第六節
―――5月12日(水)10:00 天霧八尋―――
翡翠が居た。
新宿の祓魔局支部の、次期当主向けの特別学級で。
にこにこと笑って。
「……なんで?」
妖怪であり、精霊であり、ついでに言えば昨日、鬼界颯と名乗る何者かと、仲良く話していた彼女が、教壇に立っている。
生徒全員が首を傾げた。その生徒たちが集まる教室には、沢山の祓魔師が押し寄せていて、少々息苦しい。
「今日は、特別講義を天霧殿に頼まれてのう。引き受けた次第じゃ」
彼女は楽しそうに簡単に、現状の理由を説明する。
「なんと日給五万円!」
「「「高い!」」」
生徒たちのツッコミが入ったが、翡翠がけろりと言った。
「何を言うておる。そのくらいの価値がある、と評価されたのじゃろう。給料分はきっちりと働くぞ、わしは。まあ、特に、昨日起こった、二件のお前さんたちにとっては珍妙な事象ついて」
教室全体の空気がぴりりと引き締まる。
昨日現れた。
一件はとあるビルにて、人にとりつく何かが目撃された。意識不明者は二名。ビル全体は氷に覆われるという非常に奇怪な状態になっていたという。
一件は八尋が巡り合った、あの黒い塊。負力とは異なり、生命そのものの危機を感じる、殺意のようなものの塊。鬼界颯たちと現れた鬼によって消し去られた、何か。
両方とも同時期に起きたその出来事は、一般的には突然変異の妖魔の仕業と片付けられたのだが―――本当はそうではないことを、八尋たちは知っていた。
「あれはの、怨霊じゃよ。怨霊と、怨霊の成りそこないによって引き起こされた、人災じゃ。ある意味では脱獄囚とも共通する―――まあ、ゲームでいうところの、脱獄囚を最終進化系として、その進化前の形態が怨霊、更にその進化前が怨霊もどき、と言えばいいかの」
着物を着ている妖怪が、ゲームなどを口にするのが驚きだ。しかもその例えはどう考えても国民的クリーチャーゲームであるポ●もんだ。もしかして、彼女たちが住む世界にも同じような文化があるのだろうか。
「まず、怨霊もどき、から説明するか。怨霊もどきは怨霊になる以前、人の怨念の塊じゃ。但し、奴らに意志は無い。ただそこに在るだけで人に悪影響を及ぼすウイルスのようなものかの。ほれ、天霧八尋」
「え、あ、はい!」
突然名指しされて、八尋は身を強張らせた。
「昨日、怨霊もどきと出逢ったろう?その時、恐怖心が沸き上がったのではないか?」
「それはまあ、初めての体験だったし……」
「気持ち悪くもなったろう?」
「まあ、それも」
「だがすぐに消し去りたい、とは思わなかったろう?危険だとは思っても、それを滅してしまいたい、とは思わなかったろう?」
「……」
八尋は考えた。
怨霊もどきと出逢って沸き上がったのは、恐怖心と畏怖の念。そこには、あの怨霊もどきを消滅させなければ、倒さなければ、という意志は一切働いていなかったことに、今更ながら気づいた。
「怨霊もどきはいわば恨みなどの塊であり、恨みという感情は、人の魂の源の一つでもある。だから、消したいとは思えなかったのじゃ。あれらは本来、大気中に漂って、決して人の目の前には現れず、自然と誰かの魂に入り込み、小さな嫉妬や怒りや恨みを作り出す。それがまた、人の生きる糧となることもある。……ジャンクフードみたいなものか。体には悪いが、時折とても食べたくなるような感じ。塩分過多になろうが、それを敢えて摂取する罪悪感が、かえってストレス発散となるときもあるじゃろう?」
例えは割と分かり易い。
しかしジャンクフードとは、やはり妖怪たちが住む幽世は、この世界とほぼ同じ文化の発達があるのではないだろうか。
「恨みや憎しみは、無い方がいいんじゃないのか?」
後ろの方の立見席。一人の青年祓魔師が手を挙げて質問をしてきた。
「だってそうじゃないか。恨みつらみで人を殺す、なんてよくある話だ。そもそもその感情が無くなれば、世の中はもっと平和に……」
「馬鹿かお主は。人間が生きている限り、人を恨むという感情は決して無くなりはせん。恨みの感情が無くなったら、それは生きているとは言えん。人ある所に恨みあり。それを乗り越えてこその人間じゃ」
すっぱりと青年の言葉を翡翠は否定した。青年が何か言いたげに口を開くが、それよりも早く、翡翠は物憂げに目を伏せる。
「まあ、ともかくも、怨霊もどきたちが一か所に集まり、その中の一つに強大な恨みの力を持った怨霊もどきが居れば……その怨霊もどきは自我の獲得し、人を傷つけるものへと変貌する。そこまでくればこれは立派な怨霊じゃ」
かりかり、と翡翠は頭を掻いた。
「本来は明治時代以降、この虚無界には発生しなくなった怨霊じゃが、どうやら地獄の異常事態に伴い、地脈が歪んだらしくての。再び発生できるようになったらしい。そして、お主ら虚無界の祓魔師には、こやつらの対処をお願いしたいと思うておる」
その場の全員が息を呑む。
あれら、黒い塊―――怨霊の対処。しかし、それは。
「対処って……ちょっと待ってくれ。それならば、最終進化系である脱獄囚の対処は誰がするんだ?」
また教室の後ろの方から質問が上がった。先ほどと同じ青年祓魔師だ。
「そりゃ、わしらじゃが?」
翡翠の返答に、青年祓魔師は目を細める。
「よそ者に化け物退治を任せると思うのか?」
それは確かにその通りであり、実際、誰もが疑問に思っているところだろう。
そもそも、おかしなことだらけなのだ、この事件については。妖怪という存在を名乗った、着物姿の少女を、本部―――祓魔師の重鎮たちはすんなりと受け入れすぎている。最初から彼らがいると知っていたのかもしれない。それでも、妖怪というのは古来より人間の敵として描かれていることが非常に多い。その敵に、祓魔師のタマゴたちへの抗議を行うことを許可したり、重鎮たちの行動は寛容だ。
「じゃあ、見えない敵とどうやって戦うってんだ、おめぇらは」
―――八尋の背後から、突然に、声がする。
