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朱天の詩  作者: 千年寝太郎
第一章
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第二節

ドラクエ11楽しい

―――5月11日(火)8:00 天霧八尋―――


 あれは何だったのだろうか。


 天霧八尋は、祓魔堂の特別教室が設置されている、祓魔局の新宿支部へ行く車の中で、そんな事を考えていた。

 果たして、あの人型の妖魔のようなものはなんだったのだろうか、と。


 妖魔は、知性の無い負力の塊だ。複数の獣が混ざり合った姿になることが多いのは、大地の力である地脈と共に、必然的に取り込んでしまう、人間の負の感情―――ある意味人間の本能的な部分ともいえる、他者を拒絶する感情や、他者を妬む感情が原因に他ならない。詰まる所、人の攻撃性が形となった結果、獣の姿に妖魔は落ち着くのだという。


 人の姿のままでは、人を傷つけることは難しいから。


 そう教えられてきたからこそ、人型の妖魔は異常だ。人の姿では、人を傷つけることは容易ではない。武器を持っていない。道具や戦闘技術を身に付けなければならない。ひ弱だからこそ、知恵を駆使する。それが人間。

 妖魔は知能を一切持ち合わせていない。人間の負の感情が突き動かすがままに、ただ、一切を壊すことを義務とする、破壊兵器のようなものだ。


 そんな妖魔がなぜ、人の形をとったのか。分からない。全くもって分からない。

「お嬢様、眉間に皺が寄っておりますよ」

「う、うそ!」

 運転をしていたお目付け役の沢に指摘され、慌てて八尋は指で眉間の皺を伸ばした。考え込んでいたことが表情に出ていたか。まだまだ、未熟。

 当主たるもの、いかなる時も平常心を見せかけなければならない、というのに。


 どうしようもなく、自分は感情的だ。

(ああ、もう!このままじゃ駄目、このままじゃ……)

 暗示のように頭の中で、駄目、駄目、と繰り返す。


 その時だ。

 沢が車を急停車させた。シートベルトをしていたとはいえ、八尋の体は前のめりになり、慌てて前の座席を掴んで体が傾ぐのを防いだ。

「ど、どうしたの、沢さん!」

「お嬢様、あれを!」

 沢が視線の先を、八尋は見た。

「ん、な……?」

 驚愕した。


 警報は鳴っていないのに、また、妖魔が町中を暴れ回っている、その状況に、驚愕した。

 背中に何本もの蛇の頭を背負った妖魔だった。体長は二メートルほど。そこまで大きくはないが、蛇の体が縦横無尽に動いているので、それ以上の大きさに感じられた。

「なんでまた、警報が鳴らず……地脈観測器が壊れているとの情報も無かったのに」

 そう。

 これも異常だ。


 地脈の異変を観測する、地中や地上に埋められた機械、地脈観測機。広範囲の地脈の変化を大まかに観測する機械だ。沢は昨日、妖魔現れたのにも関わらず鳴らなかった警報の原因を探るために動いていたのだが、どの観測器も正常であり、首を傾げるばかりだったという。

 正常のはずだった。けれど、妖魔が現れても尚、妖魔が出現する要因である、地脈の乱れを観測した、と知らせる警報は一切鳴らない。


(いえ、考えている場合じゃないわ!)

 八尋は頭を振って、車のドアを乱暴に開いた。


「お嬢様!?」

「とにかく、あれを仕留めます!」

「ちょっと、お嬢様、また……!」


 叱る沢の声など放っておいて、とにかく八尋は妖魔へ向かって駆け出した。腰に常に備えている、ポシェットの中の術札を取り出し、戦闘準備。結界術において、結界の範囲指定の力を補助してくれる術札は重要だ。八尋のような未熟者には、尚更。


「妖魔め……覚悟しなさい!」

 粋がって、声を出して、術札を投げつける。

 術札はまっすぐに妖魔へ向かって飛んでいき、妖魔の周りに等間隔で取り囲む。八尋は素早く印を切り、術札に込められた、自分の霊力を起動させる。

 術札に文字が浮かび上がる。起動された霊力が、迸る神聖な輝きとなって、結界が妖魔を完全に包み込んだ。


「よし!」

 いつも通りだ。毎朝の練習通りだ。これはいける。

 根拠のない確信をして、いつも通りに、結界の領域を狭めて妖魔を潰すために、八尋自身も掌をぐっと握りしめる。

 妖魔はかくして、狭まっていく空間に圧迫される―――ハズだった。


「お嬢様、後ろ!」

「え?」


 沢の声が飛んできた。咄嗟に振り返ったその目の前に、巨大な蛇の顔があった。牙を剥いている。八尋が結界に閉じ込めた妖魔の一部が逃げ出していたのだが、八尋はそれが妖魔と理解するまでに時間がかかった。

