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朱天の詩  作者: 千年寝太郎
第一章
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第一節

裸注意

――5月10日(月)17:00 榊夕映――



 榊家。

 祓魔局の創設者、榊大昌の直系にあたる、祓魔師の名門ともいえる家。妖魔の出現が増加を辿る現代に於いて、その権力と財力は大きく、東京の一等地に巨大な邸宅を建てるほどの力を持つ。


「うっひゃー!大きい!」


 敷地面積は500坪。広い庭に小さな林、離れや温泉その他諸々。まだまだ、行ったことのない場所がたくさんあるのではないか、と錯覚するほどの巨大な日本家屋。

 それが、夕映の家だ。


 豪邸を目の前に跳ね回る少女を置いて、さっさと夕映は自宅に入るべく門の前へと向かう。

「ただいま」

 門に取り付けられた指紋認識センサーに触れ、声を発する。最後に指紋認識センサーの上に設置された網膜センサーを覗き込めば、本人認証は完了し、ゆっくりと巨大な鉄づくりの門が開き始める。


「うひゃあああ!ハイテク!ハイテク!」

 悲鳴を上げる少女に、夕映は尋ねる。

「一応確認だが、家の敷地には魔除けの結界が張ってある。入れるよな?」

「あたし、別に魔の者じゃないから大丈夫だよ!」

 元気よく答えられた。


「だよな」

 頷いて、さっさと夕映は家に入る。綺麗に整えられた広い庭を通って、家の前へ。扉を開いて中へ。そこには、とても広い玄関口が広がっている。本物の金を使って鮮やかに鶴などの動物が描かれた屏風に、青々とした観葉植物。天井には木組みの電灯がぶら下がっている。家族の一人が足が不自由であるため、スロープが設けられている。


「適当に上がれ」

「うえーい!」

 両手を上げて家に上がり込もうとする少女に向かって、

「待て。靴は脱げ」

一言忠告をした。

「うえーい!」

 少女は素直に夕映の言葉を聞き入れて、ごそごそと靴を脱ぎ始めた。随分と立派でしっかりとしたブーツだった。


「坊ちゃま、お帰りなさいませ」

 夕映の帰宅を聞きつけたのか、お手伝いさんの一人である坂井がやって来る。ほっそりとした美人の女性である。夕映の父親は、こういう女性が大好きで、よく雇っている。彼女は常に、虚ろな笑顔で夕映に接してくる。それに慣れきった夕映は、構わずに表情の一切は変えずに頼みごとをする。

「坂井さん。悪いが、食事をすぐに用意できるか?一人、腹を空かせた奴を拾って……」

「ご学友ですか?」

 笑顔のまま。坂井は少女に視線を向けて尋ねた。

「いや。そこら辺で拾った。名前は……」

 そこまで言って、夕映は言葉を止めた。やっとブーツを脱ぎ終えた少女に向かって、尋ねる。


「そういえば名前を聞いていなかったな」

「ん、勝手につけてくれていいよ。本名も術式名も、基本的に言っちゃ駄目って言われているからさ」


(術式名……?)


 聞き覚えのない単語に疑問を覚えながらも、夕映は少しの間考えた。視界の端に、季節外れのアヤメがぽつりと飾られているのを捉え、思いつく。

「じゃあ、アヤメ」

「うん、じゃあ、アヤメで。よろしく、坂井さん!」

 笑顔で挨拶をするアヤメの無邪気さに、「はあ」と坂井は曖昧な返事をした。絶対に胸中で変な子だ、と思っているに違いない。なるべく関わらないでおこう、とも思ったらしい。坂井の視線は自然と夕映へと動く。


「坊ちゃま、雨で体が冷えたでしょう。お食事を用意する間に、お風呂に入られてはいかかでしょうか」

「そうする」

 素直に頷いて、夕映は鞄を坂井に預ける。それから、アヤメと名付けた少女に向かって言う。

「お前も入っておけよ。雨の中、行き倒れていたんだから」

「そうだね!あたし、濡れてるね!」

 自身の体を改めて見て、やっと自覚したのか、アヤメは手をぽん、と打った。発言の一つ一つが、どこか間抜けている。と、いうか、自分というものが見えていないのか。それとも、体が濡れるという感覚に慣れているのか。

「着替えはこちらで用意しておきますから、ゆっくりとお風呂に入ってください」

 いつも淡々としている坂井の声色は、今しがたの、女性として信じられないアヤメの発言に、更に冷たさが増していた。



 服を脱ぎ、ゆっくりと湯に浸かる。

 屋内の風呂と露天風呂が常設されているこの家は、まるで銭湯のような広さを持つ。それでいて、入る人間は少ないので、静かで広い空間は、少しだけモノ寂しさを感じる。

(今日も疲れた)

 そんな感想を夕映は抱く。


 特にこれといって、珍しいことをしたわけではない。アヤメを拾っただとか、そんなことはどうでもいい。特段気を張っているわけでもない。ただ、何気ない日常に疲れを感じる。

―――つまらない奴だな。

 遠野の言葉が脳裏に蘇る。

 その通り。自分はつまらない奴である。


(けど、どうしろ、というんだ)