聞き覚えのある声だった。驚いて振り向くと、空間が丁度揺らぎ始めていた。色が滲みだす。実像が現れ始める。蜃気楼のように現れたのは、金髪の青年だった。昨日、鬼界颯と一緒に居た男である。彼は不敵な笑みを浮かべながら八尋の頭の上に肘を置きながら、背後の大人の祓魔師たちに尋ねる。
「オレが今、この場にずっと立っていたことにすら気づかなかったのに、姿の見えない脱獄囚とどうやって戦うってんだよ?」
「因みに今のが顕在化じゃよ。幽世に存在しているものをこちらの世界の存在として確定させる技術、といったところか。物質その他は一つの世界にしか存在できず、別世界のものは基本的に認識できないように世界が出来上がっているのじゃが―――まあ、その法則を壊してしまった技術、と言うべきかの」
「今のはオレがお前らに見えるように、自分の存在を幽世からこの虚無界に移動させたんだ。これができなきゃ、敵に自分たちの攻撃はとある特殊な結界術以外は当たらねえよ」
勝ち誇ったように金髪の青年が告げる。そんな彼に、
「そんでもっておぬしは、顕在化を社長の助力無しではできんから、そもそも戦力外じゃがの」
「うっせえ、ばあさん!放っておけ!」
翡翠の言葉は金髪の青年の心に突き刺さったらしく、彼は机に突如として突っ伏しながら、ぶつくさと呟き始める。
「だってぇよ、酔うんだ、滅茶苦茶酔うんだよ……。顕在化を自分でやろうとすると、まず死ぬ絶対死ぬ、んな馬鹿な話があってたまるか……。なんでアイツは平気なのか分からねえよ、同じ人間……いや、半妖か、あいつの場合は」
顔を真っ青にしている青年の言葉に、引っかかるものがあり、驚いて八尋は顔を上げた。
「え、人間……?あなた、今、人間って……?」
「ん?そうだが?」
青年は当然のように返す。
「オレは幽世に渡った人間の子孫。正真正銘、お前らと同じ遺伝子と肉体構造を持つ人間であり―――」
ふらふらと翡翠が立つ教壇まで歩いて行った金髪の青年は、そのまま教壇を力強く叩いた。
「今日一日、お前らに怨霊退治をするための結界術をみっちりと仕込んでやる、結界術の専門家。術式名は金剛だ。よろしく頼むぜ、遠い親戚の皆さん」
―――5月12日(水)12:20 榊夕映―――
祓魔師が通う専門学校でもある祓魔堂では、今日も話は都内で起こった奇妙な事件で持ち切りだった。
当然、その中には夕映が凍らせたビルの話もある。
「……ということで、ビルを凍らせたのは、多分“脱獄囚”という化け物の仕業じゃないかっていうのが、祓魔師協会の見解だってさ」
そのビルを凍らせたのは自分だ、とも言い出せず、生徒たちの会話を聞きながら、夕映は自分の席で黙々と弁当を食べていた。
今は昼休み。みんな、机を引き合わせたりして、仲の良い友人と一緒に昼食を食べている。食堂に行った生徒もいるので、現在、生徒の数はクラスのおよそ三分の一、十数名がいいところ。その中で、夕映は一人で窓際の自分の席で食事をしていた。
当然、友人はいないからだ。一緒に居てもつまらないことはもちろん、友人関係を築いたところで、利益が一ミリもないからだ。
祓魔師名門の人間であるくせに、弱い。―――他人に妖力を見せるわけにもいかず、母親を悲しませるわけにもいかず、祖父の脅しに従わねばならないからこそ、高い身体能力も見せつけるわけにもいかない。
霊力は理由なくどこまでも低い。―――妖力という、妖怪の力と拮抗し打ち消し合っている為だ、とアヤメが言っていた。
霊力の低さは祓魔師としてのポテンシャルの低さに直結していた。そして、祓魔師としての能力の低さは蔑みの対象になっている。
力と才能が全ての世界に於いては、これは当然と言えよう。
それでも。
(一応、オレの霊力の低さには理由があったんだな)
母はかなり高い霊力を有した天才。その天才の息子は凡人以下。母の名前が貶められていくのがたまらなく気に入らなかったが故に、霊力が低いのが、半分、妖力を持っているから、と判明して、夕映はひと心地ついた気がしていた。
それでも。
ならばこそ。
自分の感情表現の薄さ、感情の起伏の乏しさにも、何かしら、妖怪の血が混ざっていることに関係があるのではないか、と疑い始めてしまう。
昔からそうだからこそ、おかしいとは当然のように気づいている。
怒ることもある。悲しむこともある。けれど、あと一歩足りない。必死さが足りない。吐き出したいほどの怒りと、消してしまいたいほどの悲しみと、羞恥や憎しみや、その他すべての感情が、人よりも足りない。
(なんでオレ、妖怪の血が混ざっているのだろう)
今まで、あまり深く考えなかったことではあるが。
(なんでお母さんは、妖怪と交わったのだろう)
そう考えずにはいられない。
―――と。
「たのもう!」
とても聞き覚えのある声が教室内に突如として響き渡った。見れば教室の入口にアヤメが立っている。彼女を見た生徒たちがざわめいた。
「誰?」「可愛い」「うちの生徒じゃないよね」
どうやら今日は、人の目に映る状態であるらしい。
彼女はそれを、顕在化と呼んでいた。こちらの世界の人間に、本来認識することができない幽世の人間たちを認識させる技術。
「ふふふ、どうやらみんな、私に注目している模様!」
なぜか嬉しそうに大声で独り言を漏らすアヤメ。
そりゃ、見たことのない制服ではない少女が現れれば、誰だってその人物のほうを見るだろう。
「ああ、それでね、夕映!」
そして、その集まった視線を一切気にしていない様子で、夕映へと声を掛けるあたり、やはり神経は図太い。お陰でアヤメに集まった視線が、夕映へと注がれた。
「……何?」
仕方がないので返事をする。
「あのねあのね、手伝い、今から開始ということで、迎えに来たよ!」
「……は?」
手伝い、というのは、脱獄囚を探すという約束のことだろう。しかし、それは放課後限定で、ということで話をしてあったはずだ。
「だから、スタンダップ!ささ、行くよ!」
「や。まだ学校が……」
「事態は一刻を争うのだ!」