 一瞬、動きが止まった。動きが止まり、襲い掛かられる、という恐怖心が先行して思考が止まる。思考が止まれば、霊力も制止する。

 蛇の顔を、襲い掛かって来る牙をぎりぎりでしゃがみ込んで避けた瞬間、今度は八尋の背後で結界が割れる音がした。


「っ……!」

 慌ててまた、振り返ろうとする。妖魔が襲い掛かって来る姿が、視界の端に見える。けれど、八尋を襲い掛かり損ねた妖魔の一部である蛇の頭部も、再び八尋に襲い掛かろうとしているのもまた、視界の端で見えてしまった。

 頭は混乱する。どちらを向けばいいのか分からない。どのように対処するのが、最善なのか、分からない。

 恐怖に心臓が圧迫され始めて、思考回路が回らない。

 沢が八尋を助けるべく結界を張ろうとするが、術札が間に合わない。妖魔は牙を剥いて、すぐ傍まで迫っている。その牙は、まっすぐに八尋の右腕に向かって言っていた。よってこのまま、八尋は妖魔に片腕を食われる―――。


 ずばん、と。


 まるで空気そのものを裂いたかのような鋭い音が、目の前で起こった。

 思わず瞑ってしまっていた薄目を開いて見てみれば、巨木が地面に突き刺さっていた。妖魔の本体はその巨木の鋭い先端によって地面に縫い付けられており、唸り声を上げている。

 めきめきと巨木が音を立て始め、妖魔の体各所に絡み、次第に妖魔の動きは鈍くなっていく。やがて妖魔の姿は影のように薄くなっていき、まるで巨木の生気を吸い取られたかのように、消えていった。


 何が起こったのか分からない。

 ただ、霊力による攻撃ではないことは確かだった。

 よくある空想による小説では、自然を操る祓魔師が登場する。しかし実際に自らの体内から生まれる霊力によって、水や炎などの五行をはじめとする自然のもの、その一切を操ることはできない。

 なのに。


「ふむ。人助けは大事じゃが、自らの命を失っては本末転倒じゃぞ」

 妙に古風な子供の声が、耳元から聞こえた。

 ふわりと上空から降り立ったのは、綺麗な着物を着た、とてつもなく長い黒髪を持つ一人の少女だった。


「戦闘の基礎ができておらんのぅ。戦闘中に目を瞑るのは、目が眩んだ時か、敵の攻撃を防ぐためのみにしておけぃ。恐怖で目を瞑れば、待っているのは死のみぞ」

 煙管を吸いながら、ゆったりと近づいてくる。

「やれやれ、それにしてもこの“虚無界”の妖魔は如何せん、業が深い。珍妙な死霊が生まれるのも納得じゃ。地脈が乱れ切っておる」


 煙管から出る煙をふう、と吐き出しながら辺りを見渡す、その着物を着た彼女の、その手を八尋は唐突に握った。

「小学生がタバコを吸っちゃだめだよ!」

「うん?」


 驚いたように目を瞠った少女の手から煙管を取り上げ、八尋は続ける。

「一体誰から貰ったの?タバコはね、ニコチンっていう依存性の高い成分が入っていて……うわ、なにこれ、ミントの香り!」


 ゆっくりと漂って来た煙管から出た煙を吸って、八尋は咽た。想像以上にキツイ、ミントの香りだった。頭の中がすっとクリアになるほど。眼が冴えるほど。

「と、とにかく、これは没収………」


 そこまで言って、口を止めた。あんぐりと。開いたまま。

 変なものが見えた。人間ではない。けれど、人間のような恰好をしたものだ。ゆらゆら、と陽炎のように揺れている。それはまるで、昨日出逢った、人型の妖魔のようなものである。けれど、昨日のものよりはるかに小さい。

