ローラ
気配を察知したと言っても、それは巨大鼠が気が付いたということ。ウォルターは荷物を担ぎ、木の上に登って自分のところに向かってくる者を見極めようとした。
しばらく様子を見ていると、粗末な服に袖を通した女性が一人、走っている。
女性はまだ若く、それなりに整った容貌をしている。加えて肉付きが良く、女性らしい肉体をしている。
ただ、美しいはずの顔には刺青が施されており、それは彼女が“奴隷”であることを示していた。
この世界において、奴隷とはわりと一般的な存在だ。
例えばバグズの家にいた農作業従事者はほぼ全員が奴隷である。彼らは虐げられているわけではないし、衣食住、基本的な生活の面倒をバグズの家に見てもらっている。そして彼らは労働力を提供する、そう言った関係である。
奴隷には大まかに2種類の人間がいる。犯罪者と貧乏人だ。
犯罪者は刑罰として奴隷となり、貧乏人は税金に応じて奴隷となる。戦争などの大きな争いは何十年も起きておらず、いわば「モンスターと戦争中」であるために戦争奴隷はいない。
犯罪者は刑期の代わりに苦しい労働を強いられる。重い罪を犯せば死刑となるケースが多いし軽い罪なら私刑まがいの暴力的罰則で大体終わる。しかし、何らかの事情があり、「犯罪者に堕ちたのもやむなし」となった場合は犯罪奴隷として罰を受けることになる。
貧乏人の場合は、税金が払えずに「奴隷」にされるのだ。町は壁に守られているが、その壁は日々摩耗していく。当然補修しなければならないし、そのためには費用がいる。その費用をねん出するのは町の人頭税であり、その費用が払えなければ、町に住む資格を失う。だがそれでも町にいたければ、奴隷になってでも置いてもらうしかない。そうやって「借金奴隷」が生まれるのだ。ちなみに、同様の理由で町には貧民街が無い。税金を払わない貧乏人は奴隷になるしか道はなく、毎月“奴隷狩り”と称される貧乏人回収事業が行われているからだ。
契約魔法や隷属魔法といったものがあるわけではないので、奴隷を奴隷足らしめるのは“法”と“お金”だ。
基本的には生活に関わる全ての費用を主人が負担するし給金が貰えるわけでもないので町の中で生きていくには奴隷でい続けるしかない。他の町に行こうにも、奴隷の刺青が邪魔をする。奴隷は単独で町の出入りができないのだ。
そして奴隷となって奪われるのは「職業選択の自由」である。
奴隷は主人の決めた仕事に就く義務があり、従順に働く義務を与えられる。この奴隷運用の基本は「農夫」「鉱山夫」「男娼・娼婦」である。武器を持たせる職に就かされることはまずなく、基本的に許可されない。命の危険があるダンジョンに連れて行かれることもほとんどない。だから特に事情が無い場合はこのあたりがほとんどだ。
若く容姿の整った人間はまず最初に娼館に売られる。その他は借金奴隷であれば農奴として、犯罪奴隷であれば鉱山奴隷として運用される訳だ。
そんな奴隷は職業を強要されるだけでその他の人権的な物は一般人と変わらない。
奴隷になりたくなければウォルターのように町の外で生きていけばいい訳であるが、ウォルターのような生き方は、正直「奴隷未満」である。奴隷の方がまだマシな生活をしていたりする。
以下ではない。未満なのだ。町の外で暮らすとは、そういう事である。
女性の体に見られる奴隷紋は借金奴隷のそれだ。常識に疎いウォルターでもそれぐらいは分かる。
女性は日の光が当たる場所に出たことで安堵し、腰を下ろして休憩を始めた。
女性は裸足で、ここまで走って逃げてきたせいで足の裏がボロボロだった。何かとがった石でも踏んだのか、血も流れている。いや、血はかなり肌を露出した足全体や掌からも流れている。ここまで来るときに草や木々の枝で切ったのだろう。傷は深くないものの、浅いとも軽視してよいともいえない状態だった。少なくとも、ちゃんとした手当をしないと病気になる可能性が高い。
助けるべきか?
