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朱天の詩  作者: 千年寝太郎
第一章
7/10

第三節 五行八卦術式

―――5月11日(火)13:30 天霧八尋―――


 いや、なぜこうなった、と心の中で何度も疑問を繰り返す。

 祓魔堂特殊学科1年A組。それが天霧八尋が所属するクラスである。特殊学科の生徒は基本的に祓魔局新宿支部にて勉学をし、同学年の祓魔師よりも一歩も二歩も進んだカリキュラムを受ける。時折、渋谷区に置かれている基礎学科の祓魔堂と交流する程度。


 ここまではいい。

「ほれほれ、遅いぞ小僧!」

「こんの、チビが!」


 今の問題は。


 新宿支部には訓練場が幾つかあり、今、八尋はその一つに居るのだが。

「ほれほれほれ、遅い、遅いぞ!大雑把、実に大雑把な攻撃じゃのう!」

「うるせえ!今すぐ黙らせてやる!」


 何なのだろうか、この状況は。

 妖怪と名乗った少女・翡翠と、鬼界巧が乱闘を繰り広げる、この状況は。しかも、クラスの中でもトップの近接戦実力者である巧の刀が、悉く煙管にいいようにあしらわれている。


「ほれ、隙あり」

「うぎゃ!」

 ふわりと浮いて巧の大ぶりの刀をかわしたところで、翡翠は巧の手を煙管で叩く。痛みに巧は悲鳴を上げ、思わず刀を取り落とす。落とした刀は即座に翡翠が確保し、にやりと彼女は笑った。


「はい、わしの勝ち」

「畜生、畜生……!負けたあ!」

 本気で悔しがって、その場に巧が腰を荒っぽく下ろした。

 隣でじっと翡翠と巧の戦いを見学していた金髪の少女、栄枝がぽつりと零した。

「……まるで人間と同じですね。全然、妖怪に見えませんわね。それにしても、まさか今まで幻想の類と思っていた妖怪に、体術を習うなんて……夢にも思いませんでしたわ」


 そう。

 そもそも、妖怪や幽霊の存在が全国の祓魔師に公開されたのは、八尋が自身の父に翡翠を紹介したからに他ならない。祓魔局の重鎮である父は、翡翠が妖怪という事実を予想以上にすんなりと受け入れ、小一時間、会議室でお偉い方と会話をした後、翡翠を開放した。


 ただ、いつも八尋たちを教えてくれているプロの祓魔師たちが、妖怪幽霊なによりも脱獄囚という危険な敵への対処法の対策会議に急きょ参加しなければいけなくなったので、さて、授業はどうする、といったところで、翡翠が立候補したのだ。

 わしならば、教えられると。

 と、いうことで現在に至る。


 妖怪という未知の存在に、その実力がいかほどか、それを図るために支部内にいる祓魔師が多数、訓練場に押し掛けた。観客席で彼らは、眼をひん剥いて、妖怪の一挙一動を観察し、機械で能力を数値化して観測しているのだが―――そんなものは一切気にしていない、と言った様子で、翡翠は巧に指摘する。


「筋は悪くないがの、どうにも感情的になりすぎる。感情的になると、勝つための工夫をして雪辱を晴らすか、頭に血が上りすぎて考えるのを止めるかのどちらかじゃが……お前さんは後者のタイプらしいのう。思考を放棄した時点で、頭脳派のわしには勝てんぞ」

「はあ?頭脳派?お前、どこが?」

「だってわしは、木霊という妖怪じゃからのう」


 のんびりと煙管の煙を漂わせながら、しみじみと翡翠は語る。

「妖怪というよりは精霊寄りじゃがな。樹齢千年を超える樹より生まれ、ずっとこの世を見てきた。沢山の術を知っておるし、沢山の生き方も知っておる。元々戦うために体が作られておらんから、妖怪の中では弱い類の妖怪じゃ」