 つまらなくない奴とは、一体どのような人物を言うのだろうか。

 もう少し他人と関わればいいのだろうか。

 面白い発言を、行動をすればよいのだろうか。

 どちらも自分らしくない、と思える。


 そもそも、誰かに興味を持つことができず、だから誰かに感情移入することもできず、そして薄情な出来損ない、という烙印を押されている。

 薄情、と言われても。

 情がわかないわけではないのだが。

 自分が見ている今の光景が、まるで別世界にしか見えなくて、仕方がない。


「うー…!」

 全てを放り出すかのように、大きく伸びをした、その時。


「じゃじゃじゃーん!アヤメちゃん登場!」


 勢いよく開かれた浴場の扉の先から、快活な声が響き渡る。

「お……」

 素っ裸でアヤメが風呂の中に入って来たので、少し驚いて、夕映は目を丸くした。


「いやあ、すごいお風呂だね!こんなお風呂、人生で三回目!真守の家と同じくらい広い!あ、けど師匠のお家よりは小さいかな?」

「ここ、男風呂だぞ」

 遠慮なく浴場に入って来るアヤメの方を睨んだ。こいつ、常識が全くもってなっていない。

 そのような感想しか、持てない。

「細かいことは気にしないで!だって、広いお風呂に一人ってなんだか寂しいんだもん!誰かと一緒にお風呂入ったほうが楽しいじゃん!」

 にはは、と笑いながらアヤメは堂々と風呂に入って来て、夕映の隣に座る。


「おい、出てけ」

「なんで?」

「女が男風呂に居ることが問題だ。しかも素っ裸で」

「うーん、それは前にも颯とかにも言われた。寧ろ怒られたなあ」

 颯、とは一体誰のことだろうか。

「けど、あたし、そこら辺、全く分からないんだよね。男だとか、女だとか。この体を作り上げて、女になったのもつい最近だしさ」

「……?」

 何を言っているのかさっぱり分からない。しかしながら、この少女は昔、少女ではない何かであることは分かった。

 まあ、ともかくも。


「とにかく女風呂に行けよ」

「えー、けち!」

 そういう問題ではない。

「そもそもさ、こういうときって、人間の男の子って恥ずかしがるもんじゃないの?」

 そんな指摘をされる。その通り。通常は、恥ずかしがるものだ。

 けれど。


「……そういう感情が湧かねえ。……昔から」

 正直に言えば、唇を尖らせていじけていたアヤメは、すっと表情を失わせる。まるで人形を思わせるものだった。彼女はそのまま、じっと夕映のことを見つめてから、「そっか」と呟いて、風呂を出て行った。

「……変な奴」

 完全にアヤメが立ち去ったのを確認してから、心からの彼女の印象を口にする。それから、深く息を吸って、そして吐きながら、肩までゆっくりと湯に浸かったのだった。




――5月10日(月)17:20 天霧八尋――



 雨が、だいぶ小降りになってきた。空は、徐々に晴れてきて、雲の切れ間から美しい夕暮れが顔を出すようになっていた。


 そんな中。

「ここの地脈変動率は0.1、と。安定しているわね」


 天霧八尋はタッチ式の大学ノートほどの大きさのタッチパッドを片手に、ふらふらと住宅街を歩いていた。画面には、八尋が歩いている周辺の詳細地図が表示されている。八尋が丁度通り過ぎた位置には、地脈の安定度を示す文字が表示されていた。

 祓魔師の仕事の基本の一つに、地脈の現地調査がある。徒歩で周辺を歩き回って、小型の地脈を観測する機械に、その地点の地脈の細かな乱れを感知させることで、より妖魔の出現率を精密なものにしていく、という非常に地味な仕事である。

 タッチパッドの画面には、八尋が歩いている周辺の詳細地図が表示されている。八尋が丁度通り過ぎた位置には、地脈の安定度を示す文字が表示されていた。

 祓魔師の仕事の基本の一つに、地脈の現地調査がある。徒歩で周辺を歩き回って、スマートフォンにその地点の地脈の細かな乱れを感知させることで、より妖魔の出現率を精密なものにしていく、という非常に地味な仕事である。

 八尋はいわゆる特待生であり、他の祓魔師候補よりも早く、本格的なプロの仕事の体験をさせてもらっている身だ。それは才能があるから、というのには留まらず、次期当主だから、という理由もある。

 実力は急いでつけなければならない。

 妖魔は待ってくれない。

 高い潜在能力を持つ祓魔師をより早く世の中に輩出する。

 今、祓魔局はこのことに躍起になっている。


「さて、次、行くよ、鬼界くん」

 振り返る。そこにはしゃがみ込んで野良猫と戯れる、鬼界巧の姿があった。やたらと動物に好かれる彼は、猫の腹を撫でながら答える。


「なあ、もう帰らね?どうせここら辺、地脈を観測したって意味ないよ。ここ数週間、地脈は安定しているし」

「そういう油断が命取りになるのよ。いつなんとき、どんな変化があるのかが分からないのが、地脈なんだから。昔はある程度地脈の変動を予測できたらしいけれど、今はその技術は失われているから、足で調査して、結果を報告して、住人の安全をしっかりと確保することも、祓魔師の大切な仕事よ」

「真面目だなあ、天霧は」


 大きく欠伸をする巧は、明らかにやる気がない。午前、机をたたき割って八つ当たりをしていた彼は、結局講師に怒られて、本来の実戦訓練から外されて、今、このカリキュラムに参加している。

「あー、体が動かしたい…………喉乾いたな」

 肩を回しながらぼやく巧は、ふと思いついたように八尋に向かって言う。

「ちょっとそこら辺で飲み物買って来るわ」

「は?ちょっと!」

 八尋の制止を聞かず、ふらふらと巧はその場を立ち去って行ってしまう。おそらく、自動販売機を探しに行ったのだろう。


「んもう!勝手なんだから!」

 怒りながらも、八尋は律儀にその場で巧を待つことにする。

 我ながら、中々のお人よしだと思う。もうそろそろ日暮れになる。その前に、任された調査を全て終えなければならないというのに―――巧はどこまでも勝手で我儘だ。腹立たしい。