 思わず身構えた八尋を、片手を上げて少女が制止する。


「よせ、よせぃ。あれは人間にはまだ害を与えるまで、力を溜めこんでおらん。ふむ、ここいらで死んだ……子供かの」

 飄々と珍妙な事を言いながら、すす、と少女は人型の妖魔のようなものに近づいて行った。

「ほれ、どうした。この世界……虚無界に留まっていては、いずれ自我を失い消失することは、死んだ時点で知っておろう?」


 とん、と少女がそれの頭に手を置いた、瞬間。みるみるうちに色づいていき、はっきりと人間の子供の姿へと変化した。ずっと下を俯いていて、顔は見えないが、おそらく五歳ほどの男の子だ。


『……道が分からない。見当たらない。黄泉への道が、分からない』

 子供が答える。その声は今にも消え入りそうなほど、小さくて儚いものだった。少女は怪訝そうに目を細めた。

「これも地獄の門が開いた影響か。後から報告に挙げておかんと……」

 ぼそぼそと呟いて、

「案ずるな。導いてやる。そうれ」

手を軽く振り上げれば、子供の足元に文字が現れる。見たことのない文字だ。漢字に似ているが、読めない。その文字がくるくると子供の足元で回り始め、一つの陣を形作る。


「このくらいかの」


 指を空で回していた少女が、その動きをぴたりと止めれば、子供の足元の文字もまた、止まった。かと思えば、文字が輝き始める。

 文字が子供の足元から浮き上がり、かちり、かちりと音を立てながら、子供の周囲を取り囲みながら、繋がっていく。やがてそれは文字で出来た一本の帯へと変化し、天空の高い場所へと伸びていった。


「この光の流れに乗って行けば、いずれ黄泉につく。見失うではないぞ」

『分かった。ありがとう、おばあちゃん』

 子供の体がふわりと宙に浮き上がる。そのまま文字の帯を辿って、空高く上がっていく。その姿は段々と薄くなっていき、やがて空の青に溶けるようにして消えた。


「な、なに、今の……?」


 子供の姿をしていた。妖魔ではない。喋っていた。妖魔ではない。妖魔ではないのならば、一体何なのか。その答えを、八尋は持っていなかった。

「幽霊じゃ」

「ゆう……れい……?あの、それって」

「人の空想の産物などではない。死者の魂は確かに存在し、地上を彷徨っておる。おぬしらはそれを見ようとしておらんから、今まで見えておらんかったのじゃ。今は、おぬしがわしから奪ったその煙管の煙の効果で、一時的に幽霊が見えるようになった、という説明が一番優しいかのう」


 少女が指を軽く鳴らせば、下から突如、強い風が吹き上がって、八尋の手から煙管を奪い去った。そのまま煙管はくるくると回りながら、少女の手の中に収まった。

「この“虚無界”の人間が、幽霊妖怪の類を認知の外に置いて百年と少し、といったところか。全く、“虚無界”の天霧の次期当主ともあろうものが、よもや見鬼の才すら持っておらんとは……これも時代かのう」

 幽霊は、小説などで出てくる空想の登場人物。それが八尋やこの世間一般の常識。それが存在していた、と少女は言う。見えていないだけだったと言う。


 では。

「幽霊が見えている……あなたは一体、何者なの?」

「成程そこは、中々鋭い。しっかりと話を理解している質問じゃ」


 にやり、と笑って、少女は告げる。

 百年以上をかけて祓魔師が積み上げてきた、世界の常識を崩す一言を。

「わしは、妖怪。術式名を翡翠と申す者。天霧の当主とお目通りを願いたい。緊急事態じゃ。この世に悪行の限りを尽くした魂―――黄泉の囚人が逃げ出した。わしらは地獄の脱獄囚、と呼んでいるがのう」





 地獄の脱獄囚、とは生前に罪を犯して黄泉国の中にある地獄に繋がれていた魂のことだ。

 彼らは何らかの方法で地獄から、この世へ逃げ出した。

 妖怪や霊魂が一切見えなくなってしまった八尋達“虚無界”の人間に、魂だけの存在である脱獄囚を捕まえろ、と言うのはあまりにも酷な話であり、また、虚無界には魂は基本的に干渉できない法則があるため、虚無界にはさしたる影響を与えないだろう、とされた。


 だからこそ“あちら側”―――現在、妖怪たちが住んでいる世界、“幽世”から派遣された翡翠たち調査隊が、脱獄囚たちの行動を経過観察及び地獄に戻すことを目的にしていたのだが、事態は一変した。

