ、お嬢さん。キミたちは縁を一度切ったから。俺が使った結界術と、キミが言う天霧の結界術はもう別物だ。詳細はキミの親父さんが知っている筈だ。確かめてみたらどうだ?」


 どういう意味?そう尋ねようとした、颯の服を握っていた八尋の掌から、感覚が突如として無くなった。はたと気づいて見れば、一瞬にして目の前にいた筈の颯の姿が無くなっていた。

 まるで化かされたかのよう。

 辺りを見渡しても、ついぞその姿は見つからず、静かになった商店街が広がっているだけ。翡翠も、千花と呼ばれた青年の姿もない。


「み、見えなく……なった……?」

人の死角に入る術を使ったのだろうか。慌てて気配を探るが、八尋は彼らの姿や気配を完全に捉えられなくなってしまった。

 姿が見えなければ、存在を感じなければ、追うことは不可能だ。


「もう、ずるい!ずるいよ!」

 声を上げて抗議をしても、返ってくる言葉がない。

「……仕事に忙しいお父さんに、聞けるわけがないじゃない」

 ぽつりと、本心が漏れた。

 時。


「天霧!」

「きゃあ!」

 背後から突然声がかかって、思わず八尋は悲鳴を上げた。

 慌てて振り返れば、そこには目を丸くして驚いている鬼界……巧がいた。颯とあまりにも顔が同じなので、一瞬巧か颯か分からなくなったが、巧のほうが髪が短いので、そこで判別をした。

「なんだ、鬼界君か」

「なんだとはご挨拶だな」

 巧はむすりとしていて、機嫌が悪い。


「なあ、俺と顔の同じあいつ、こっちに来なかったか?」

「……颯君のこと?」

「あいつは颯じゃねえ!」

 強い口調で巧が叫んだので、八尋は驚いた。巧は苛立った様子で続ける。

「颯はな、昔っから気が弱くて、よく泣く奴だったんだ。けれど誰に対しても丁寧で優しくてよ。それがあんなぶっきらぼうでやけに自信がありそうで、生意気になっちまって……。絶対何かにとりつかれている!そうに決まっている!」

 相当、弟の性格が変わってしまったことを認めたくないらしい。


「そういえば三年間会っていなかったって言っていたけれど、彼、どこに行っていたの?留学?」

 その、八尋の何気ない質問に。

 巧はどこまでも重い口調で答えた。

「……行方不明だったんだ。三年前……誕生日のその日に地元の寺の御堂で、大量の出血だけを残して」


―――俺はもう死んでいるってことだよ。

 颯の言葉が、八尋の脳裏で蘇る。



―――5月11日(火)同刻 鬼界颯―――

「逃げたな」

「逃げたのぅ」

「おっしゃる通りで」


 商店街の屋根の上、顕在化を解いて、八尋たちの目に自分たちの姿が見えなくなった状態で、金剛と翡翠の二人の仲間の指摘に、鬼界颯は頭を抱えながらも認めた。

 本当は、とても気弱で脆弱で。けれども、何度も巧とのやり取りをシュミレーションした結果、自信満々な彼の態度を真似しきった―――筈だった。

 天霧八尋が現れるまでは。


 詰まる所、鬼界颯とは、予想外の出来事に滅法弱い。昔から性格が全く変わってはいない。変われなかったまま、死んだ人間の魂である。

 ただ一つ。身の内に、もう一つの生きたとある魂を持っている、という点以外は。

 死者は成長しない。学びもしない。

 その常識を覆しているのは、颯を仮初の生者として、地獄に認定させた恩人がいるからに他ならない。


「けれど、颯。演じ続けねばならんぞ。今後、来るべき時に備えて」

「……分かってるよ」

 翡翠の言葉に、颯は小さく頷いた。


「分かっている。私は演じ続けなければいけないんだ。そうしなければ、この三年間の意味が無くなってしまうから」

「素が出ているぞ。口調、しっかりと直していけよ」

「ああ」

 金剛に言われた通り、自分を隠して、颯は立ち上がる。


 眼下に居るのは、八尋と巧。二人は何か、真剣な表情で話し合っている。

「演じ切ってみせるさ。あいつを地獄に堕とすまでは」

 その、赤の入り混じった黒い瞳は、しっかりと未来を見据えていた。


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