 生暖かい風が、ふわりと吹いた。それと同時に、何故か八尋は寒気を覚えた。


 チリチリと音を立てながら、街灯が点滅し始める。点くのかと思えば点かず、そのまま消えてしまう。

 次の瞬間。

 ゆらり、と動く影の気配を感じて、八尋は振り返る。

「え、負力……?」

 信じられずに、思わずつぶやいた。


 負力とは、妖魔が発する力の総称である。地脈から噴き出した負の力を纏い、現界する妖魔。その力の源は当然のように負の力であり、故に彼らが使う力は負力と呼ぶ。霊力とは異なる、もやりとした感覚があり、生理的に不快感を覚えるのが特徴的だ。


 だが、八尋は首を傾げる。

 負力にしては、妙な違和感があった。その違和感が何か分からない。

 だが、それは確かに異常であった。異様であった。これだけは、しっかりと理解できていた。

「……」

 自然と、指はポシェットの中の御札を取り出していた。

 また、影が背後を通り過ぎた。先ほどよりも近づいている。

「何なのよ……?」

 妖魔は地面から発生する。直前に地脈の変動が観測される。しかし、スマートフォンに入れてある妖魔を観測されたことを示す、携帯の警報音は鳴らない。

 向かってくる。


 背後―――。振り返る。

 反応が、少し遅れた。いや、遅れさせられた、というほうが正しいか。

 振り返った先に居たのは、化け物だ。八尋が知り、常に敵として認識をしている妖魔ではない、人の形をした何か。

 妖魔は実体を持つ悪意、負の感情の塊であるとされている。彼らは大抵、この世の生物に即した見た目をしていることが多い。

 そして、決して人の形を取らない。

 目の前にいるのは、人の形をした化け物だった。体に黒い靄を纏った化け物だった。黒い靄は負の感情の塊かもしれない。けれど、それ以上の何かなのかもしれない。

 とにかくも未知の化け物が目の前にいる、という事実だけで、八尋をパニックにさせるには十分だった。


「あっ……」

 声から洩れたのは悲鳴だった。

―――次期当主たるもの、容易に怯えを表に出さないように、心がけてください。

 昔教わった、脳にしみついた言葉が蘇った。

「っ……!」

 咄嗟に自らの口を押え、声を堪える自分がいた。何をやっているんだ、と心の中で叱咤する声が聞こえたような気がした。

 向かってくる。手を伸ばす。黒い靄のような手だ。その指の形は、人の命を奪うのに十分な、尖った形をしていた。

 その、靄がかかった化け物の指は、体は―――。

 眼を瞑りかけた八尋の体をあっさりと通り抜けた。痛みも何もない。けれど、ぬめりとした不快感だけが体に残る。


「なん、だ……?」

 冷や汗が頬を伝う。慌てて振り返れば、そこには両手をついて、呆然としている化け物が居た。まるで、自分の身に起こったことが分からない、というように、頭を振っている。

『タリ、ナイ、何、ガ?足り、ナイ?』

 掠れた声が聞こえる。男のものとも、女のものともつかない声だった。ふらり、と化け物は立ち上がる。

 途端。


 パン、と風船が弾けるような音が辺りに響き渡った。数瞬遅れて、化け物の、人間でいえば頭にあたる部分が弾け飛ぶ。

 頭が、消え去った。人の形であるので、思わず八尋はそこから血が飛び出るのではないか、と思って息を呑む。

 だが、次に起こった出来事は、八尋にとっては想像できなかった事だった。

 頭があった場所に、鈍色に輝く文字が現れた。霊力で練られた術式かと思った。しかし、その文字は日本語のように見えるが、微妙に形が崩れていて、読めなかった。それが円を描きながら縮小し、丸い輝きとなって化け物の体へと消え去っていった。

 今のは何だったのか。思考する前に、次の変化が現れた。

 化け物の頭から流れ出て、地面に溜まっていた黒い靄が、ゆっくりとまた、元の場所へと戻っていき、頭も、元の形へと戻っていったのだ。

 ふらり、と化け物は大気へと溶けていく。生暖かい風が一迅吹いた、その頃には、化け物の姿は完全に消え去っていた。


 パチリ、と街灯が点いた。そのわずかな音に、敏感に八尋は反応し、肩をびくりと震わせた。世界の色が戻ってくる。空は綺麗な夕暮れ色に染まっていることに、八尋はやっと気がついた。