「木霊……。聞いたことがあるけどよ。お前、弱くないじゃん」

「そりゃ、お前さんがわしより弱いから、強く思えるだけじゃろう」

「……っ!」


 ぐうの音も出ない。顔を真っ赤にして巧は地団駄を踏む。その度に床が揺れるので、勘弁してほしい。

「けど、十分に強かったじゃないですか」

「む?」


 八尋の指摘に、翡翠は小首を傾げる。

「その、私を助けてくれた時です。樹を生やしたりとかして。えっと、あの力って、翡翠さんの力なんですよね?」

「さん付けとはむず痒い。連れからはおばあちゃん、ばあちゃん、婆の三種のどれかで呼ばれているから、是非ともそれで」

「では、翡翠教官」

「……真面目じゃのう」


 思い通りの渾名で呼ばれなかったことに少し落胆しながら、翡翠はふう、と灰の中にある煙を吐き出した。

 ミントの香りが広がっていく。

「いや、あの樹の力はわしの力ではない。……五行八卦、は聞いたことがあるか?」

「……ええ。昔の人が使えた力だって。霊力では扱えない、自然の力を自在に扱っていた、と文献で読んだことがあります」

「真面目じゃのう」


 また、同じ言葉を零して、翡翠は小さな掌をぐっと握った。それからゆっくりと開くと、一つの小さな双葉があった。まるで今しがた成長しているかのように、みるみるうちに成長していき、あっという間に青い花を咲かせた。

 おお、と観客席から感嘆の声が聞こえてくる。その反応に、翡翠は若干つまらなそうな表情を作る。


「何度も言うが、これは、わしの力ではない」

「じゃあ、なんだよ?」

 いつの間にかペットボトルを片手に、巧が尋ねれば、ふ、と翡翠は笑う。

「分からんのか?じゃから、“自然”の力じゃよ」

「「「は?」」」


 ふむ、と唸って翡翠は頭を掻く。

「自然の力を、人間や妖怪がどうこうできるわけがなかろうに。この力は、自然から力を借りているのみ。ゆえに、霊力のように尽きることはほぼ無いが、扱いが難しい力じゃ」

「自然に力を借りる?自然に意志はないでしょう?どうやって借りるのですか?」

「いや、あるぞ。意志くらい。そういう世界じゃから」

 あっさりと、また常識を覆すような一言に、くらりと翡翠は眩暈を覚えた。どうしてこう、今日は衝撃的な事実が告げられることが多いのだろうか。


「ほれ、水の化身や炎の化身、といった言葉はよく聞くじゃろう。自然そのものから生まれたものを、昔は精霊や妖怪とよく呼んだものじゃが、まあ、今では伝わっておらんか。ともかくも、わしら精霊妖怪の類は自然の意志の一部から生まれ落ちた場合がある。その精霊や妖怪を産み落とした集合意識体がの、あるんじゃ。わしも会ったことはないが」

 話がいよいよ大きくなってきたが、とくに黙ってこれを聞くことにする。


「その集合意識体に意識を働きかけ、力を借りることで、初めて今のような、自然の力を振えるようになる。その方法はわしら側では術式として作られておる。これを、五行八卦術式と呼ぶ」

「それでは、その五行八卦術式を学べば、我々も自然の力を振えるようになる、ということだね?」


 大柄な祓魔師が前に進み出てきて、尋ねてきた。遠野宰。第五級祓魔師である。

 祓魔師には、役職の代わりに将棋や囲碁のように段級位制だ。尤も現在、初級を最下位、九、八、七と級が上がっていき、最後の特級を最上位としており、その上に存在している段位を持つ祓魔師は一人も存在していないのだが。


 遠野宰は八尋のボディーガードの沢とは同僚であり、普段は人の好い笑みを浮かべているのだが、翡翠に向ける視線が違った。ぎらぎらとした野心が、瞳の中で燃え上がっていた。


 遠野家は、江戸時代には有名な檀家であり、多くの御払い稼業を受け持ち、また多くの祓魔師を雇って栄えたことで有名であった。しかし、明治以降は最新の祓魔術についてゆけず、また跡取りに恵まれなかったために徐々に明治以降、徐々に衰退していった家系だ。

 現在は比較的能力の高い二人の子供を上京させ、どこかで巻き返しの機会を図っている、との話を聞いたことがある。


 彼の瞳が野心に燃えるのは、そのあたりに理由があるのかもしれないが、その野心が一体どのような色をしているのか、その時の八尋には見抜けなかった。


 きょとり、と翡翠はどこか威圧感のある遠野宰を見て、

「ん?ではやってみるかの?」

そんな事を言って一枚の札を宰の手に握らせた。

「……これは?」

「五行八卦術式の雛形じゃが」

「偽物では?」

「馬鹿な。偽物をどうして渡す必要がある?わしら妖怪は必要のない嘘はつかぬ」


 翡翠が堂々と言い放っても、未だに宰は疑わし気に翡翠を見つめている。それでもとにかく、五行八卦術式という未知の力を使ってみたかったのだろう。術札を握りしめ、霊力を当然のように込め―――術札は即座に弾けて消えた。