 八尋が確かに魂の存在である脱獄囚を目視したこと。

 それは、見えない存在が見えたということ。


 脱獄囚が“虚無界”の存在として適応し、変化し始めたことに他ならなかった。

 更に脱獄囚たちを地獄に堕とすための術式が彼らに効かないという非常事態に、調査隊がとった対策が、包み隠さず人間たちに事のあらましを教え、注意喚起をする、ということだった。


 この日、妖怪と脱獄囚の存在が、見習いを含めた全ての祓魔師に伝えられた。




―――5月11日(火)10:00 鬼界颯―――


「“こちら側”の人間は、基本的に脱獄囚を認識できない。魂とは、認識できなければ触れられない。互いにな」


 新宿のとあるホテルの一室。少し広めの室内のベッドの上に、一枚の巨大な紙が広げられている。その紙の一点に、じわりと文字が浮かび上がる。美しい筆文字だ。そこには、名前がずらりと並び始めていた。

 それを、鬼界颯は睨みながら、片手に携帯電話を持ち、その先に通話相手に伝えていた。


「だからおそらく、触れるために脱獄囚は認識されようとしている。問題は、認識されるための方法―――顕在化のやり方を奴らが知らなかったはず、ということだ。だからお前ら地獄の奴らは油断していたんじゃねえか?俺たち自警団だけで何とかできると思っていた……が、実際は違った。奴らは何らかの方法で“こちら側”に自分の顕在力の波長を合わせる方法を得ていた」


 さて、と颯は立ち上がった。

「顕在力の波長が一致すれば、こちら側に顕在化―――現れることができる。それができれば“こちら側”の人間に触れられる。それまでは大人しくしているだろうが……予防線を張っておくにこしたことはないな……わり、ちょっと通話切るぞ」


 颯は携帯電話をポケットに仕舞い、すぐ傍のトイレを開く。むわりとした不快な臭いが辺りに漂って、颯は顔を歪めた。

「間に合いそうか?」

「……気持ち悪いデス。無理、絶対無理……」


 トイレの中で、金剛が唸った。顔は真っ青。どうやら顕在化の練習をしていて、ずっと酔い続けているらしい。便器の中の水溜めには吐しゃ物が広がっている。

 颯は小さくため息を吐いて、「翡翠顕現」と呟いて指を鳴らす。瞬間、不快な臭いが消え去り、吐しゃ物も水へと変化した。


「しっかりしろよ。結界使いのお前は守護の要なんだ。俺一人がお前の力を借りたところで、人手が足りなくなることは目に見えてんだぞ。早く顕在化をものにしてくれ」

「分かってはいるが、気持ち悪いもんは気持ち悪い。もう腹が空っぽだ。……それにしても」

 金剛は長く細い息を吐いてから、ふと、思い至ったように視線を天井へと向けた。

「なんで顕在化するのに、脱獄囚はオレみたいに吐き気を催さないんだろうな」

 金剛は遠い目をしていた。完全に現実逃避をし始めている。颯は頭をがしがしと掻いた。


「お前、本当に馬鹿だよな。肉体が無いからに決まっているだろうが。死んでいるから、物を食うことができない。だから吐くも何もないじゃねえか」

「畜生、うらやましいなあ……この吐き気を味合わないで顕在化できるなんて」

「ここで死んで魂だけになれば、その吐き気ともおさばらできるが?介錯はしてやるぞ」

「勘弁してくれ、まだ死にたくねえよ」

「ならとっとと顕在化をマスターしろよ」

「くそう、ついてくるんじゃなかった……」


 ぼそぼそと呟きながらも、金剛は顕在化を自らのものにするために、トイレから出て訓練を始めた。

 金剛は、仁王立ちになり、体に力を込める。体内の“気”―――霊力とも呼ばれるもの―――をコントロールし、満遍なく行き渡らせる。次に、“気”に揺れを起こし、自らの顕在力の波長を変化させる。


