ー1節
死ぬわけにはいかない。
死ぬわけにはいかない。
足を引きずりながら、呼吸を乱しながら、暗がりの森を必死に歩いていた。
内臓の一部は地面へ落ちた。邪魔だから置いてきた。吐き出す息と共に、血が溢れ出す。地面に垂れたら、そのまま消えた。
何かが自分を見ている気がする。それは決して気のせいではない。目が、目が、目が、目が。あらゆる目が、こちらを観察している。
―――あいつは誰だ?
―――なんでこんなところに居る?
―――虚無界の人間だろう?
こそこそと、妙に彼らの声ばかりが聞こえてくる。
まだ、前に進まなければ。
前に進まなければ。
心を支えるのは使命感だった。心を支えているのは、異常なほどまでの生命力だった。体の弱い自分が、こんな所で必死に生にしがみ付いている。それが、不思議で虚しくて、たまらなかった。
「ああ、こんなところにいた」
上から。声が降って来る。
続いて人影が降って来る。
長い黒髪を持つ少女だった。見た目は十五、六歳といったところか。彼女は片手に、巨大な刀を掴んでいた。
「全くもう、こんな世界の狭間まで魂が彷徨うなんて、滅多にないことだから……探し回っちゃったじゃないか」
駄目だ。
本能が叫んでいる。
こいつに掴まったら終わりだ。
少女はゆっくりと近づいてくる。にこにこと、笑顔を顔に貼り付けて。
「安心してね?すぐに終わるから」
細められた目が、一気に見開かれる。その瞳には色が無い。ただひたすらに、虚無が広がっている空洞。見る力はない。見ることは許されていない。
「すぐに殺して、あの世に送ってやるからさあ!」
開いた口から涎が飛び散り、嬉々とした表情で、襲い掛かって来るそれは、まさしく死神というに相応しい。凶暴で凶悪で、純粋にただ、魂を刈り取るだけの存在で。
駄目だ、と心が叫んでいる。
ここで終わるわけにはいかない。
―――誰か。
「玉髄顕現」
短い言葉が聞こえた。
少女の姿を死神に襲い掛かったのは、鈍色に輝く炎だった。それが少女に触れた瞬間、一気に凍結。美しい氷山を作り出す。
周囲の温度が突如として低下する。吐く息が凍る。森の全てに霜が降り、辺り一面が白い世界へと早変わりした。
私は膝をつく。体に力が入らない。倒れる。冷たい地面が気持ちいい。耳を地面につける。霜を踏みつけて歩いてくる足音が聞こえてきた。
「お前、さ。オレに自分の死体処理をさせるために呼んだのか?あー、いや。死体じゃなくて魂の処理か。しかし変な奴だな。魂のくせに傷が治らないどころか広がっている。なにか呪いでも受けたのか?」
ぺらぺらとよく喋る。思考していることが、全て口から流れ出るタイプであるらしい。
ああ。けれど。
「……助けて」
「あ?無理に決まっているだろうが。死んだヤツを助けることなんざ、できねえよ」
ああ、けれど。
必死に顔を上げ、その顔を見ようとする。
おそらく、自分の一生で最期に見る顔になるだろうから。
眼はもう上手く機能していない。視界はぼやけていて、色しか見えない。
「……オレじゃない」
「うん?」
それでも。
真っ白な世界に中に浮かび上がる、輝きがある。
「オレの、家族を……どうか、助けて」
それは真っ赤に燃え上がる炎のような、紅蓮の色だった。
その色が僅かに揺れたのを、私は、確かに見た。
始まりは、この瞬間だった。
けれどこれは、私の話ではない。
彼らの家族の話だ。
そして、私が語ることができるのは途中まで。
なぜなら、私は死人であるのだから。
けれど、これは途中まで、私の話でもある。
私が、家族を助けるまでの話でもあるのだ。