 瞬間、静寂。


 やがて宰は顔を真っ赤にし、翡翠はけらけらと笑い始める。

「……やはり偽物じゃないか!」

「決めつけるな、決めつけたら終わりじゃよ、若き祓魔師。言ったろう、力を借りるだけだと。自分の力……霊力を術式に込めた時点で間違えじゃ。その術式は、お主のものではない!」

「意味が分からない!おい、やり方を教えろ!知っているのだろう!」


 す、と笑っていた翡翠は、宰の一言に気分を害したように表情を冷ました。ひやりとした空気が辺りに漂い始め、宰は肩を震わせて後退る。

「分からないのならばお主は五行八卦術式を使えぬよ。ただそれだけじゃ」


 言い放つ。


「お主は歩き方を誰かから教わったか?その日本語は誰かから教わったか?詰まる所、それらと同じだ。教えるものではない。やり方があるわけでもない。五行八卦とはそういう力じゃ」

 理解不能、とばかりに祓魔師たちは首を傾げた。

 八尋も意味が分からず、ただ首を捻る。


 教わるモノではない術式。そんなもの、この世界には存在しなかった。いや、だからこそ異界の術式なのかもしれない。

 答えは自分で導き出せ、ということではあると思うが、さて、あまりにもヒントが少ない。


「翡翠殿」

 訓練場の扉が開き、入って来たのは祓魔局のお偉い方の面々だった。翡翠を除いた全員が身を固くし、彼らが翡翠の目の前に歩み寄るのをただ、見つめていた。全員で五名。そのうち祓魔局の特級三名。特級の内の一人が八尋の父である天霧睦だった。


「全ての祓魔師たち及びその候補生に、地獄の脱獄囚を万が一に見つけても、近づかぬように、忠告をしました」

 睦は静かな口調で、淡々と告げる。

「ふむ」

「しかし、功を焦って近づく者も万が一におりましょう。脱獄囚に効く唯一の対処法は……結界術とも教えました」


 そう。結界術なのだ。

 何も考え無しに脱獄囚という存在に近づくな、と祓魔師は警告を発したわけではない。結界術という唯一の対処法も一緒に伝えていた。

 結界術は誰でも習う、基礎の基礎の術。それが未知の存在に効く理由はよく分からないが―――父が信じたのだから、本当のなのだろう、と根拠なく、八尋は信じている。

 出会ったら、まず結界術で敵を閉じ込める。その間に逃げろ。

 それが今回、脱獄囚への対抗の術である。


「よろしい」

 睦の鼻先に煙管を突き付けて、翡翠はにやりと笑う。

「後は何が起こっても自己責任じゃ。警告はしたぞ?」

「しかし、根本的な対策ではないので……」

「逃げるなんて、バカバカしい。倒しちまえばいいじゃねえか」


 仏頂面で巧が呟いた。その言葉を聞き落とさず、「これ」と翡翠が叱る。

「おぬしらの攻撃は当たらぬと言ったろう。しかも、脱獄囚たちが攻撃を仕掛けてくるまではおぬしらの内の殆どは、視認ができんともゆうたろうに。結界によって異空間を創り出してその間に逃げ出すのが、生きるための最善の策じゃ。天霧の“攻”の結界術も効かんぞ。奴らに死という概念はないからの。倒したと思ったら即座に復活し、襲われるのがオチじゃろうて」


 今一、ぴんとこない、と言った様子の祓魔師たちだったが、一人、八尋はぎゅっと掌を握った。じわりと汗が滲み出るのが分かる。

 昨日、会ったのが不完全な脱獄囚。

 それを聞いたとき、本気で思った。

 今の自分はあれには敵わない。本能的に悟って、恐怖に身が竦んだのだと、後から気づかされた。


「まあ、そう恐れる相手でもない。今、黄泉の国至上、最高の天才が脱獄囚たちを再び地獄に堕とす術式を考案しているところじゃからな。二、三日の我慢だ」

 すう、と翡翠は息を吸い。


「だから、頼むから」

ため息を吐くように、言葉を吐き出した。

「蛮勇や虚栄心で命を散らしてくれるなよ」

 その言葉は。

 本当に、心の奥底から願っているものだと、思えた。




―――5月11日(火)16:00 榊夕映―――


 普段より、パトロールの祓魔師の姿が多いように感じるのは、気のせいではない。誰もが視線を蠢かし、注意深く辺りを見渡している。その瞳の中にあるのは、獲物を探す肉食獣の如き、乾き。少しの恐怖心。