 単純明快な構造の顕在化のための波長調整。


 しかし、難しいと言われる“気”のコントロール。顕在力と呼ばれる人の魂の根本へ迫る認識への人為的介入は、波長調整を困難にさせる。

 存在が揺れる。金剛の姿が左右にぐにゃりと揺れ始め、ノイズが奔り、色が褪せ、また濃くなる。その繰り返しだ。金剛の姿は安定せず、顔はみるみるうちに青ざめていく。


「うっ」


金剛は唸って慌ててトイレの中へと駆けこみ、また、胃の中のものを吐き出す音が聞こえ始める。

 大きく揺れる船や電車に初めて乗ったときや、普段とは異なる環境に身を置いたとき、人間の体は無意識にそれを拒否し、熱を出したり吐き気を催したりする。

 それと同じだ。


 波長調整で一番大変なのは、詰まる所、個人差はあれど自分自身の体を変化させる慣れである。

「ああ、もう嫌だ……」

「がんば」


 弱音を吐きながらトイレから出てきた金剛に、気のない言葉を投げかけて、颯はベッドへ戻り、紙をもう一度見直す。紙面に現れた名前には、いつの間にか数字がふられている。その数は、108個。うち、青い文字は五つ、赤い文字は二つだ。

 再び携帯電話を操作し、先ほどと同じ通話相手に電話をかけた。ほんのワンコールで、相手は出た。どうやら電話がかかってくるのを待っていたらしい。


「でさ、情報は来たんだけど、どちらにせよ、俺のほうももう少し時間がかかりそうだ。幽世はなんとかしてくれ。そっちなら、地獄堕としの術式は使えるだろ?」

 赤い文字のうちの一つ、『堤章大』という名前を睨みながら、颯は続ける。

「こっちの奴は厄介だ。また、奴は女子高生連続殺人っていう同じことを繰り返そうとしているのかもしれねえ。……その前になんとかしねえと。え?ああ、滅茶苦茶キツイよ、今」

 はあ、と息を吐き出して、颯は呟く。


「虚無界の祓魔師の中で、せめて、黄泉国と幽世の存在を見る力、見鬼を持っている奴がいれば、少しは楽になるかもしれねえが……そう都合よく、見つかるはずもないしな」




―――5月11日(火)10:30 榊夕映―――


 妖怪という滅んだと言われていた存在が、実は別の世界で暮らしていることが分かった。

 そして、黄泉国から犯罪者の魂、所謂、死霊が脱獄した、という事実が知らされた。

 祓魔師である身内以外には口外しないように、と教師に厳命されたが、ここは祓魔師のタマゴの学び舎である祓魔堂。よって生徒たちの興奮はいつまで経っても冷めなかった。

 三時限目の実戦訓練のために訓練場にやって来た今も、彼らは騒がしい。


「妖怪ってまだ生きていたんだね。妖魔とどう違うんだっけ?」

「知性があるかないか、でしょう?ほら、昔話では人喰いの鬼の話とかよくあるじゃない」

「牛鬼とか、後は有名なのは大江山の酒呑童子とか。妖怪の住む世界は大変だな。日夜、修羅の世界っていう感じじゃないのか?」

「ええ、怖い!野蛮人の世界っていう感じ?」

 予測はそのまま想像として膨らんでいき、生徒たちは思うがままに話を広げていく。


「あら、大丈夫よ」

 遠野が、胸を張って言った。

「たとえどんな妖怪や死霊が現れたって、私が倒してあげるわよ」

 頼もしい限りな言葉であるが、夕映は眉間に皺を寄せた。


 こいつは今、妖怪や死霊の全てを悪い者と決めつけた。まるで心の無い、実体ある悪意の集合体である妖魔のように。

 その考え方は、多分危険だ。


 更に言えば。

「あら、何、その顔?」

 珍しく表情を変化させた夕映を見て、少し気に入らなかったのか、遠野が近づいてくる。

「私が妖怪とかに後れを取ると思っているのかしら?」

「ああ」

 今回は素直に頷いた。それが気に入らなかったらしい。

 遠野は表情を歪めた。

「とーっても霊力の弱い、榊くんには言われたくないのだけれど?私は強いから、妖怪の一匹や二匹は……」

「だって、遠野は見えないから。先生も言っていただろ。失われて久しい、見鬼の力がないと、妖怪も死霊も見えない。見えないことは圧倒的に不利だ。妖怪たちが攻撃を加えてくるときは見えるようになるらしいが、気づくのは確実に遅れる。それ、危ないじゃないか」