ずかずかと教室の中に入り込んできて、アヤメは夕映の手を掴んで無理矢理体を引っ張り上げた。
「却下だ」
「事態は一刻を争うのだ!大事なことだから二回言いました!」
「事情をきちんと話せ」
「ここで話しちゃ駄目って言われた」
「誰に?」
「颯に」
誰だ。
アヤメの行動は本当に唐突で、よく分からない。
「迷惑がかかるから、誰も居ないところでしっかりと話しなさいって言われた」
しかし、どうにも颯という人物は、ある程度は常識人であるらしい。今しがたのアヤメの一言でそれはしっかりと確認した。
「学校にも迎えに行っちゃ駄目って言われた!けど来ちゃった!」
「おい」
そして、アヤメに常識というものは全くない。それは再確認した。
「ちょっと、あなた!」
気の強そうな声がした。遠野だ。短い髪を震わせながら、未だ夕映の腕をしっかりと掴んでいるアヤメまで近づいた。
「いきなり入り込んできて、一体何なの?」
アヤメは首を傾げて答えた。
「死神だけど」
「は?」
アヤメの会話は本当に疲れる。あと、心臓に悪い。当然、いきなり死神と言われても信じるわけもなく、遠野は眉間に皺を寄せて話を続ける。
「よくわからないけれど、他校の一般人の子かしら?」
「え?あたし、学校には通ってないよ?」
「通りで馬鹿っぽそうな顔を……」
「そういうキミには、死相が色濃く出ているね!」
その一言に、夕映は背筋が凍るような感覚を覚える。
死相。死ぬ人に出る、顔の相。それが色濃い。つまりは、遠野が死ぬ可能性がある、ということか。
アヤメは笑顔のまま、同情するように遠野の肩を軽く叩きながら続ける。
「あと半日くらいかな?短い人生だったね!」
「な、なによ、いきなり……?気味の悪い子ね」
「だから、死神からの忠告。間違っても、放課後に殺人事件現場に行こうとなんか、しない方がいいよ?死んじゃうから」
完全に、遠野の顔色が変わった。ほぼ同時に遠野の腕が動き、足が動き、それは全てアヤメへの攻撃の予備動作であったのだが―――アヤメは遠野の拳を避けて手首を掴み、残った手で襟首を掴んでから、くるりと体を捻って、遠野を背中から地面へと叩きつけた。見事な一本背負いだ。
遠野は一瞬意識が飛んだらしく、白目を剥いた。
そんな遠野の上に乗って、アヤメはにこにこと笑いながら告げる。
「図星かなあ。駄目だなあ、子供は素直でなきゃ。けど、行動の裏付けはできたからさ。ここで腕か足を折っちゃえば、死地へ向かわないよね?」
また珍妙な事を言っている。いや、珍妙ではない。本気だろう。それは、死神なりの加護なのだろうか。慈悲なのだろうか。どうせ言っていることを信じて貰えないのならば、手足を折って気力を削ごう、というのだろう。
思考回路は正常だ。けれどやはり、常識と―――人を気遣う心が、彼女には足りない。
人ではないからこそ、分からないのかもしれないが。
とにかくも、クラスメイトを傷つけるという行為を見過ごすわけにはいかない。
「やめろ、アヤメ」
力を込め始めたアヤメの手を今度は夕映が掴んで制止した。
「なんで止めるの?お友達でしょう?お友達が死ぬのは、人間は嫌うものだって聞いているよ?」
「やり方がどう考えても暴力的じゃねえか。いいから離れろ」
「けど」
「離れろ」
少し語気を強めた。アヤメは目を丸くして、それからすんなりと遠野から手を引いた。遠野は急いで体勢を直して、アヤメの手に捻られてい部位を何度も摩って調子を確かめている。
そんな彼女に、夕映は言う。
「遠野。こいつの言うことは、割と当たるんだ。占術師みたいにさ」
占い師を例えに出して。どうせアヤメが死神だと言ったところで信じて貰えなのだから、少しでも自分たちに身近で信ぴょう性のある役職を例に出した。
「だから、本当にやめておいた方がいいぞ。殺人現場に行くなんて……というか、どこの殺人現場に行くんだ?何のために?」
「質問したいのはこっちよ!なんなのよ、その偉そうな女の子は?ガールフレンド?なら随分とお似合いだこと!どう考えても頭が狂っている女の子に、感情なんて無いも同然な貴方と!もう、全く、全く、お似合いよ!」
どうやら頭に血が上っているらしく、遠野は顔を真っ赤にして怒っている。どうすれば怒りを鎮めてくれるのだろうか。よく分からないが、ただ。
「遠野。オレは感情は無いように見えるかもしれねぇが、少しは感情があると自覚している。死の通告を受けたクラスメイトを心配する程度の感情くらいは……あるんだよ」
断言する。
遠野は意外そうに目を見開いて、それからすぐに目を細めた。
「何を小恥ずかしい台詞吐いているのよ。ああ、さむいさむい」
「寒いなら、上着を着ればいいじゃないか」
「そういう意味じゃないわよ!」
語気を荒げて、遠野は夕映を睨んだ。
「本当に頭に来る。才能も無いくせに、家柄だけでこの祓魔堂に入れるなんて……!本当に、本当に……頭に来る」
歯ぎしりをして、吐き出すように、絞り出すように、遠野は声を震わせていた。そのまま鼻を鳴らして、自分の席に乱暴に着いて、そのまま喋らなくなってしまった。
教室が静寂に包まれる。とても気まずい雰囲気だというのは、さすがの夕映も分かった。誰かはフォローを入れようとしたが、口は上手く開かない。誰かは同情しようとしたが、うまい言葉が出てこない。
静寂の打ち破ったのは昼休みの終わりを告げるチャイムだった。
「あ!出てくね!」
思い出したように、アヤメは肩を震わせて窓枠に足を掛けた。
「……アヤメ」
「ん?」
去り際のアヤメに、夕映は小声で呼びかける。
「……悪い。今日は手伝い、できそうにない」
その言葉を聞いたアヤメは、どこか嬉しそうに笑った。
「貸し一つ、追加ね」
―――5月12日(水)14:00 天霧八尋―――
「質が悪い!なんだよ、お前ら!本当に結界の使い手か!あ、お嬢さん方、もう少し力を弱めると、結界の形が整って、上手くいくよ。……おい、野郎共!それじゃあ好きな女だって守れねえぞ、この童貞共が!」