 当然だ。

 プロアマ見習い問わず、祓魔師全員に伝達された“脱獄囚”という目に見えない存在。それが人に害を成すと言われれば、ある祓魔師は正義感から、ある祓魔師は野心から、なんとしても脅威を排除しなければ、と奮い立つ。

 更に地脈の異常を感知し、妖魔の出現を警告する警報機が、昨日より上手く機能しないのならば、脱獄囚探しのついでに、妖魔退治をできる可能性がある。


 妖魔には、幾つかのランクがある。最高位をSと定め、最低位をFとする。倒した妖魔の強さにより、祓魔師として評価、更にプロであればボーナスが付与され、懐が潤う。通常は地脈の異常の感知により、出現するであろう妖魔の強さに見合った祓魔師を現場に向かわせる。

 今は、それが無い。つまり、人の評価により勝手に付けられた、級というレッテルを気にせず、堂々と妖魔を倒し、名を上げられるチャンスなのだ。


 まあ、そんなものは関係ない、と夕映は結論づける。

 そんな事よりも。

「うーん、おいしい!もう一個!」

「おい、やめとけ、腹壊すぞ」

七個目のカップアイスを食べ終えた上、更に店先でアイスを追加注文しようとする、アヤメの子守のほうが、夕映にとっては重大問題だった。


 放課後、早速協力してくれ、と引きずられ、(協力するとは言っていないはずなのに)買い物に食事に付き合わされる羽目となった。夕映のお金で。

今は池袋駅付近のショッピングモールに店を構えたアイス屋の椅子で一休みをしていた―――つもりがいつの間にかアイス大食い大会みたいなものになっている。あまりにも特大のカップアイスを平らげていくものだから、店員なんて、最早苦笑いを通り越して無の境地に至っている様子だ。

夕映の隣の椅子にはアヤメが買った物が詰まった袋が置かれており、今にも崩れ落ちそうだ。


 そもそも。

 アヤメら異界の存在は、この世界―――“虚無界”の物には一切触れられず、一切認識されないのが原則のはずだ。それを指摘すれば、「そんなもの顕在力を調整すればどうにでもなるよ」とワケの分からない言葉を言った直後、彼女の気配が変わった。

 夕映は今まで、アヤメの存在そのものに、そこに本来居てはならないような違和感を持っていたのだが、その違和感が一気に消え去った。まるで、白いキャンパスの上の絵の具が水を含んだ筆によって、背景に馴染んでいくような。まるで最初からそこに居たかのような。それが自然であるかのような。

 それが更に、夕映の彼女に対する警戒心を高める結果となった。


 彼女は自分のことを死神と言った。けれど本当は、脱獄囚という存在なのではないか、とすら疑っている。

 そもそも、脱獄囚についての詳しい情報は、祓魔局からはリークされていない。それは彼らが単純にどのようなモノなのか知らないのか、或いは無茶をする祓魔師を出さないために、敢えて話を伏せてあるのか。

 分からないものには警戒しようがない。全てのものを警戒しなければならない。

 だから、夕映は天真爛漫好奇心旺盛で無邪気を体現したような、一見、人に無害に見えるアヤメすら警戒している。


(疲れる……)

 ふう、と小さく息を吐く。

 何をしているんだ、オレは。


「アイス、駄目?」

「ダメ」

「うー……あ!」

 頬を膨らませて唸った後、アヤメは視線を店の外へと泳がせる。そして、お店の向かいにあるミックスジュース屋で、ぴたりと視線が止まった。

 嫌な予感がする。


「じゃあ、ジュース飲む!」


 速い。手に五百円玉を握って、夕映が止められる前にアヤメは席を立ってジュースの店先へと走って行ってしまった。慌てて追いかけようとして、椅子の足に躓いて、体勢を立て直している間には、既にアヤメはジュースを注文してしまっていた。

「あの野郎」

 苛立ちを覚えたのは久々だ。

 どこか自分の感情を俯瞰した感想を抱きながら、夕映は荷物を掴もうとするが、あまりに多すぎて、邪魔なだけだ。


「……ああ、もう……」

 ため息を吐き、祓魔堂が支給しているポシェットから一枚、術札を取り出した。それを放り出せば、むくりと札が膨れ上がり、成人男性ほどの人型の簡易式神が姿を現した。

「これ、家まで届けてくれ」

 荷物を指さして命じれば、ゆっくりと式神は頷いて、荷物をひょいと持ち上げた。自分もあのくらいの身長があれば、もしかしたら荷物を持てたかもしれない。


「きゃ!」

「ああ、ごめん!」


 短い悲鳴に続いて、アヤメの謝る声が聞こえてきた。

 今度は一体何をやらかした?