 至極まっとうな指摘に、遠野はそれでも顔を少し赤くして反論する。

「そんなの、分からないじゃない?もしかしたら私は実は魂を見る力を持っているかもしれないじゃない?幽霊や妖怪に遭遇してみないと分からないわよ!」


(いや、それもおそらくありえない)


 心の中で夕映は呟いた。

 遠野が幽霊や妖怪が見えるというのはありえない。

 なぜならば、今彼女の周りで飛び跳ねているアヤメの姿が、全く見えていないからだ。これ見よがしに目の前を通り過ぎたり、指を鳴らしたり、アヤメはいろんなアクションを起こしているが、この場でそれに反応する生徒は誰一人いない。


 夕映を除いては。


 昨日拾ったアヤメは、今朝、勝手に夕映についてきた。学校にも行きたいと言ってきたが、それは不可能だ、追い出されるぞ、と答えれば、誰にも見えないようにしているから大丈夫だよ、言ってきた。どういうことかと思えば、誰も彼女の姿にも、彼女がたてる音にも気づいていないことに、夕映はやっと気づいた。


 壁は通り抜けるし、物には触れられないし、歩いている生徒の前にわざと出ても、その体は人をすり抜けるばかりで、一体どういう事だと頭を悩ましていたところに、妖怪や幽霊の話が教師の口から出てきた。

 つまり、アヤメという存在は妖怪や死霊などと同じ、別の世界の存在であったというところまでは、夕映に推測できた。


 問題は、なぜ今は認識できなくなってしまったと言われた存在を、夕映が認識できているのか、というところなのだが。

「全員、集合!」

 教師の号令がかかって、授業のチャイムも丁度鳴ったので、夕映は思考を止めて取り敢えず列に並んだ。夕映は身長が小学生並みであるので、列の先頭になる。そして、その隣に当然のようにアヤメが立った。


 なぜだ。


 アヤメのいる所に重なって、女子の中で一番小さな生徒が立っている。アヤメは見える透明人間みたいなものなのか、女子はアヤメがそこに居ると全く気付いていないらしい。


―――ねえねえ、今から何が始まるの?

 アヤメの声は、直接脳に響いてくる。一体どういう仕組みなのかはさっぱり分からない。

「……」

 答える義理はないので、アヤメが尋ねてきても答えない。

―――ねえ、私、学校行ったことがないから分からないんだ。ねえねえ。

「……」

 無視。


 むう、とアヤメが頬を膨らませた。それから拳を軽く振り上げて―――体育館の床を叩きつけた。ずしん、と重い音がして、体育館全体が揺れた。

 体感でいえば、震度三くらい。座っていれば誰でも感じる揺れだった。


「なんだ、地震か?」「けっこう大きいな」


 地震慣れをしている日本人はさして動じる様子もないが、夕映は割と久しぶりに動揺していた。

 この女、床を殴っただけで地震と思えるほどの揺れを引き起こしやがった。

―――それで、これから何をするの?

 にこにこと笑いながら、第二打を打つべく拳を握りしめるアヤメを見て、夕映は観念してため息をついた。


「……戦闘訓練。大人しくしていてくれ」

 こそりと小声で告げれば、

―――最初から教えてよ

文句の声が返って来た。


 無視したのは悪いことであるが、それを暴力で訴えかけるというのは如何なるものか。

 奇妙な揺れを観測こそしたが、戦闘訓練は順当に進んでいく。心なしか、生徒たちの動きにもキレがあるように見えるのは、気のせいではない。


「もしも地獄の脱獄囚を倒したら、どんなご褒美が貰えるかな?」

「家の階級が上がるかもしれないよね」

「一気に有名人になるとか?チョーすげえじゃん、それ」

 話はおおよそ、やはり、脱獄囚についてで持ち切りだ。


 そして、

―――あはは。無理無理。見えないものに触れるわけがないじゃん!虚無界の祓魔師のタマゴって、予想以上におバカだなあ!