金剛と名乗る青年が、結界術の指南を突然始めて、数時間が経った。
彼が指導するのは、一種の生物として確立した妖魔を閉じ込めるのではなく、霊的で壁すら透過することができる怨霊を閉じ込める結界の作り方である。
「おーい、まだ難なく通れるぞ」
被検体は精霊であり妖怪である翡翠。彼女が肉体を霊体にすることで、結界の完成度を見ている。因みに霊体になる、ということは通常の幽霊みたいに見えなくなるのではないのか、と指摘する人間もいたが、「見えるように霊体になればよいだけのこと」とのことだ。
見える、見えないの境界線がどのようなものか、まだ八尋は理解ができていない。それは、おそらく教室にいる誰もがそうだろう。
ともかくも―――それなりにコツがいるようで、受講している祓魔師の生徒はもちろん、プロすら苦戦している始末。そんな中、金剛の指導の不平等さに男たちは機嫌を悪くし始めている。
原因は金剛の指導方法にある。
女性には優しい。男性には厳しい。
なんと分かり易い男だろうか。
「なんだ?異世界では女尊男卑の風習でもあるのか?」
「いや、単純にあやつが女好きであるというだけじゃよ」
文句を呟く男の祓魔師の言葉を、速攻で翡翠が否定した。否定したところで、金剛の印象がよくなるわけでもなかった。
「暇さえあれば女の尻を追いかけているような輩だからの。つい一年前にハニートラップに引っかかって、全財産を根こそぎ詐欺られた。両親に勘当されて、かねてより知り合いであったウチの会社に転がり込んできた次第じゃ。そしてそれでも懲りずに、既にこの一年で五回ほど、女性絡みの詐欺に遭いそうになって、その都度にうちの社長がすんでのところで制止に入っておる」
「懲りろよ」
むしろ印象は悪くなる一方である。
「まあ、苛立つ気持ちは分からなくもないがのう」
翡翠はため息を吐きながら、肩を竦めた。
「幽世の結界は霊など目に見えないものを閉じ込める方法をまず教わる。つまり、お主らが習っているのは、十歳児ならば誰でも使える基礎中の基礎の結界。当然のように自分が使っている結界を、理解すらしてもらえんからの」
「だってばーさん!全然意味わからねえって!」
反論の大声を上げたのは、鬼界巧である。
金剛が提示した導入の修練方法―――水を結界の中に閉じ込めることすらできていないため、かなり苛立っている。
因みに他の術師たちは皆、次の修練方法、煙を結界の中に閉じ込める段階へと移行し、早い人は翡翠を閉じ込めようと悪戦苦闘している状態だ。
元々、巧は結界術などが非常に苦手であり、学校の成績も最下位である。彼に、他の祓魔師もできない術を完成させるように要求をするのは、無茶というものだろう。
「水とか煙とか、一応物質じゃん!なんでこんなものを閉じ込めるところから始めるんだよ!」
「水はともかく、煙は空気じゃ。普段は意識して閉じ込めないじゃろう?まずはそこから。普段意識していないものを意識して閉じ込められるようになってからが、本番なのじゃが……さすがに水は閉じ込められるようにならんかい」
「ううう!」
巧が唸った。水槽に中に結界が作り上げられ、それがゆっくりと浮上する。浮上した結界は完全に空中で制止。制止した結界の角からは、水かちょろちょろと流れ出している。
先は長そうだ。
……彼の心配はさて置き。
八尋は掌を何度か握って開いて、それを繰り返して準備運動をする。
天霧の家は、結界術の名家なので、こんなところでいつまでもウジウジと立ち止まってはいられない。
「よし、翡翠さん!次、お願いします!」
手を挙げて頼めば、
「ほいきた!」
景気よく翡翠は返事をして、その場で立ち止まる。
息を薄く、吸って、吐いて。
―――集中。
翡翠の周囲に、まずは見えない壁があるイメージを脳内で作り上げる。その壁は、誰も通れない。壁であるゆえに、通り抜けられない。そしてその壁は、外界から隔絶した世界を壁の中に空間に作り上げる、特殊な壁だ。
この世ではありえないほどに美しく、ありえないほど強固で―――。
「ちぃと、設定が多すぎるぞ、八尋」
「えっ」
翡翠の言葉に目を見開いて、八尋は顔を上げる。すぐ目の前に翡翠が立っていた。翡翠が先ほどまで居た場所には、まるでゼリー状の虹色に輝く結界が出来上がっていた。触れれば弾ける、シャボン玉ほどの脆弱さだった。
「イメージするのはよいがのう」
翡翠は惜しい、と呟きながら顎を撫でている。
「難しく考えすぎ。真面目じゃのう」
「む、難しくって……」
翡翠の言葉の意味が理解できず、八尋は首を傾げる。
「だって、怨霊ですよ、怨霊。閉じ込めるのは怨霊なのならば、怨霊を閉じ込められるような、その、特殊な結界を……」
結界術とは、想像力が現実化したものだと、八尋の父は言っていた。どのような結界を作りたいが、術式に注文を付け加えれば付け加えるほど、その結界は穴の無い強固なものへと変化していく。
だから、怨霊を閉じ込める結界というのは、それこそ逃げ出す隙の無い完璧な結界を作らなければならない、と踏んでいたのだが、どうやらそういう風に作るものではないらしい。
「なに、特殊な結界を作るわけでないわい。のう、千花ちゃん」
笑いながら翡翠が呼び掛けるその先に居るのは、金剛である。彼は目くじらを釣り上げて怒鳴って来る。
「だぁから本名で呼ぶな、本名で!」
どうやら、金剛の本名は千花というらしい。しかしながら、どうして渾名をつけて呼び合うのだろうか。不思議で仕方がない。
「ほれ、真面目な後輩にしっかりと怨霊を閉じ込める結界術を伝授してやれぃ」
「……え、え……と」
先ほどまですらすらと言葉を紡ぎ出していた金剛の口が止まった。眉根を寄せて、本気で困ったように何度も視線を左右へ泳がせる。
「………………がんばれ」
「このヘタレ」
翡翠の冷たい言葉が飛んだ。ついでにどこからか花の種が金剛の額にびたりと当たった。