 見れば、膝をつく少女が一人。慌てるアヤメの姿。少女の制服は、ここら辺では有名なお嬢様学校のもので、丈の長いジャンバースカートだ。そのジャンバースカートは今、濡れている。そして、地面に落ちた飲料用のカップ。


 おおよその予測はついた。急いでアヤメの元へと向かう。

「何をやっているんだ、お前……」

「だ、だってぇ……」

 アヤメは唸った。彼女が犬ならば、耳を伏せているだろう。分かり易い。飲み物にはしゃいで女子高生にぶつかって、カップを落として彼女の制服を汚してしまった。そんなところか。


「あんた、大丈夫か?」

「え、ええ」

 大人しそうな少女だった。眼は大きくて、顔立ちはかなりはっきりとした美人なのに、どこか、存在感が薄い。いや、薄いというよりも――――。なんだか、この世のものではないような。

「本当、かわいい洋服を汚しちゃってごめんね!すぐに綺麗にするからね!」


「「は?」」

 何を言っている、こいつ。

 アヤメの言葉に夕映は呆れ、女子高生は目を点にした。二人の反応は一切気にせずに、アヤメはしゃがみ込み、女子高生の濡れた制服に軽く手をかざす。

 呟く。

「―――翡翠顕現」

 零れたジュースが蒸発して、辺りに漂っていた甘い匂いが突如として消えた。制服の濡れた跡もあっという間に消え去った。


「よし!綺麗になった!」

「よし、じゃない。なんだ、それは……」

「え?五行八卦術・相互補助」

 分かり易いような分かりにくいようなネーミング。


 五行八卦術とは、聞いたことがある。

 昔、母に教わった。

 五行とは古代中国の思想の一つ。万物は木・火・金・水・土の五つの元素から成り立つ、という思想だ。その思想を元に造られたのが五行八卦術式。八卦とは、中国の図像のことを指すのだが、この術式に示されたのは、五行より更に多くの自然の力を借りられる、という意味で名付けられたという。


 そう。霊力という自らの力のみを指標とする、祓魔術では考える話ではない。

五行八卦術式は、多岐にわたる自然の力を借り受ける、現代では既に失われた術式だ。術式は伝わっておらず、そして忘れ去られたが故に、既に自然の力を扱える人間はこの世界のどこにも存在しない。

 だが、意識すれば確かに誰でも使える力でもある。


―――あなたのように。


 思い出した母の声は、アヤメの声にかき消された。

「凄いだろ、へへ!あたしは土が相性よくて、水は全然使えないのだけれどね。契約している人に水の力を常に借りている人がいるから、その人から水の力を借りたの!」

「つまり力の又貸しか」

「そうそう、そうだよ!よく分かっているじゃない!」

「え、えーと……」

 戸惑ったように、女子高生が夕映とアヤメの間を行き来させている。それに気づいて、仕切り直すように夕映は命じる。


「とにかく、ちゃんと頭を下げて謝れよ」

「あ、そっか!本当にゴメンナサイ!」

「あ、だ、大丈夫、です。こちらこそ前を見ていなくて……本当にすみませんでした」

 アヤメが深く頭を下げれば、慌てて立ち上がって、女子高生も頭を深々と下げた。それから女子高生は手首に付けてある、いかにも高価そうな時計を見た。


「私、そろそろ電車の時間があるので……」

「そうなの?じゃあ、またね!」

「なんでそんな挨拶になるんだ?」

 夕映は疑問に思ったことを口にするが、さあ、とアヤメは首を傾げるばかりだ。その間に、女子高生は浅く頭を下げて、早足でその場を去って行く。

 その後ろ姿を見つめながら、

「もう少し落ち着きを持てよ」

「無理無理、楽しくて楽しくて、仕方がないんだもん!」

「お前の住んでいる世界には、ショッピングモールには無いのか?」

「あるよ。けどね、あたしは死神だから、妖怪たちが住んでいる世界である幽世じゃなくて、死者の世界である黄泉の国に、長い事繋がれていたんだ。魂回収の執行人としてね」

「……?」


 話の方向性が若干不穏になって来る。アヤメの表情はにこやかになっていく。

「死んだ癖に黄泉の国に来ない魂を無理矢理殺してでも回収するのが、あたしの前の仕事だったんだよ。けどね、その仕事を繰り返していると、死神でさえ精神が狂うんだ。あたしもそうなった。そうなったら、処分されるしかなくてさ。実際殺されそうになったけれど、助けてくれた人がいたんだ」