大爆笑してアヤメが笑い転げているあたり、まずは見えなければ、脱獄囚を捕まえるも何もできないらしいことは明らかだ。


 まあ、聞いた話、見えない状態ならば、あちらから触れることもできないので、安全ではあるから良しとする。

「アヤメ、煩い」

 注意しても聞いている様子もない。

 自分しか見えず、聞こえない存在というのも厄介だ。回りの音が聞こえにくい。


「榊!聞いているのか!」

 声を荒げて教師が叫んで、やっと夕映は呼ばれていることに気づいて、重い腰を上げる。

「全く、いつもぼんやりとして。ほら、次、お前の番!」

「すんません」


 気のない返事をすれば、教師はため息をわざとらしく吐いた。

 聞こえるように吐くのなら、皆の前で堂々と言えばいいのに。

 才能無い奴に裂く時間はない、と。


 それが言えないのは、世間を気にしているから。教師としての評価を気にしているからに他ならない。

 祓魔師の世界はとても厳しい実力主義世界だ。昔は能力のない子供を間引いていたほどだ。それでも時代が移り変わると共に世論が変化していき、祓魔師の実力主義に疑問を呈する国民が増えてきた。

 だから、祓魔堂は設立された。


 個々人の能力を少しでも引き上げようと努力する。時には厳しく、時には優しく接してやるのが教師陣。その中から才能が無い、と断じれば、祓魔師とは別の方向へ実力を育て上げるのも、また教師。

 正直言って、彼らの重責は計り知れない。その上、表情はあまり変わらない、校内で一番霊力が低く、やる気すら感じられない、それでも祓魔師の名門である榊家の生徒がいれば、どう接すればいいのか分からなくなるのも、少し分かる。

 育て上げれば評価される。けれど、育て方が分からない。扱い方が分からない生徒。

 教師たちは大方、そのような感想を夕映に抱いている。


(放っておいてもいいのに)

 他の床より一段高い位置に造られた訓練場と呼ばれる場所に立った夕映は、思う。

(どうせ俺に、人の心は分からない)

 目の前に立つのは、同じクラスの男子生徒だ。彼は腰から沢山の術札を取り出した。対して、夕映はよく空手や柔道を嗜む人たちが行うような、拳を握って構える素ぶりを見せた。


「へん。練習相手にもならないじゃないか」

 男子生徒は笑って。

「開始!」


 教師の言葉と共に、男子生徒は術札を放り投げた。それは輝きながら形を作り上げていく。体長二メートルほど。霊力を練り込んで術札を核として作られた、現代版式神。見た目は人の姿をした巨人。のっぺりとした顔に目や口は無い。腕は筋骨隆々としており、少し体が前のめりになっている。それが四体、一気に床に着地した。

 少し地面が揺れる。見学している生徒の中にはよろける人間もいたが、

(しっかりと、足に地をつけるイメージ)

夕映はしっかりと地面に足をつけたまま、少しもよろけない。


 昔、幽霊妖怪の類でも祓魔師の使役の対象である場合は、式神と呼んだらしい。けれど現代では、霊力で練りあげた人形のことを式神と呼ぶ。


 唸り声を上げて一気に式神が襲い掛かって来た。広げた手が夕映を場外へ放り出すために掴みかかって来る。その腕を少し姿勢を低くする事で避けた後、掌に霊力を溜めて下から上へ、払いあげる。霊力を込めた一撃は、通常の人間の筋力では考えられない現象を生み出す。


 体長二メートルの式神の、その大きな腕が上方へ弾き上げられた。

「相変わらず霊力の使い方はうまいよね」「けど、それだけだよ」

 生徒たちの総評通り、それだけだ。

 四体相手だと、霊力不足は顕著になる。霊力を使っただけで疲労感が増していく。腕はだるくなる。足が重くなる。先ほどは払いのけられた腕が、今度は受け止めるので精いっぱいになる。足を式神に掴まれた。


「よおし、終わり!」

 男子生徒がくるりと指を回して、夕映を外へ放り出すように式神に指示を出す。

 時。


――――やああめろおおお!

 突然すっ飛んできたアヤメのまるで矢のようなキックが式神の横っ腹に直撃した。そのまま式神は隣に居た式神も巻き込んで、場外へと文字通り飛んでいった。ついでに、足を掴まれた夕映も。

「ぎゃ!」

 びたん、とこぎみよい音がした。思い切り背中を壁に打ち付けた。滅茶苦茶痛い。

 ずるずると壁伝いに床に落ちて、横を見れば一定のダメージを受けた式神の霊力が解れ、消えていっていた。


「な、なんだあ?いきなり式神が吹き飛んだ……?」

 男子生徒は呆然と呟いた。

「何が起こったの?」「さあ?」

 アヤメが見えない生徒たちにとっては、突然式神が吹き飛んだようにしか見えていないのだろう。


「痛っ……つつ」

 夕映は強くぶつけた後頭部を摩りながら、起き上がる。目の前にはアヤメがむくれて仁王立ちしている。

「お前、一体いきなり何を……」

―――あんなの、戦闘訓練でもなんでもないよ!