「だって、だってよぉ、ばあさん!」
「人には分け隔てなく接するように、小さな頃からあれだけ言い含めておったのに、どこでどう道を違ったのか……。ああ、全く嘆かわしい。いつか口説いた女の数だけ呪われてしまうがいい……いや、口説いたところで成功したことはないか。騙されたことはあったが」
「もう止めてよ、その話、もう止めて、畜生!」
翡翠が突如として繰り出した昔話もとい、心の傷を抉るような話に、金剛は悶えながらその場でしゃがみ込み、耳を塞いでしまった。見た目こそ二十歳前後であるが、精神年齢は更に幼いとみえる。
「怨霊を閉じこめるにしろ、なににしろ、結界を作り上げるとき、幽世で重要視されている基礎は、ただ一つ」
指を一本、翡翠は八尋の鼻先に突き付けた。
「何を護りたいか、その思いの強さ、じゃよ」
―――5月12日(水)17:30 榊夕映―――
遠野が制服のまま、人気のない住宅街へと入っていく姿を確認した。
屋根の上から。
『……これ、ストーキングだよね』
隣で珍しくアヤメが常識的なことを言うので、夕映は少し驚いたふりをしてみせた。
「お前、ストーキングって分かるのか」
『夕映は一体あたしを何だと思っているのかな』
アヤメが機嫌を損ねた様子で返してきたので、こういった類の話題は極力避けよう、と夕映は心に決めた。
人を馬鹿にするのは良くない事だ。
夕映とアヤメ。二人は今、屋根を伝って遠野を追っていた。放課後、「絶対追って来るな」と怒りの籠った声で遠野は夕映に言ったのだが、それ以上に彼女の命のほうが大切だ、と考えた夕映は、彼女の言葉をきれいさっぱり無視することにした。
ただ、地上で追跡するとほぼ確実にばれる、と思ったので、姿を消したアヤメと一緒に、地上から離れた位置から遠野を追うことにした。
実際、遠野は何度か背後を気にする素ぶりを見せた。ついでに空を気にする素ぶりもした。空を注視ししたのは、諜報用の式神の類が漂っていないか確認したのだろうが、とても残念なことに、夕映に式神を使役するだけの実力と霊力は備わっていない。
『うーん、やっぱり死地に近づいているな』
確信を得たような、アヤメの言葉。ぞわりと夕映は背筋に冷たいものが流れ落ちるのを感じながら、それでも恐れを一切含まない、淡々とした声色で尋ねる。
「死神って人の死について、そんなに分かるものなのか」
『当然じゃん。死神だもの。死に関しては敏感だよ』
「じゃ、昨日の女子学生は、事前に分からなかったのか?」
『ん?』
「昨日の女子学生だよ。オレ達が追っていかなければ、確実に怨霊に食い殺されていたじゃないか」
『ああ、そういえば』
手を打って、数秒。不思議そうにアヤメが首を傾げた。
『そういえば不思議なんだよね。あの子、全く死の臭いがしなかったんだよ。生きている人間ならば必ず微かに死の臭いは常にするのに、あの子には全然そんなものが無かったんだよねえ』
「え?」
奇妙な事を幾つも聞いた。人は常に死の臭いがする。それなのに、昨日出逢った女子高生からは一切、死の臭いがしなかった?一体どういう意味なのか。夕映が更に詳しく尋ねようとしたとき、アヤメの顔色が瞬時に変化した。今までにない焦燥だった。顔の筋肉という筋肉が引きつっていた。
次いで―――夕映もアヤメの顔が引きつった理由をすぐに知った。
「……なんだ、これ」
息苦しい、というもの。恐ろしい、というもの。それすら乗り越えた、違和感。自分の体の内臓全てがでたらめな位置に入れ替えられたような、ありえない違和感が、全身を駆け抜けていた。
視線を向ければそこには工事中のビルが見える。その先に、何かがいる。
遠野がそこへ向かって行っている。
向かって行くと、一体何が起こる?
『――――やばい。やばい、嘘、まさか』
アヤメが珍しく焦っていた。立ち上がって、手を翳す。その手に光が収束して、瞬時に巨大な鎌が現れた。それこそ、死神がよく持っていそうな立派な鎌だった。
『ああ、やばい。まずいよ、これ。――――脱獄囚だ』
「何っ……?それって……」
夕映は聞き直そうとしたが、それよりも速く、アヤメが動いた。くるりと回した鎌が、銀色に輝く。夕焼けを反射して、眩しさに僅かに夕映は目を細めた―――次の瞬間。
アヤメは遠野と何かの間に割って入った。風が巻き上がる。遠野の前髪がふわりと舞った見えた。ほぼ同時、アヤメが鎌を振った。アヤメと相対する何かが、手に持っていた刀を振るった。
影だ。人間の形をした、影だ。手に持っている刀ばかりが鈍色に輝いている。いや、アヤメと打ち合うたびに、何か赤い液体が刀の先から飛び散っている。
血だ。その血はどこから?あの影のものではない。それでは誰の?
瞳孔がきゅうっと細くなるにつれて、視線は自然と鉄筋が露わになった工事現場の中へと動いていく。
人が―――。
血みどろの、生きた人間が―――いる。
「……っ……!」
息を詰めて、夕映は屋根から跳躍した。人間ではあり得ない、長距離の飛躍だった。そのまま突如として始まった、アヤメと影との剣戟に、呆然と突っ立っている遠野の横に着地し、その腕を掴んだ。
「ちょ、さ、榊……?どこからっ……!」
「いいから、来てくれ!お前、治癒術使えるだろ!」
完全に混乱している遠野が目を白黒させていたが、今は人命がかかっている。それどころではない。夕映は引きずるように遠野を工事現場の中へと連れて行く。
「ていうか、あれ、何、アヤメって言ったっけ?あの子、一体何と戦っているの?」
「脱獄囚!」
端的に答えれば、
「あの影が?」
予想外の言葉が返って来て、一瞬夕映は足を止めた。
脱獄囚は、この世界とは別の存在。だからこそ、見鬼の力を持たない人間は見えないものであるはずだ。遠野は、この世界の存在ではないアヤメが見えていなかった。つまり、見鬼ではない。それなのに、今、アヤメが脱獄囚と言った存在―――あの影が見えている。
(これは、予想以上にやばい状況じゃないのか?)