「やれやれ、まさかあんな所まで歩かなきゃ、自販機がないとはな……って……」

 今更のんびりと帰って来た巧が、ぎょっとした表情で八尋を見た。

「ど、どうした?顔色が悪いぞ……?」

「……別に」

 怖かった。そんな言葉を押し殺す。

「なんでもない」


 なんでもなくはない。心の中は叫んでいた。

 謎の妖魔のようなもの。見たことのない術式。

 これらすべて、自分の遭遇したものを、今すぐに吐き出したい気持ちを必死に押さえつけて、八尋は首を振った。

「なんでもないわ。さあ、行くわよ」

 そう言った八尋の声は、必死に抑えていても震えていた。





 スマートフォンが鳴った。着信は黒金からだ。

「どうした?」

 電話に出れば、彼女の声が聞こえてくる。


『脱獄囚の一人、発見しました』

 いつも通り、冷静で淡々とした声だった。しかし、その声の中に僅かな動揺があった。

『しかし……何らかの変質が始まっているようです。……弾を二発撃ちこみましたが、攻撃術式は効きませんでした』

「マジかよ……。こりゃ、術式考案も進めなけりゃならんが……なんにせよ、まずは現物を見てからじゃねえと、どうしようもねえな」

『追尾術式は、埋め込むことに成功したので……今、追っています』

 電話口から流れる黒金の声に、長い黒髪を垂らした十二単の少女―――翡翠は称賛する。

「さすがじゃの、黒金。仕事が早い」

『ありがとうございます。……ただ、私が今、奴を追っているのは……その、これ以上変な行動を起こさないようにするためですが』


 彼女がここまで長時間話すには珍しい。元々口数が少なく、行動で意志を示すタイプだ。余程、今伝えなければならない事があるのだろう。無意識に、体が強張ったのを感じた。

「と、いうと?」

『こちらの世界の人間に、奴は認識されていました』

「……」

『更に、人にとり憑こうとしていました。これも……本来ならばあり得ない、いえ、不可能な行動のハズ。それなのに、何か確信をもって、人に襲い掛かっていたのです』


「悪い傾向じゃ」


 翡翠が断言した。

「それはとても悪い傾向じゃ。こちらの世界が予想以上に奴らの身に合った力を有していたのか、それとも協力者がいるのか。どちらにせよ、明治時代よりギリギリのラインで保たれてきた境界が、崩れ始めてきておるのやもしれん」

『ええ。私も久々に、血が騒ぎました。遠い、遠い昔の自らの在り様を、思い出してしまいました。人を、食料として、戯れの相手として、認識していた、あの頃の……。……今すぐに来れますか?二代目』

「ああ……」

 颯は、顔を上げた。それからちらりと視線を背後へと向けた。


 そこには、電柱の傍にしゃがみ込んで、ぶつくさと拗ねている、真っ青な顔の金髪の青年―――金剛が居る。

「……五分後には行けるようにするよ」

 呆れるような声色が出そうだったが、そこは必死に抑えて、抑揚のない声で、颯は答えた。


―――5月10日(月)17:30 鬼界颯―――



 彼らの姿は“こちら側”の人間たちには見えない。

 それは、決して彼らが特殊な存在だからではなく、“こちら側”の人間が知覚しようとしないからに他ならない。

 存在しないもの、として認識しているからに、他ならない。

 ゆえに、両者は見えないし、触れられない。互いに干渉することが不可能だ。

 普通は。


 しかし、“こちら側”の何らかに繋がりを持てば、不可能は覆る。程度によるが、知覚し、接触し、言葉を交わすことが可能となる。

 妖魔も、そして、彼らも。

 今、彼らの姿が見えている“こちら側”の人間は、彼らと縁を繋いでいる颯のみである。


「お前、大丈夫か?ここに残るか?」

「……待ってくれ、待ってくれ……あー畜生」


 真っ青な顔のまま、まるで子供のように泣く金剛。折角の整った顔立ちが台無しである。尤も、彼の場合は普段から、“残念なイケメン”と巷で噂されているほどの、不幸な体質に残念な性格をしているのであるが。

「まさか、顕在化がこんなに吐き気を催すものだとは……うっ」

 唸り声を上げ、胃から込み上げるものを必死に抑える金剛だったが、結局は根負けをして、電柱の傍で吐き続けている。

「うお、なんだ、くせえ」「なに、夕方から酔っぱらっている人がいるの?」


 金剛の姿は見えなくとも、彼が発した吐しゃ物は、生物が発するごく普通の胃液その他もろもろの自然物であるため、通常の人間にも知覚認識される。颯は鼻を抓みつつ、ちらと翡翠を見やる。

「情けないのう。世界酔いを起こすとは」

 翡翠が呆れた様子で、しかしどこか楽しそうに笑い、指をパチリと鳴らす、金剛が吐き出したものが、瞬時に分解・浄化され、水へと変化していく。

「仕方がねえだろ……千年以上生きている経験豊かなばーさんとは違って、オレはあっちの生まれだからな」


 顕在化。“こちら側”の人間に知覚されるようになり、“こちら側”に干渉できる状態の事を言う。すなわち、“こちら側”の人間と全く変わらない存在として認識されることだ。

 ただ、顕在化するには慣れが必要だ。“こちら側”の生まれではない者ならば、尚更だ。元が“こちら側”に存在する筈のない人間ではないのに、無理矢理に世界に割り込み存在を主張するのだから、それなりの代償は必要だ。

 その代表的な一つが「世界酔い」であり、簡単に言えば、猛烈な吐き気に襲われる。


「まあ、慣れだ、慣れ。俺も何も考えずにいきなり十割の顕在化を行使したからいけなかった。段階的に体を慣らしていこう。じゃないと、お前の行動範囲が狭まる。今後不便だ」

 反省を口にしてから、笑いながら、颯は礼を続けた。


「そんにしてもサンキュな。参考になった。これで管理人のおっさんをこっちに呼ぶときの、顕在化の加減の目安ができた」

「オレは実験台か、畜生!」

「勝手についてきたのはお前じゃろうが」

 怒る金剛に冷静な翡翠のツッコミが入れば、金剛ははたと反論を止めた。


 また吐いた。


「大丈夫そうか?」

「……胃の中のものが全部出たような気がする」

「後からラーメンを奢ってやるよ。ここいらで美味しいラーメン屋があるみたいだからな」

「そうなのか?」

 食事のことには耳聡く、顔をゆるゆると上げながら、金剛が尋ねる。颯はこめかみを指で軽く叩きながら答えた。

「ああ。何度か東京に来たことがあるらしいぜ、こいつ」

「……ややこしいなあ、お前らは……あ」


 率直な感想を述べている金剛は、不意に言葉を止めて、視線を一点に集中させた。何事かと金剛が見ている方向を見れば、そこには翡翠が自動販売機の前に立っていた。彼女は背伸びをして自動販売機にお金を入れようとするが、上手く入らない。