 眼をキラキラとさせて。

「助けられて、黄泉の国から連れ出されてから、まだ一年かな。だからまだまだ、色んなものが新しく見えて仕方がないんだ。少しくらい、はしゃいじゃいたい気持ち、分かるでしょ?」

 楽しそうにはにかんで。


「楽しいのは別にいいが、人の金を使い込むなよ」


 至極当然な夕映の指摘に、さすがにアヤメも硬直した。どうやら、お金の価値というのは正しく彼女も認識できているらしい。

「え、と、その、えーと」

 困ったように言葉をアヤメが探している。


 別に、見たことも無い場所に行って気持ちが昂る、という話は聞いたことがある。理解はできる。けれど、夕映は共感ができない。だからこそ出てきた、人を困らせる言葉だ。この口には、人の気持ちを考慮した気の利いた言葉は出てこない。現状の真実ばかりを語る。

 まだアヤメは言葉を探している。さすがにこれ以上、彼女の言葉を探し続けるのはまどるっこしいので、ため息を吐いて、さっさと帰路に着こうと考えて。


 嫌な予感が、背筋を走り抜けた。

 昔、感じたことがあるものと同質のもの。

 もやりとした黒い霧が、頭の中を覆う感じ。

 不確かな予感だ。


 けれど。

 その自分の予感を無視した結果、どのような後悔をすることになったのか、確かに覚えている。

「―――!」

 気づけば、足早に嫌な予感がする方へと夕映は歩き始めていた。


「ちょっと、夕映?」

 アヤメの声は遠い。ただ、集中して嫌な予感がする方向へと歩いていく。足早に。向かったのは、池袋駅だ。帰宅ラッシュで人混みが多い。賑やかでうるさいその中を、一心不乱に掻き分けていく。

改札機にスマートフォンのかざし、中へ入る。


―――ちょっと、待ってよ!

 声がする。振り返る。アヤメがそこに居た。往来する人々は、彼女の体をすり抜けて歩いていくのを見ると、また夕映以外には見えなくなっているらしい。

「どうしてその状態に変化したんだ?」

―――改札機が抜けられなかったから、顕在化を解いた!あと、これは一応霊体っていう状態だから、覚えておいてね!で、急に、どうしたのさ?

「いや。別に。帰ってもいいぞ」

―――その割には顔色が変わっているよ。緊迫しているというか。

「……」

 馬鹿そうでよく見ているな。


 エレベーターは混んでいるので、階段を何段も飛ばしながらホームに到着した。

見えた。先ほどの少女の後姿だ。その隣には、一人のスーツ姿の大人の男がいる。彼女たちは今しがた到着した電車へ乗っていく。急いでそれを追おうとしたが、駅のホームは電車から降りた人でごった返しており、前に中々進めない。

その間に電車の扉が閉まり、先ほど出会った女子高生が乗った電車が出発してしまった。

一時的に空いた駅のホームに立ち、夕映は二分後にくる電車を待つことにした。





 池袋駅から電車でニ十分。ひたすらに“嫌な予感”の気配を追って電車を降りたそこは、古いビルが立ち並ぶ、旧市街だった。池袋の近くにもこんなところがあったんだな、と思いながら、夕映はひたすらに歩く。道行く人は少ない。商店が無いからだろうか。


―――なんだか、嫌な所だね。

 アヤメがそんな感想を漏らす。

―――人間の負の感情がゴロゴロと転がってる。

「……転がっているって、どこに?」

 辺りを見渡して、夕映は尋ねる。

―――表現の一種、表現の。まあ、あたしには実際転がっているように見えるのだけれど……そうか、感じるけれど絶対に見えるわけじゃないのか、夕映は。

 中途半端だなあ、とアヤメが言うので、わけが分からず、夕映は首を傾げた。

―――それで?

「ここ」


 夕映は嫌な予感がする元の建物の前で、足を止めた。とても古びたビルだった。ビルに取り付けられている看板は、全て色が掠れていて、もともとどのような会社が入っていたのか分からない。

―――まあ、あたしの姿はこの世界の人間には見えないから、先に見てきてあげるよ。

 それは一理ある。成程、と頷いて、それでも疑い深く聞く。

「信用していいのか?」

―――少しくらいは信用してもらえると、嬉しいかな。

「じゃあ、頼んだ」

―――はいよ。


 軽く頷いて、そそそ、と人間に姿が見えないくせに、足音を立てずに静かに、古びた扉を文字通り、通り抜けて、アヤメは建物の中へ入っていった。やはり心配なので、その後を夕映は追う。少し扉を開いただけで、金属の軋む音がする。できるかぎりゆっくりと扉を開いて、中に入った。