 夕映の小声を遮って、アヤメは指摘する。

―――戦闘訓練っていうのはお互いが自分の実力を高めるために行うもの!あれは単純な弱い者虐めだ!あのやり方じゃ、夕映の実力は上がらないよ!


「榊、無事か?」

 一応、という感じで教師が尋ねてくるので、アヤメの言葉は無視して夕映は頷いた。

「ええ。大丈夫です」

 打ちつけた背中は既に痛みが消えている。

「体の丈夫さが取り柄なので」

「そうか。そりゃあ、良かった。今のは、榊が負け、ということでいいのか?」

「ええ。大丈夫です」

―――ちょっと、なんでそうなるの!

 文句を言うアヤメの手首を引っ掴み、夕映は教師に言う。

「一応、背中が痛いので、保健室に行って見てきます」

「分かった。行ってこい」


 頷いて、夕映はアヤメの手首を掴んだまま、体育館を後にする。傍から見た夕映の姿は、空中を握り続けているように見えるだろうが、特に気にしない。

 そのままズルズルとアヤメを引きずって、校舎内の踊り場で誰も居ないことを確認してから、アヤメに言う。


「余計な事をするなよ」

―――余計な事って何さ!不公平だったから、抗議しただけじゃないか!

「あれは抗議と言わねえ。暴力だ」

 はっきりと言えば、アヤメは眉根を寄せた。

―――どこが暴力?

「不平不満があるならば、まずは口で訴えるのが普通だろう」

―――けど、あたしたちの世界では、決闘で揉め事を解決することが多いし、まずは手を出してから考えるっていう妖怪たちも多いよ?

 なんとも物騒な世界である。というか、今、とても大切な事をアヤメは言った。


「……お前、妖怪なのか?」

―――うーん、似たようなものかな?あ、けど違う。妖怪には分類されない。別に明治時代にこの“虚無界”から“幽世”にお引越しをしたっていうわけじゃなくて、あたしのお母さんは昔から黄泉の国に居るから。

 分からない。

「どういうことだ?黄泉の国に居ると、妖怪じゃないのか?」

―――そうじゃない奴もいるっていうこと。あたしは、そうだな。呼び名は沢山あるのだけれど、人間で言う……。


 すう、とアヤメの表情が微妙に変化していく。少し悲しそうで、それでいて、ただ、事実を告げるだけの、けれど何かを恐れているかのような。複雑な感情が入り混じった笑顔だ。


―――死神ってところかな?


 死神。死者の魂を狩るモノ。死を宣告するモノ。一言に死神といっても各国でその解釈は多種多様であり、一概に何をするものか、定義づけられていない。ただ、死により近い存在する者であり、決して吉兆などではないことだけは、現代社会に於いて共通の認識だ。交通事故で死にかけた人間が、よく「死神を見た」と口にすることがあるが……もしかしたら彼女たちのことを指しているのかもしれない。


「で?」

―――反応薄い!もう少し吃驚するとか、怖がるとかしないの?

 言われてみて、成程、ここは驚いたり恐れたりするところだったのか、と理解する。けれどそういう感情が特に沸き上がってこないので、夕映はありのままに答える。


「……いや、別に」

―――本当にもう、淡白だなあ!

 淡白、というわけではないのだが。

 感じない、というだけである。

「それで、死神はいわゆる“この世界”の人間が見えない存在の一つになるのか?」

―――この世界を、黄泉の国と幽世は虚無界って呼んでいるのだけれど。まあ、死神は死に際の人間にしか見えないね。もちろん、黄泉の国と幽世の人間は普通に見えるけれど。

「じゃあ、なんでオレにはお前のことが見えているんだ?」

―――さあ?

「頼りにならないな」

―――けれどあたしは運がいい!丁度いいからお願いしちゃうよ!

「何を?」


 にこにこと笑いながら、アヤメは夕映の両手を包み、握りしめた。

―――お願い、脱獄囚の調査に協力してよ!

 予想外。

 いや、心の中ではどこか、予感はしていたのだが。


「……は?」

 それでも、突然の依頼に、思わず声が出てしまった。


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