「ふむ。やはり顕在化せんとこちらの物に干渉はできんか。不便な世の中じゃ」

 そんな感想を漏らし。

「ふ」

 彼女が持つ気配が変化した。

 今まで、この世界に於いて空気のような気配だった彼女は、瞬時に人としての気配を得た。


「うわ」「え?」

 人通りの多いこの道路沿いで、十二単の幼女が現れたら、人はまず驚く。

 そんな周囲の人間の反応など全く気にせずに、翡翠は背伸びをしてお金を自動販売機に入れ、水の入ったペットボトルを買って、これを掴んだ。


「よしよし」

 満足そうに頷いたら、また彼女の気配が変わる。人という形から、空気のようにそこに確かに存在しているが、見えないものへ―――意識の外の存在。そんな気配へと変化した。

当然、「今、十二単の幼女が!」「すぐに消えた!」「どうなってんの!」と、小さな混乱が巻き起こっていた。颯は思わず頭を抱えた。


「成程、一度触れたものは顕在化を解いても、掴むことができるのか。小さいがこれも、わしとこのペットボトルと関係性が生まれたということか」

 納得して頷いて、金剛の前に水が入ったペットボトルが差し出された。

「ほれ、飲め、飲め。わしの力を込めておいてあるからの。すぐに吐き気は収まるぞ」

 真っ青な顔でペットボトルを受け取りつつ、金剛は萎れた声で、

「気遣いはありがたいんだけど……ばーさん、安易に人の多いところで顕在化をしないでくれ……」

「ふむ?なぜ?」

 小首を傾げる翡翠。かわいいけれど、これでも齢千歳を超す老人だけあって、常識という常識が通じない部分がある。


「十二単の平安時代のような恰好をした幼女が、いきなり出てきて消えたら、誰だって驚くだろ。とにかく目立つ」

「気にせんでええ」

「周りが気にするんだってば、ばーさん……」


 水を飲みながら、げんなりとした様子で金剛が呟いた。顔色は大分よくなってきた。

 翡翠の能力の一つの効果―――は生命力の底上げだ。生命力とは治癒力であり、体内の霊的バランスを元に戻すこともできる。顕在化は体内の霊的バランスをわざと崩すことにより、存在の力をコントロールする術式だ。

 とても揺れる乗り物に乗れば、個人差はあるが誰でも酔う。人間の自立神経が狂うからだ。けれど、慣れれば酔わなくなる。普段通りの生活ができるようになる。

 世界酔いは、ほぼ、乗り物酔いと同じ原理である。


「ああ、生き返った……」

 ペットボトルの水を半分以上飲み終えて、金剛は息を一つ、吐いた。

「いけるか?」

 颯が尋ねる。

「ああ」

 金剛は頷いた。


「そんじゃ、まー……」

 颯は人気のない路地裏へと足を踏み入れる。入ったと同時、自らの中の気配を反転させた。こちら側ではまず、存在することが許されていない。触れられない。見えない。

 顕在化を解くのとは違う。ただ、自分の中の存在の重心を変えただけだ。今まではこちら側の世界に足をつけていた。今は、自分が住んでいた場所へと足をつけている。

 そんなイメージをするだけで、颯は周囲の人間たちから姿を認識されなくなっていた。


「行くぞ」


 振り返れば、金剛と翡翠が頷いた。

 三人は同時に、夜空へと跳び上がった。

 そして。


「……どうしたんだ、金剛」

 合流すると早々に、表情にあまり変化がない黒金には珍しく、金剛の無残な姿を見て、顔を歪ませることになる。

「あー……いや、顕在化を完全に解いていたものだからな」

 鼻を抓んだ状態なので、籠った声で颯が答える。

「ほら、こちらの世界の人工物には、お前たちは顕在化をしないと一切触れられないだろ?それをすっかりと忘れていてさ。屋根伝いに走ろうとしたら、ほら、足の裏すら、こちらの世界のものに触れられない状態なもんだから」

「……ああ」

 理解した、と黒金は頷いた。


「すり抜けたのか、屋根から」

「しかものう、落ちた場所が丁度ごみ溜めの上でのう。ごみの腐臭は自然に発生するものだから、顕在化していても接触できてしまったのが運の尽き。臭いが染みついてしまって、もう、臭いのってなんのって。かかかかか!」


 笑いながら、翡翠が金剛を指さす。

 彼は、げんなりとした様子で肩を落としていた。その体からは、不快な臭いが漂っていた。腐臭、所謂腐った食物その他の臭いが体に染みついているのだ。

 この世界のものに触れられない。それは、彼らの法則だ。

 確実には、この世界の人間が作り上げた、人工物に触れられない。それは、体全身共通の法則で、その法則を覆すのが顕在化だ。顕在化をしなければ、例えビルや家の屋根だろうと、触れられないし、足をつくことができない。