さすがの夕映も危機感を募らせた。
脱獄囚が幽世の存在しか捕らえられないのは、この世界の人間は見えないし触れないから。しかしそれは、脱獄囚も一緒の話であり、この世界の存在ではない脱獄囚は、この世界のものには触れない。人を殺せない。だから、取り敢えずは、この世界の人間たちに危機が及ぶことはない。
そのはずだった。
けれど。今、目の前で倒れている血みどろの女性は、ならば一体誰に傷つけられたというのだろうか。刀傷ばかり数十か所。既に顔は真っ青で、血の気が無い。呼吸は浅く短く、非常に危険な状態である彼女は、一体誰のせいでこんな状態に陥っているのだろうか。
「これは……」
遠野は顔を真っ青にして女性をただ、見下ろした。
直後。
夕映の視界の端に、首が通り抜けた。
「え―――」
アヤメだ。彼女の首が、夕映の隣を―――防げ、と、その唇が動くのが見えて―――通り過ぎていく。
夕映は振り返る。本当に咄嗟の、本能的な判断だった。それが正解であったことを、その直後に知る。振り返ったその先には、刀を振りかぶる影が居た。影は揺らいで、その下から人の顔がちらりと見えた。
笑っていた。凶悪な笑顔だ。怖気の奔る笑顔だ。不快な笑顔だ。それを浮かべながら、その顔は呟いた。
『死ネ、邪魔モノ』
振り下ろされた刀を、夕映は―――掌で挟んで受け止めた。
『――――!?』
息を呑む影の音が聞こえてきた。そのまま無理矢理夕映の脳天に刃を届かせようと、体重を乗せてくる。それに動じず、夕映は掌に力を込めた。たったそれだけの行動で、刀身が歪む感触を夕映は覚えて、
「っ!」
影の背後に、更に黒い人影が現れたのを確かに見た。
いや、それは人間の姿をしていた。黒い長い髪を持った、二十代中ごろの女性。少し古びた黒い着物を着用した、金の瞳を持つ彼女の額には、角が生えていた。
鬼だ。
その黒い鬼は、銀色に輝く短刀を以て、影の首を斬り裂いた。影は悲鳴を上げながらその形を突如として崩し、そのまま黒い鬼から距離を取り、再び人間の形を作り上げる。ゆらゆらと揺れながら、『糞ガ、糞ガ』と呟いている。
そうして、黒い鬼との距離を計っている。黒い鬼も影との距離を計りつつ、振り向かずに尋ねてくる。
「無事か」
「あ、ああ……」
落ち着いた女性の声だった。
「そうだ、遠野……」
ふ、と思い出して、夕映は遠野の方を振り返った。
彼女は、真っ青な顔でその場に膝を着いて、震える手で、遠野が治癒術を女性にかけていた。滲んだ虹色の輝きが遠野の手から洩れている。霊力が体外に放出され、人間の生命力と触れ合った結果起こる、不可思議な現象の一つだ。流れ出ている血は止まらない。女性の呼吸はどんどんと浅くなっていく。
治癒術は、人間の現代医療とは異なる、神秘に頼った治癒術は、傷を素早く塞ぐ、という、通常では信じられない奇跡を起こす。けれど、逆に言えば、傷を塞ぐだけだ。肉体から失われた血液は戻らない。大量出血の患者は救えない。
だからこそまずは血を止めなければいけないのだが、遠野はまだ学生で、治癒術も完全じゃない。数十か所から血を流している女性の、全ての傷口をすぐに塞ぐことなど不可能だった。
「傷を……塞ぐのが……間に合わない……」
「けれど、手を止めれば血は更に出てしまう」
事実だけを口にして。
淡々とした口調はいつものことだ。けれど、それなりに焦っていた。
どうすれば。どうすれば、どうすれば?
(血を……凍らせれば……とりあえず止まる……)
考えた末にそんな単純な結論に達した。それを実行すればいいだけなのに、脳裏にかすめたのは、祖父の顔だった。
―――もし、誰かの前でその力を使ってみろ。
―――母親がどうなっても知らないぞ。
(――――くそが)
夕映は強く拳を握りしめた。
あの言葉と母親の悲しそうな顔が、夕映の思考を鈍くする。
今、自分が人前で力を使ったら、母親がどうなるか分からない。
(オレは人の命よりも、自分の母親の方が大事なのかよ)
自分を蔑んだところで、体は動こうとしない。
ああ、やばい。本当に、これは、やばい。
(オレは―――)
「そんな傷の塞ぎ方じゃあ、駄目だぜ、お嬢さん」
場違いなほど快活で、どこか懐かしい、男の声が聞こえてきた。
振り返ればそこには、赤を基調とした服を着た少年が立っていた。真っ赤な瞳を持った、少年が。
「颯」
黒い鬼の女性が呟いて、その少年の名前が颯、ということが分かる。
颯はすたすたと早足で遠野の隣に膝を着いた。
「既に瀕死状態か。たく、こっちの世界は本当に医療術が発達していなかったんだなあ。治癒術なんかコレ、鎌倉時代まで質が落ちているじゃねえか。人が死なないためにはまず、心臓を動かし、体の血を循環し続ける事。詰まる所の出血ショックを防ぐ。そして、脳に酸素を送り続ける事。なら必要なことなんざ、血を戻してやることに決まっているだろうが」
べらべらと喋りながら、颯は印を素早くきって、黒い鬼に命令した。
「一分もたせろ、黒金。治療して、すぐにその変態野郎を仕留める」
「了解」
黒金、と呼ばれた黒い鬼は、そうして動いた。
無駄のない、滑らかな動きで、一気に影との間合いを詰める。影は驚いたように蠢いて、持っていた刀で応戦する。
切り結びが始まった。銀の一閃は、何度も何度もぶつかり合い、小さな火花を散らす。夕闇に包まれた敷地の中で、金属音が重なり合って響き渡る。
その間に、倒れていた女性にも変化があった。いや、それは劇的な変化だった。彼女の体から流れ出た大量の血が、みるみるうちに戻っていった。徐々に女性の顔に血の気が戻り、呼吸も落ち着いていく。
「な、なによ、あんた……?それ、は」
「治癒術」
見たことも無い術に戸惑う遠野に一言、端的に颯と呼ばれた少年は答えた。
確かに治癒術だ。滲んだ虹色が女性の体を包み込んでいるので、多分、きっと、治癒術なのだろう。けれども。
「そんなバカなこと、あるわけないじゃない。血が戻る治癒術なんて、聞いたことがないわよ!」
「そりゃ、お前の知識不足。人を本気で治療したいと思うなら、せめて人体の基本的な構造くらい覚えておけ。例えば血管のどこを斬れば死んで、どこを繋げば生きることができるのか、とかな」
言いつつ、颯は更に治療を進めていく。女性に吸い込まれていった血液は、血管を通り始める。大きな血管から次々と切り傷は塞がっていき、最後に仕上げとばかりに、切れた皮膚同士がくっつきあって、そして傷が消えていく。
まるで、時間を巻き戻しているかのような光景だった。
それは、奇跡のような光景だった。