ビルの廊下はかなり薄暗く、曇ったガラス窓から入り込む、夕日の光だけが頼りだ。足元には埃が溜まっていて、歩く度に埃がふわりと宙に舞う。足跡が残る。


 階段を上る。人の声が聞こえてきたので、壁に張り付いて身を隠し、そっと声がする方へと覗き込む。

 そこには。

「いやあ、キミ。本当に可愛いね。どう?隣の林城さんと一緒にアイドルグループをやってみないかい?」

 中年の男がニコニコと、アヤメに向かって笑いかけていた。

「私は舘と言うんだけれど」

―――え、ええ、と……?あいどるって?

 アヤメは戸惑っている。

 何を見つかっているんだ。


 いや、そんな事よりも。

 舘と名乗った男は、アヤメが見えている?

 傍らで、呆然としている男女がいる。先ほど会った女子高生と、二十代前半の、どこかひ弱そうな男だ。

 そのひ弱そうな男が、舘に向かって話しかけた。

「先輩……。一体誰と話しているのですか?」


 舘の眼の色が、変わった。

(やばい)

 夕映の勘が叫んだ。ほぼ同時に飛び出し、真っすぐに女子高生たちの方へと向かう。

「アヤメ!」

――――う!


 舘の体が靄に包まれると同時に、アヤメの肩がぴくりと動いた。

 噴き出た霧の色は黒。それが廊下いっぱいに広がっていく。舘の隣をすり抜けて、夕映はその背後にいた女子高生と男の二人の体を引っ掴み、足の裏に霊力を集中。速力を上げ、そのまま廊下の端へと逃げ込んで振り返る。


 向かってくる黒い霧を防ぐために、ポシェットから術札を取り出し、結界を張る。たったそれだけで、霊力不足で体が悲鳴を上げ始めていた。

「くっ……」

 歯ぎしりをして、結界を何とか保つ。視界は未だ真っ黒だ。

「何、一体何が起こっているんだ?」

「あれ、さっきの……」

 舘の後輩と思しき男は驚いた様子で現状を必死に把握しようとしている。女子高生は目の前にいる人物が、先ほど出逢った、

「小学生」

「高校生だ」

「うわあ、ご、ごめんなさい……!」

 女子高生は慌てて土下座をその場で始める。


 身長が小さいから、私服の時は小学生と勘違いされることは多くあるが、祓魔堂の高等部の制服を着ていて、なお年齢を勘違いされるのは、心にくるものがある。

 と、ぐるり、と。

 目の前に広がっていた黒い霧が休息に廊下の中心に集まっていく。

 まだ、夕映の心の中で嫌な予感はくすぶり続けている。


 アヤメがどうなったかは分からないが、先に避難させる方がいいか。

「お前ら、後ろの扉からさっさと外に逃げろ。なんかやべぇ」

「いや、そういうキミはどうするんだ?」

 夕映の指示に、男が躊躇った。

「オレの事はいいから……」


 言葉は途中で止まる。黒い霧が収束した先に、何かが居る。

 黒い、塊。舘と名乗った男の周りを取り巻いて。まるで、意志のある霧の如く。口をぱっくりと開いた。

『折角の食事を邪魔しおって……』

 地の底から響くような声は、確かに霧の姿をした“何か”から響いていた。妖魔に似ている。けれど違う。妖魔は本能を持っていても思考を持たない負の力の塊だ。喋った時点で、妖魔の可能性は限りなく低い。


 ならば。

「お前……“脱獄囚”ってやつか?」

『ううん……?成程、そういう受け取り方もあるか』

 まるで顎を撫でるかのような仕草を黒い霧はとった。

『だが残念、そういうワケではない』

「そうか」

 背後の階段へゆっくりと移動するように、指で女子高生たちに夕映は指示する。その意味をくみ取ってくれたのか、男がゆっくりと後退を始める。


『我々は“脱獄囚”の副産物と言うべきものだ』

「……怨霊……か」

『知っていたな、少年』


 怨霊とは、人間の死んだ魂が怨念と化して、人に害を成す存在だ。幽霊だのいう概念が無くなったこの世界には、やはり認知度が非常に低く、最早、出現しなくなった存在と思われているものであるが……それは未だ、この世界に蔓延っていたのを、夕映は知っている。