 足の裏にのみを、顕在化しなければならないことを、颯はすっかりと失念していた。


「いや、本当に悪かった」

「くそぅ……。こっちに来ても、俺ん家の呪いは有効なのかよ……」

 歯ぎしりをしながら、ぶつくさと金剛が拗ね始めている。

 それでも、

「ところで、脱獄囚の野郎はどこにいるんだ?」

話をしっかりと切り替えるあたり、金剛は真面目である。

 黒金は小さく頷いて、指をさす。


 ここは、住宅街から少し外れた、広い公園の傍である。金剛が指さすのは公園の中。物陰に隠れて目を凝らせば、確かに、黒い靄を纏った人間のような姿のものがいる。丁度公園の中心に蹲って、ぶつくさと唇を動かしている。

 脱獄囚。皆がそう呼ぶ、死者である。

「名前は特定できたか?」

 颯が尋ねれば、スマートフォンの画面を黒金が見せてくる。


『脱獄囚ナンバー45』

 題材にはそう書かれている。下へ文章が続いていたので、スクロールをしていく。

「えっと……十七年前、虚無界……“こちら側”で数人の女性をストーカーし、殺した連続殺人犯。殺された女性は皆、一貫して十代後半頃の若さであり、強姦をされた後に、何千も切り刻まれて標本にされていた、と……。発見第一号から血生臭いな」


 簡単に概要を読み上げた颯の隣で、金剛が顔を顰めている。

「地獄にも堕ちるわ、そりゃ」

「あの爺からもらった術式は行使できそうか?」

 翡翠が険しい表情で脱獄囚を睨みながら尋ねてくる。

「正直分からねえ。爺から貰った術式は“あちら側”向けのものだから。金剛が放った“あちら側”の術式の一つが通り抜けて、一つが当たった、ということは、体内で常に顕在力の比重が変化しているのかもしれないからな。下手をしたら効かない」


 掌から、赤黒く輝く、日本語ではない文字で構成術式を発生させながら、颯は答えた。

 世界は、沢山ある。そのどの世界の存在であるか。総じて顕在力と呼ばれる力は、いわばその人物がどの世界に存在して居るかどうかを指す。

 幽霊が人に触れられない、という事例が過去に多発していたのは、幽霊という存在は、“こちら側”ではなく、黄泉の国という世界に存在の力―――顕在力を置いているからだ。それでも見えるのは、自分の顕在力の半分を、“こちら側”に置いているからに他ならない。

 要は天秤みたいなものだ。100ある顕在力のうち、片方の皿に顕在力を70置けば、皿が傾く。皿が世界とすれば、地面へ近づくほどに、その世界の物に触れられるようになるし、影響を与えられるようになる。代わりに、もう片方の天秤の皿は上へ上がる。別の世界としての顕在力を失っていくので、別の世界への影響力は失われていくことになる。

 術式は、相手の顕在力の比重に合わせて放つものだ。“こちら側”に顕在力を傾けているのなら、“こちら側”として構成した術式しか当たらない。

 通常、生き物は“こちら”か“あちら”か、どちらかに100%の顕在力を注ぎ込んでいるものだから、どっちつかずはあまり事例がない。


 ―――あるとしたら、半妖か、若しくは“こちら”生まれの“あちら”育ちくらいか。


「黒金、顕在力の比重を変えながら、戦ってくれるか?奴の今の、顕在力の比重と傾け方を見ながら、術式を構成し直す」

 颯の質問に、間髪入れずに黒金は頷く。どうやら最初からその気であったらしく、腰からは刀身の短い脇差を引き抜いている。既に戦闘準備は完了している。

「金剛は脱獄囚が逃げないように、結界を張ってくれ。翡翠は人避けを。俺は黒金の戦闘データを取りながら、解析に入る」

 テキパキと指示を出せば、皮肉気に翡翠が笑った。

「連続殺人犯の亡霊を、実験台にするとは良い度胸じゃな」

 颯は口元を歪ませて、答える。

「なんせ、まだ数百と脱獄囚がいるのでね。なりふり構っていらんねえよ」


 すっと手を挙げれば、全員の表情が一変した。仕事をするに相応しい、感情をどこか押し殺したもの。何かに集中するもの。鋭い狩人の瞳。

「―――いくぞ」

 冷えた声と共に、一斉に行動に出た。


 翡翠は人避けの結界を張った。薄い膜のような結界は一気に住宅地に波及していき、人気という人気が消え去っていく。金剛は公園周囲に強力な結界を張った。異変に脱獄囚が気づいたときにはもう遅い。黒金が飛び出し、脇差を手に襲い掛かった。殺さぬように、その性質を、颯が分析できるように、位置取りまで気を付けて。

 そして、颯は一番見晴らしのよさそうな家の屋根の上へ移動し、両手を合わせた。放した両の掌から、溢れ出るのは術式と呼ばれる文字の類。色々な意味を内包し、世界そのものに影響を及ぼす力だ。


「解析開始」

 そして、術式の文字が赤く輝き始める。

「構成式、書き換え、開始。対象と同調を開始」

 機械的な言葉だが、必要な事だ。言霊により届いた颯の声を、聞き留める人物がいる。


―――承認。


 微かに聞こえる声があった。

 黒金と脱獄囚はにらみ合っている。

 一撃目。脱獄囚はなんとか黒金の一撃を避けた。当然黒金が手加減をしていたからだろうが、脱獄囚はそれを自分の力だと錯覚したらしい。


『オ、ンナ……』

 そう呟いた脱獄囚を黒金は睨んだ。不快感が顔に滲み出ていた。

―――黒金、まずは顕在率、両界50%で当ててくれ。

―――はい。

 すぐに返答は戻って来た。脳内を通して直接会話をする、いわゆるテレパシーと呼ばれる類のもの。これも術式の一つ。


『オンナ、オンナ、オンナ!』

「黙れ」

 興奮したように、脳に響く声を発する脱獄囚に、一瞥すらくれてやらず、黒金はその眉間に刀を突き立てた。手ごたえは、遥かに軽い。既に死者であるために、眉間の一撃で消滅することはなく、そのまま前のめりに突き進んでくる。