けれど、その奇跡を起こした人物はまるでその奇跡を日常であるかのように、
「終わった!よし、次!」
立ち上がって、視線を戦う黒い鬼と影へと既に映していた。
「黒金、やるぞ!」
鋭い声と飛ばし、すぐに動き出す。
影へ、一直線に。
走る最中、両手を打ち合わせた。合わさった両手から溢れ出るのは、見たことのない文字だった。それらは颯の周囲に散ったかと思えば瞬時に掌に収束、赤黒い輝きへと変化した。
ぞわり、と。
夕映はその輝きを見て、背筋に今まで感じたことのない悪寒を覚えた。
ああ、あれは。
触れてはいけないものだ。
―――5月12日(水)17:40 鬼界颯―――
「効いてくれよ」
願うように呟いて、颯は拳を握りしめた。すると、拳自体が強く輝き始める。
それを視界の端で確認した黒金は、くるりと短刀を回したかと思えば、空いていたもう片方の手で腰から引き抜いた苦無を影に向かって投げつけた。本当にほんの数メートルからの投擲だった。
思わず影は、その苦無を弾き飛ばした。本能的な超反応だったのだろうが、それは大きな隙を作る。黒金は短刀を小さく動かした。その短刀の刃先は影の刀を持っている方の手首を確かに捉えた。影の肉ともいえる部分に食い込んだ。だが、すぐに透過する。手ごたえはなくなり、肉に食い込んだことで僅かに鈍っていた短刀の勢いが、元に戻っていった。
その、短刀を振り下ろした黒金の懐に無理やり割り込んで、颯が拳を押し入れる。
―――詰まるところ、短刀は現在、虚無界の物質として起動しており、
―――それに斬られたらたまらないので、影は自身の存在する力、顕在力を、虚無界から幽世へと移したわけであり。
―――たった今、割り込んだ颯の拳に宿るのは、死者を地獄へと直接送る、地獄堕としの術式であったのであって。
―――地獄堕としは、幽世に存在するものにのみ通用する術式であり。
タイミングは、完璧である。
そのはずだった。
しかし、術式を含んだ颯の拳は影の肉体を通り抜けて、地面を殴りつけた。
「……おいおい」
思わず間抜けた声を颯が出した。僅かに拳の力を緩ませれば、術式の波長が僅かに変調した。影が今現在持っている、顕在力の波長に合わせてもう一度、拳を握り直して振り向きざまに殴りつけようとして、それでも拳は通り抜ける。
『ム・ダ!』
影が握っていた刀を振りかぶって来る。体を反らしてなんとか避けて、颯は地面を蹴って影と距離を取る。
『ム・ダ!』
笑いながら、影がもう一度繰り返す。
「くそ、やっぱり後手に回っちまうか」
舌打ちをしながら、忌々し気に颯は影を―――脱獄囚45番を睨んだ。
脱獄囚は顕在力を幾度となく変調させ、攻撃を避けることが可能である。こちらが脱獄囚の顕在力の波長に合わせてやらないと、攻撃を当てるのは不可能だ。
そう踏んでいたからこそ、脱獄囚を捕える必殺の一撃の術式を組み替えた。
だが、結果は今の通り。避けられる。とてつもなく簡単に。
「結構苦労したんだけれどなあ、この術式の組み替え」
「颯」
「分かってる」
黒金に促され、気持ちを切り替えるために、一度、颯は肩を鳴らした。
「……黒金、あいつを捕えておくことはもうできないんだな?」
「ああ」
「弱ったな。結構手詰まり……」
わざと呟いてみせた、その直後である。
足元の、元々乱れていた地脈が更に乱れたのを感じた。
『イ・デ・ヨ!』
たかが生物の死んだ魂が、意図的に召喚したかのように。
ぬらりと地面から噴き出したのは、泥状に変化した地脈だった。どす黒く変色した、本来の地脈とは似ても似つかぬ禍々しさに、僅かに颯は吐き気を覚えた。
怨嗟どころではない。純粋に、悪意に染め上げられて苦しんでいる亡者の声が、どこからか聞こえてくる。声は混ざり合って、魂と感情も混ざり合って、ごちゃごちゃにかき回されて、現れたのは泥人形のような妖魔だった。全長は十メートル以上。建築途中のビルと同じ高さだった。
『イケ!』
また、脱獄囚が命令をした。それに従い、妖魔は巨大な手を振りかざした。
大気を押しつぶしながら、掌が向かってくる。背後には先ほど人命救助を行おうとしていた少女、助けた女性、そして居合わせた半妖の少年。
かちり、と頭の中でスイッチが切り替わる。
「ああ、くそったれが」
意図せずに口が動く。
一気に大気中の温度が上昇した。吹き上がる熱気が辺りを焼き始める。地面が揺れる。大気が軋み始める。
「邪魔だ!」
真っ赤な炎が颯の腕から放たれる。そのまま、ふ、と軽く手刀を振れば、まるで生き物であるかのように、空気という空気を食い尽くしながら、炎が鞭のようにしなって妖魔へ向かって行く。
鈍い打撃のような音がした。
ほぼ同時、力づくに妖魔の体が二つに割れた。切り口は歪で凸凹。そこから侵入した炎は瞬時に妖魔の体内を駆け巡り―――結果として内部から膨れ上がった妖魔は、許容限界を超えた風船と同様に破裂した。
ばらばらと妖魔の破片が地面に落ちて、破片は正常な力を取り戻して、地脈へと戻っていく。
すぐに颯は視界を巡らせたが、そこには既に脱獄囚の姿は無かった。
「……二代目。申し訳ありません」
律儀な黒金が謝って来るので、颯は頭の中のスイッチを切り替えてから、小さく息を吐いた。
「お前のせいじゃねえよ。俺もまだまだ、ということだ。まさかあそこまで、成長が早いとは……。……追えるか?」
「できる限りのことはやってみますが……捕えることができるかどうか」
黒金は、基本的にできる、できない、というはっきりとした答えしか口にしない女性である。その彼女が曖昧な答えを出すほどに、現状は芳しくないのだろう。
颯は軽く肩を鳴らしながら頷いた。
「じゃあ、せめて追尾し続けてくれ。人間を襲いそうになったら、警報を鳴らせ。こっちの世界の人間は、警報が鳴れば混乱しながらもその場から逃げてくれるから。後、翡翠に連絡を入れて、現状を把握してもらっておいてくれ。いつでも出られるように」
「承知。……あまり無理はしないように、颯」
「おう」
黒金は軽く跳ねて、夜の闇が落ち始めた空へと消えていく。
それを見届けてから、「さて」と呟き、颯は振り返る。
そこには、怯えた様子の少女、未だ倒れている女性、そして―――半妖の少年がこちらを睨んできていた。
(いやはや、この場合、まずどうやって取り繕うか……)
しばし思案して、そして倒れている体に気づいて、声を掛けた。
「おい、紅玉!さっさと体と首をくっつけろ!」
「ふあーい」
間抜けたような返事が返って来る。ほぼ同時、倒れていた体が起き上がったので、当然ながら少女は悲鳴を上げた。