 見えなくなっただけ。互いに干渉できなくなっただけ。ただそれだけで、彼らは確かにそこに居たのを、何度か目撃しているからだ。

『そして、話を長引かせて背後の奴らを逃がしたつもりだろうが……』

 にやり、と怨霊が笑った。

『我々、と私は言った。つまり、他にも志を同じくする怨霊は居る』

「……」

『言葉を上手く捉えられなかった、キミのミスだ。ここで今日、キミたちは我らの活動の糧になってもらうぞ!』


 伸びた怨霊の腕は、夕映の薄い結界を容易く叩き割った。耳元を怨霊の腕が通り過ぎるのを感じながら、それでもしっかりと夕映は前を見据える。瞬間、もう一本の腕が夕映の首を掴んでそのまま古びたビルの壁に叩きつけた。

「ぐっ」

 息が詰まった。背中に激痛が走る。


『祓魔堂の生徒にしては随分と霊力が低いなあ、お前!あれか、親の七光りで入ったって所か?』

「……違ぇよ……」

 苦し紛れに反論した。ここだけは、こう答えなければならなかった。


 本当は、祓魔堂になんて入りたくなかった。

―――だが、貴様は半分化け物の血が流れているとしても、半分は榊の血が流れている。

 奴は言った。そう言って、榊の人間として生かしておく以上は、当然、祓魔堂に入れ、と命じてきた。

―――本当は今すぐにでも殺したいところだが……ふん、あれは、貴様が死んだら舌を噛み千切って死ぬそうだ。


「……入りたくて……入ったわけじゃ、ねえ……!」


 感情が膨れ上がり始める。

 普段は本当に、消えかけた蝋燭のように弱弱しい感情だ。それが、とある時だけ、一気に燃え上がる。


 そう。

 入りたくなかった。長閑に暮らしていたいだけだった。

 けれど、そうさせてもらえなかった。演じ続けなければならなくなった。榊の全うな人間として。


『そりゃあ、そんな弱いからなあ?弱いって分かっているのに……』

「弱くも、ねえ……少なくとも」


 怨霊の腕を掴む力が強くなる。

 霊力は既に底を尽きている。周囲に目があったら、このまま、自分の体の丈夫さにかまかけて、耐久か死んだふりか、と考えていたが。

 今は誰も見ていない。


「てめえよりは、強い」


 頼む。

 力を貸してくれ、と願う。

 それは、誰もが知っていて、そして誰も常に意識しない。確かに存在しているが、無意識にかき消されている存在達。

 そこから湧き上がるのは、惑星の魂。その力。その本当に小さな一切れが、ぷつりと本体の魂から千切れて。

 夕映の中に入り込む。


 それは瞬間の出来事だった。


 空間は急激に冷え切った。天井も床も、壁も、そして怨霊も。夕映以外の全てが、冷たい氷に閉ざされた。凍りついたことで脆くなった怨霊の腕を握りつぶして砕いた。何度か呼吸を繰り返す。その度に白い息が夕映の口から吐き出された。酸素を取り込んでから、ふ、と怨霊と向き合った。

 凍りついたまま、活動は完全に停止していた。


「手加減すりゃよかった……。色々聞き出せたかもしれねえのに」

 少し後悔したが、取り敢えず、ここら辺一体に漂っていた嫌な予感―――夕映は死の気配と呼んでいるものが無くなっただけ、良しとする。


―――うう、寒い!

 背後から、声。アヤメがいつの間にか下の階段から上へ上って来ていた。

「お前、何時の間に下に行ったんだ?」

―――床を踏み抜いて。


 言われて既に動かなくなった怨霊の背後を見やれば、床が見事に抜けている。踏み抜いて下に直接下りた動かぬ証拠だ。

「……すり抜けることはできなかったのか?」

―――ああ、その手があった!

 手をぽん、と打たれる。へらへらとアヤメが笑う。本当に緊張感がない奴だ。


―――それにしても、夕映、キミは。

 アヤメは、夕映を改めて見る。確実には、その瞳と額だ。


―――半妖だったんだね。


「ああ」

 夕映はそっと額に触れる。右寄りの額に、まるで水晶のような小さな角が一本、生えていた。瞳の色は黒ではなく、翡翠のような色をしていることだろう。


「父が、妖怪であるらしい」


 不確かだが、確かな情報。

 人間には知られてはいけない事ではあるが、死神には教えてもいいだろう。

 もしかしたら、案外あっさりと、父や家族が見つかるかもしれない。

 そんな仄かな期待を寄せながら、夕映はアヤメに伝える。


「オレは、鬼を父に持つ、半妖であるらしい」


 もしも父が見つかったら。その父は。

 母を、助けてくれるだろうか。


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