―――次、“こちら側”……虚無界率80%。

―――はい。


 刀の柄から手を離し、素早く背後へ跳んで、脱獄囚と距離を取る。指を小さく動かせば、つられて脱獄囚の眉間に刺さったままになっていた刀が一人でに動き、黒金の手元へとお戻っていく。それを追うようにして、脱獄囚が黒金へ向かって駆け出した。


―――足は、虚無界率40%で止める。


 告げて、颯は屋根を軽く叩いた。途端、脱獄囚の足元に術式が発生した。一瞬、脱獄囚の足は術式に掴まって止まった―――が、すぐに動きが元に戻る。手ごたえは最初にあった。しかし、すり抜けたような感覚。

 続いて黒金が襲い掛かって来た脱獄囚の腕を軽く避けて、刀でその肩口を薙いだ。最初はすり抜けた、と言うに相応しい空を薙ぐような動きだったが、すぐに確かな手ごたえへと変化していく。


―――二代目。

―――分かっている。……常に顕在力の比重が常時、変化しているんだ、こいつら。普通の術式を喰らわせたところで、地獄に完全には送れない可能性が高い。術式の不発で、別に地域に飛ばしちまうかもしれねえな……。なら、

 敵の顕在率に合わせて、構成式を固定しようと考えていたが、颯はすぐに思考を切り替える。

(なら、サーフィンの要領で、波に乗れるように術式を構成するしかない)

 思い至ったのは、そんな方法。


 基本的に術式は、使用する世界を固定してから扱う物である。

 世界にとって不安定な存在でもそれは同じだ。常に顕在率が二つの世界をふらふらとしている状態など、通常ではありえない。そんな事をしていたら、それそのものが、世界の波長の波間に揺れて表面を削られていく。魂ならば摩耗。肉体ならば消滅の危機。

 けれど、今、敵はそのような状態だ。例外的な事象には、例外的な術式の構成を適用するしかない。


―――時間がかかる。

―――生け捕りますか?

―――死霊だけれどな。

 颯の端的な現状の報告に、黒金は尋ねて、その言葉に、金剛は皮肉を投げ放った。

―――個人的には粉みじんに消し去りたいのですが。

 感情を露わにしない黒金が、珍しく言葉に熱を込めて願っている。脱獄囚は黒金に拳一つも当てられず、苛立ったように唸り始めている。

―――いかんぞ、黒金。恩赦でなんとか生き残っている妖怪の一人なのだから……待て、人避けを通り抜けた?

 宥めるようにテレパシーの会話に参加してきた、翡翠の声が瞬時に緊迫したものへと差し替わった。


―――人だ!


 翡翠の声に、弾かれたように颯は顔を上げた。まるで人を感知するセンサーでもあるのか、脱獄囚もまた、びくりと体を震わす。

『オンナ』

呟いた。舌打ちをして振るった黒金の刃が脱獄囚の体を通り抜け、空振った。脱獄囚はふらりと歩き出したかと思えば、脇目も振らずに駆けだした。


「くそ!」

 颯は屋根から立ち上がり、翡翠と感覚を繋げる。翡翠が人を感じた方向に、確かに人が居た。女子高校生。そこに向かっていく脱獄囚。

生前、女性をストーキングして殺した人物だ。執着は死後も続く。ならばこそ、危険だと、黒金は彼を止めようと動き出す。

 しかし、顕在力の比重は更に大幅な変化を見せているのか、見えたり、消えたり、揺れたり、脱獄囚はまるで不安定なホログラムのようだ。その顕在力の変化に合わせられず、黒金は彼に決定打を与えられない。

 決定打を当てられないのは、今、この場にいる誰もが一緒だ。

 人命は優先しなければ。

 ならば。


「仕方がねえ!」

 颯は屋根から飛び降り、丁度脱獄囚と女子高生の間に着地した。

「ひ、人?」

 女子高生は驚いたように声を上げる。続いて、彼女の視線が泳ぐ。

「ば、化け物……!」


 どうやら見えているらしい脱獄囚の姿は、確かに化け物というに相応しい容貌をしていた。黒い霧に覆われたヒトの形。口のみが顕在化されているために、ほの白い色を放っているが、周囲の肉体が黒い色をしているので、目立つ。涎を垂らし、口角を上げながら『オンナ、オンナ』と向かってくる様は、正しく化け物だ。


 女子高生が腰を抜かしてその場に倒れ込んだ。

気にせずに、颯は掌に術式を集中させる。

 本来、地獄堕としをするための、今は不完全な術式だ。赤黒く輝き始め、みるみるうちに掌を満たしていく。


「取り敢えず別の場所に飛んでもらうぜ」

『ジャマ、ダ!』

 振りかぶられた拳を、あっさりと颯は避けた。拳の振り方は素人同然。目を瞑ってでも避けられる。けれど攻撃が当たらなければ事態は膠着状態に陥る。体を捻り、体は前のめりに。そのまま、掌に溜まった術式を、脱獄囚に押し付けた。

 ずるり、と掌から剥がれた術式が、脱獄囚の体に絡みついていく。赤黒い光が強い輝きを放ち始めたかと思えば、まるで体に絡みついた術式に絞め潰されるかのように脱獄囚の姿は収縮。そのまま消え去っていった。


「ふう」

 颯は小さく息を吐く。

 何とか、上手くいった。

―――今の、地獄堕としか?いいのか、使って?変な所に飛んでいないか?