「な、ななな、な……?し、死体が……?」
「そりゃ、死神だからなあ。そもそも死の概念が人間と違うから、首が引き千切れたくらいじゃ、死なねえよ」
「し、死にがっ……、え、ええ……?」
混乱した様子の少女の隣を通り過ぎ、紅玉の体はすたすたと落ちている首の元まで歩いて行き、首を拾って元の位置に置いた。傷口は瞬時に塞がって、あっという間に元通り。へらりと笑って紅玉が頭を掻いた。
「いやあ、参った参った。あんなに強いとは思わなかったよ」
「そんなに強かったのか?」
「まあね。さすがは黄泉ノ道を通り抜けてこちら側まで辿り着いた脱獄囚だ。能力に制限かけられているあたしじゃ、敵わなかったよ。そういうワケで、能力制限を解除してくれないかな?」
「それはダメ。それをしたらお前、無差別に魂を狩り始めるだろうが」
肩を竦めて冗談ならない紅玉の言葉を聞き流し、
「さて。ところでアンタら、どこら辺まで現状を理解できている?」
話を元に戻して、その表情の変化を見る。
少女のほうは、頭があっさりとくっついた紅玉を見て、目を白黒させているあたり、まだ頭の整理ができていない状態だろう。一方、白髪の少年の方は、じっと紅玉を見てから、少し目を丸くして呟いた。
「ああ。アヤメ、お前の本当の名前って紅玉っていうのか」
そこか。
「紅玉っていうのは術式名だよ。ほら、教えたじゃん、五行八卦術式。あたしは炎の性質を持っているのだけれど、それを誰かに貸す時には、あたし自身の力を術式に組み直す必要があるんだよ。そのために必要なのが術式名。本名を使いたくないっていう妖怪は沢山いるしさ、結構術式名を名乗る人、多いんだ」
「術式名は、名は体を表す、という言葉に則った、簡易呪文な」
紅玉の説明に颯は簡単に付け足しを行う。
成程、と少年は頷いて、
「じゃあ、紅玉って呼んだほうがいいのか?」
「ううん。アヤメのほうが可愛いから、それで呼んで。颯のネーミングセンスって今一なんだよね」
「悪かったな、今一で。お前に名前を付けた時、女か男か決まっていない状態だったから、なるべく中性的な術式名を選んだ結果だよ」
紅玉改めアヤメの言葉に、颯は若干眉根を寄せて正論を述べた。そんな他愛ない会話をしている間に、徐々に少女は落ち着きを取り戻し始めたのか、息を呑みつつ、尋ねてきた。
「あなたたちは……幽世っていう所から来た……人たち?」
そのくらい端的な質問のほうが、分かり易くて楽だ。ふ、と笑って颯は答えた。
「ご名答。俺たちは幽世という世界からやって来た、お前らの隣人だ」
そう答えれば、少女の表情が一気に晴れ上がった。何を考えているのか、手に取るように分かる。
「ということは、私も視る力があったということね!」
「いや、まったく的外れな勘違いすぎて笑えて来るよ」
少女の思い上がりを颯は一笑した。
「はあ?だって今、現に貴方たちが見えているのよ、私!本来は見えない存在なんでしょう?」
「そうだ。けど、俺達が見えるのはお前の力じゃなくて、俺達がお前たちに見えるように存在の力そのものを変質させているからだ。実際―――紅玉、じゃない、アヤメ」
「あいさ」
アヤメは頷いて、一気に自らの顕在力を幽世側へと傾けた。元が二つの世界を行き来する死神であるが故に、未だ顕在力の調整をマスターできない金剛よりも遥かに上手く、顕在力の調整は得意である。
「え、え、あれ?」
アヤメの気配が変化したと同時に、今まで割と傲慢な態度をとっていた少女が、慌てた様子で辺りを見渡し始める。どうやらやはり、見えていないらしい。
そして。
白髪の少年の視線は、お茶らけた様子で動き回るアヤメを確かに捉えている。
(やはり、見えてんのか、こいつ)
半分が妖怪で、半分が人間という、類まれな性質を持っている半妖の少年。
事前に少年の事情をアヤメから聞いていなければ、今この場で問い詰めているところであった。尤も、その事前情報が無くても、今は時間が惜しい。いつどこで、脱獄囚が暴走を始めるのか分からないからだ。
「ま、そういうわけだ、お嬢さん。残念ながら、お前には才能が無かった、ということで、お家に帰りな。危険な脱獄囚に襲われる前にさ」
今だ目を凝らしてアヤメの姿を探す少女に向けて言えば、少女は悔しそうに歯ぎしりをしながら睨んできた。
「才能がないなんて話じゃない!こうして目を凝らしているうちに、見えるようになるかもしれないじゃないか」
諦めの悪い。颯はため息を吐いて、「そうだな」と、そこは素直に肯定した。
「いつかは見えるようになるかもしれないが……それはあんたが一度、死の淵を彷徨う必要があるんだけれどな」
「はっ……?」
言葉の意味が分からなかったのか、少女が息を詰まらせた。意味は分からなくていい。死にかける、などという目には遭わないほうがいい。いや、遭わせるものか。密かな決意を胸に、颯は姿を消したアヤメへ呼びかける。
「このお嬢さんを家まで送り届けてやれ!」
『はいさー』
間抜けたような返事が返って来て、アヤメが少女の体をひょいと抱き上げた。
米俵を持ち上げるかのように。肩に担ぎあげて。お陰で彼女のスカートが全開に捲り上がった。
「白」
「ヘンタイ!」
少女が喚いたが、特に気にすることもなく、颯は忠告した。
「有体で申し訳ないが、口を閉じないと、舌噛むぞ」
「はっ――――――わ!」
アヤメが大きく跳躍し、五月の月が綺麗な夜空へと向かった。無論、アヤメの姿は現在、少女には見えていないわけで、少女は何が起こっているのか分からない様子で、ただ悲鳴を上げるしかない。
哀れなり。そのまま少女の姿は消えていった。
それを見届けてから、いよいよ本題に入る。
「んで、お前に協力してもらいたい事になるんだけれど」
「……ああ、アヤメが言っていたことか」
合点がいったようで、少年は頷いた。
「オレにできることなら。けれど、オレは妖力を訳あって人前では使えない」
「関係ない。お前にやってもらいたいのは、妖力や霊力の強い弱いに関係ない話だからな……と、そういやその前に、自己紹介をしていなかったな」
肩を竦めて、颯は姿は小学生であっても、中身は立派な高校生、という歪みを持った少年に、手を差し出した。
「俺は鬼界颯だったもの。今現在は死人、妖怪にとりついた幽霊っていうところだ。よろしく頼むな」
「幽霊……」
少年は小さく呟いて、けれど特に気にした様子はなく、
「オレは榊夕映。一応、半妖だ」
そう名乗って、颯が差し出した手を握った。
とても冷たい手だった。