ウォルターは自問し、「助ける必要はない」と切り捨てた。
姿を見せる必要も無かったし、ここで姿を見せる事自体に問題が発生しそうな気配がしたので、ウォルターは木の上で息をひそめたまま、女性がいなくなるか動けそうな状態になるのを待つ。
できれば早く戻りたい、日が暮れる前に。ウォルターがそんな思いで待っていると、思いとは裏腹に新たな来訪者たちがこの場を訪れようとしていた。
もしかしたらこの女性を連れて帰ってくれるかもしれない。ウォルターの心に希望の灯りがともる。
そして現れたのはそこそこ鍛えられた体つきの男が5人。うち3人は武器を携行している討伐者か傭兵らしき者が、残る2人は体格こそいいものの戦闘に関わる者には見えない。
「おいおいローラお嬢様。こんなところまで逃げるとは何をお考えですかなぁ?」
武器を持っていない男の一人が嘲りを込めた口調で女性に呼び掛ける。
女性の方は男達に視線を向けると警戒するように身をすくめた。
ウォルターはそれを見て「やっぱり助けに入るかな?」と考えたが、まだ様子を見る事にする。アルやマキから「情報は大切」「集める努力を怠らない」と仕込まれているので、手遅れにならないのであれば様子見した方がいいと判断したのだ。念のため、まだ封魔札に戻していない巨大鼠達を配置につかせる。
「まったく。貴女の身に何かあったら私めの首が飛ぶのですよ。もう少し、自重というものを覚えて頂きたいですな」
「ふざけるな! 私は貴様らの思い通りにはならん! 必ず家に戻り、貴様らを告発して見せる!!」
「おやおや、状況が見えていないようですな」
言い合いをする2人。女性の方はずいぶんヒートアップしていて冷静さを欠いている。会話に意識が集中しすぎて武器を持った男の1人が姿を消し、回り込んでいるのに気が付かない。男の方も森の中を移動しているというのにほとんど音を立てないので、ローラが気が付かないのはしょうがない。
射殺さんばかりの視線を喋りかけている男に向けるローラ。男の方はそんな視線も心地よいとばかりに余裕の態度を崩さない。
(これ以上は無駄かな?)
女性を逃がす方向で干渉することに決めたウォルター。それでも自分の姿を見せる必要は感じておらず、巨大鼠に指示を出し、回り込んでいる男を3匹で襲撃する。
「うわっ! なんでこんな所に巨大鼠が!?」
奇襲を受け、思わず大声を出す男。その声に気が付き、振り返って背後を確認するローラ。
さっきまで余裕の態度だった男は「チッ」と舌打ちすると、自分の背後に控えていた残る3人にハンドサインで指示を出す。
男たちは一斉に動き出すが、それも予想済み。
「な!! 囲まれていただと!?」
ウォルターが呼び出した巨大鼠は合計12匹。ローラの背後に回った3匹の他にあと9匹もいる。囲みを作るには十分な数だった。
「巨大鼠ごとき!!」
男たちは巨大鼠、つまりはダンジョンにおける最弱モンスターが相手という事もあり、驚きはしたが焦ることなく武器を振るおうとする。
だが、巨大鼠達はウォルターの支援、身体強化魔法の影響下にある。鉄の刃は巨大鼠を捉えることなく空を切り、逆に足に噛み付かれ出血を強いられる。
「見た目通りと思って油断するな! こいつら、ただの巨大鼠じゃないぞ!!」
戦い慣れているのだろう。男たちは巨大鼠達が見た目通りの雑魚でない事に気が付くと声を掛け合い、警戒して戦いに臨む。
強化された巨大鼠は、単独で戦狼を上回る程度の強さを持つ。
それが複数、そしてウォルターという指揮官を得る事で脅威度としてはランク3ダンジョンのモンスターの群れに相当する戦闘能力を保有している。更に言うなら、森は巨大鼠の生息領域だ。地の利は巨大鼠に有った。
「くそっ! なんでこんな奴らに!?」
「指揮官だ! 指揮官を探せ!! 統率している個体がいるはずだ!!」
「エリック!? くそ! 楽な仕事って聞いていたのに!!」
奇襲が上手くいったことに本来の実力を発揮することも無く倒れていく5人。
そして自分が襲われないという状況から巨大鼠を「味方」と認識したローラは、緊張感を失いこそしないがどこか安堵を感じさせる表情をした。
いざという時は自分が出張るつもりだったウォルターは、巨大鼠だけで戦いが終わったことにほっと一息つく。
周囲の様子を確認してから、もう大丈夫だと判断したウォルターはローラを保護することに決めた。
「ローラさん、でいいんですよね? ついて来て下さい」