 金剛が不安そうに尋ねてきた。

―――平気だ。飛ぶ先を地獄じゃなくて、東京二十三区のどこかに限定した。

―――あんな短時間で?

―――まあ。ついでに行動封印術式も施したから……まあ、奴に余程の変化がない限り、二、三日は自由に行動できないはずだ。

―――抜け目ないな。ていうか、よく当てられたよな。

―――行動封印術式は単純だから。だが、地獄堕としはそうもいかねえ。飛ばす場所を限定することしかできなかった。

―――いや、この短時間でそこまで術式を組めるなんて、普通できねえから……。通常は簡単な術式の組み直しでも三日はかかるんだぞ……?


 呆れ果てた金剛の言葉を聞き流し、その場で尻餅をついて、今しがた身に起こったことを、未だ理解できずにいる女子高生に、手を差し出した。

「大丈夫か?立てるか?」

「あ、うん……」

 女子高生は颯の手を握って、なんとか助け起こされた。

 いかにも大人しそうな風貌の眼鏡少女だ。髪は短い。瞳はまだ彷徨っている。そこら辺に、まだ化け物がいないのか、探しているのだろう。戸惑いの気配が、様々な色の絵の具を水で滲ませたような形として、颯の瞳に映った。


(ん……?)


 少し、目を瞠る。それから、成程、と思った。翡翠の人避けの結界をすり抜けた理由が分かった。

「あの、祓魔師の人……ですか?さっきのは……妖魔、ですか……?」

 まだ怯えた様子で、女子高生はおずおずと尋ねてくる。

「へ?あ、うん、そんな感じ」

 そして、颯の返答はどこまでも適当だった。まあ、似たようなものである。妖魔はひとの怨念などの負の塊であり、今、彼女が見たのは生前悪さをした亡霊だ。なんとなく悪っぽいという点で共通している。そして、それを退治しに来たのだから、祓魔師といえば祓魔師か。


「ま、もう大丈夫だと思うぜ」

「ほ、本当に……?」

「たぶん」

 付け足せば泣きそうな顔をされる。

「あー悪い悪い、分かった、送ってく。俺は無理だけど……黒金」

 呼べば、すぐに顕現化して、黒金が現れた。しかも公園の電灯で照らされている場所を裂けて、わざわざ顕現したので、女子高生には暗がりから人が現れたようにしか見えないだろう。

「こいつ、めちゃくちゃ強いから。男の俺が送っていくと、親に変な勘違いもされるだろうし」

 ぺこり、と小さく黒金が頭を下げる。


 黒金の正体はともかく、見た目は清楚でありながら気が強そうで、どこか芯の強そうな頼りがいのある女性にしか見えない。だからこそ、女子高生も安心をしたのだろう。かくりと頷いて、おずおずと、黒金に「よろしくお願いします」と挨拶をした。

「ああ。こちらこそよろしく頼む」

 言葉遣いは固いが、口調は柔らかい。普段の彼女からは考えられないほど頑張っているらしく、口元に笑みを浮かべている。かなり無理矢理だが。それを見て、金剛が笑っている。


―――似合わねえ!


 当然、金剛の声は女子高生には聞こえていないので、目の前の黒金が、羞恥で顔が赤くなる理由が分からず、首を傾げている。黒金は固く拳を握りしめ、背後で大爆笑をする金剛を、殺気の籠った目で睨みつけた。それはもう、鬼のような強い眼力で。

 ひ、と小さく悲鳴を上げて、金剛はそそくさと翡翠の後ろに隠れた。それを見てため息を吐いて、黒金は女子高生のほうへ向き直った。


「さて。行こうか。お家はどこかな?」

「あ、ええ。世田谷区の……」

 黒金に促され、女子高生は歩き始めた。先ほどよりもしっかりとした足取り。大丈夫そうだ。ひらひらと手を振って見送ってから、颯は踵を返して残った二人を見る。


「翡翠。地獄堕としの術式が現段階で効果がないとなれば、さすがに祓魔師に協力を願い出て、奴が現れる場所に人払いをさせた方がいい。頼めるか?」

「勿論じゃ。任せておけい」

 翡翠は力強く頷いた。彼女はあちらの世界でも古株であるゆえに、妙な威圧感と人に言葉を信じさせる力を持っている。

「そして金剛。お前は今日からみっちり、顕在化の練習。二日でものにするぞ」

「……あい」

 こればかりは避けられないか、と金剛は肩を落とした。


 人間である金剛は、今後人の中に潜り込む必要が出てくるかもしれない。その時、人に認知されないと困ることがあるだろう。

―――では私は、彼女を家に届け終わったら、気配を消して脱獄囚の見張りを。

 脳内で黒金の声が響き渡る。

―――頼んだ。

 さすが、やるべきことを分かっている、と颯は感心した。


「俺は術式の完成を急ぎながら、他に脱獄囚がこちら側に来ていないか、細かなパトロールをする」

 言いながら、颯は掌を見る。そこには地獄堕としの術式が渦巻いていた。これを、いかに早く完全に、脱獄囚の現在の不安定な顕在力に対応できるようにするか。それが課題だ。


「では、各々」

 そして、前途多難なこんな状況でも、颯は笑う。

「抜かりなく」


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