冬の終わり
(この書類は予算案がグダグダですわ。認めるわけにはいきません。
こちらは……まあ、いいでしょう。見積もりが甘いですが、そこまで大きな差にはならないでしょう。一言注釈を入れ、判断待ちとします。
む、人事の予算案が低く見積もられていますわ。もう少し予算を押さえておかないと、今後が厳しいと分かっていませんわね。今までと同じ様にはいきませんわよ?)
マキは深夜の執務室で書類と格闘していた。
現在のチランは帝国からの独立を宣言し、「チラン公国」と名乗るハズだった。
しかしその思惑は帝国側の「周辺都市襲撃事件」による影響もあり、他の貴族が治める都市が参加することで「チラン大公国」としなければいけないほどの一大勢力となってしまった。
ただでさえ新体制への移行で人手が足りないのに、そこに新たな仕事が舞い込み、更には人も引き抜かれるという未曽有の危機に至る事になった。
本来は文官などではなく武官、それも契約による非正規雇用職員レベルだったマキが借り出されることになったのは、深刻な人手不足という非常事態だったからだろう。
事実、マキが全力で書類仕事をしても大公となったメルクリウスの仕事は間に合っておらず、大公国の運営は不完全かつ不十分な状態である。以前の、帝国領だった時に劣る生活水準を強いられる領民の中には独立を「早計だった」という不満が漏れだしており、帝国側の非道に対して直接被害を受けていない事から「帝国に恭順すべきでは?」という他人事で無責任な話まで出ている。
帝国派とでもいうべきその中には帝国の息がかかった人間も含まれているが、これを明確な理由も無く処罰の対象にすると暴政を敷いていると言いがかりを付けられるため、放置せざるを得ない状況にある。ただ、メルクリウスがこれを放置するのはマキの知らない思惑があるようで、彼らの話題となるといっそ楽しそうに見えるという話もある。
行政府には人手が足りず、民草には不穏な空気が蔓延し、物資は足りず、暴力に傷ついた人々の心はまだ癒えない。チラン大公国の現状は非常に悪い。
ただ、マキが手を貸している理由はチラン大公国が危機的状況だからではない。
単純に、「ウォルターがそれを望んでいるから」である。
(ここまで憤るとは思っていませんでしたわ)
マキはウォルターがバグズという行きずりの知人に対し、どのような感情を持っていたかを知らない。たいして深く関わっていなかったこともそうだが、ウォルター自身、そこまで思い入れを持っているようには見えなかったからだ。
助けようにもどうすればいいか考え付かなかったというのもあるが、敵対していたはずのクーラがあっさり矛を収めたという場当たり的な判断で事件を解決したと考えた事。その後のフォローを考えない態度は、薄情とまではいわないが不親切に見えたものだ。
だというのに、バグズが害されたからと憤るのが上手くかみ合わない。
結局はそういう事もあるのかと事実のみで判断するしかない。
(そもそも、女神が出てくる事自体が想定外ですわ。出来れば一回目の訪問時に依頼を済ませてくれれば話は早かったのですけど)
本来、マキとウォルターは民間人として生きていくつもりであった。
それが何故か役人や宗教的偶像などをやっているのかと言うと、この“女神”に全ての原因がある。
戦場で切り札たる“純白の古竜”を使ったのは、ウォルターへの関心を逸らす為でもあった。他にもいろいろと理由はあるが、マキは自分が目立つ方がまだマシだと考えていた。
だというのに、女神がウォルターに神剣を授ける事でそれもできなくなった。はっきり言って、今はマキよりもウォルターの方が目立っている。再び敵軍が来れば話は別だが、現状はウォルターの方が政治的に利用価値が高く、重要人物として扱われている。特に、アイガンでクーラが指揮する商人達にとっては。
もっと早くに女神が神剣をウォルターに渡していれば手の打ちようもあったのだが、全ては後の祭りである。帝国が軍を動かす前に「帝国をどうにかして欲しい」と言えばマキが皇帝その他を暗殺して全て終わらせることもできたのだが。
すべては終わってしまった今だから言える事である。自身が検分しただけで終わらせウォルターに神剣を触れさせなかったのも原因と言っていいかもしれないのだから。ウォルターの方が神剣に対し感じる物があったにもかかわらず、だ。
今から皇帝に何かした場合はチラン側の謀略と言う話になるため、戦争が激化するのですでに暗殺と言う手段はとれない。チランの風評被害を無視すればできなくもないのだが、そこまで薄情ではない。
いや、暗殺などと言わずマキが独り正面から潰したとしても、今度はマキを危険視する声で面倒な事になる。マキとしてはこの世界の女神の為にそこまでする義理は無い。それにチラン側の怒りをぶつける相手を奪うのは禍根を残すというか、“戦後の被害”をより残虐にする恐れがある。自分の手で、となると、敗者に対し更に鞭打つ形になってしまうのだ……。
結局は軍に軍をぶつけ勝利し、相手に敗北を認めさせるのが最善と言う結論に至っている。それが一番マシだと。
状況が変化したことでウォルターの育成方針も変更した。
とりあえずだが、マキは≪再生≫の修得よりも打倒帝国を優先するウォルターに歩調を合わせる事にしたのだ。そのため精霊魔法の強化を進めている。
回復魔法を優先して怪我人を治すより、攻撃魔法で先制して怪我人を減らす方が良い。マキが非常識な活躍するのはアウトだが、ウォルターが常識的なラインを少し越える程度に活躍するのは天使の名があるので問題ない。そう考えて自分を騙す。やはり、女神の思惑で動くことに嫌悪の感情が顔を覗かせるようである。
(これからの事は、先ず帝国をどうにかしてからの方が良いですわね。
いざとなれば女神の名を騙り、世俗から離れる為だと旅に出ましょう)
散々利用されるのだ。この程度の利用は大目に見てもらおうと、その名を利用する形で予定を立てるマキ。今後、穏便に物事を進めるために、周囲への影響が少なくなるようにといくつかの計画を事前に進めておく。
マキの仕事は夜を越えてなお続く…………。
アイガンのクーラは領主にすら影響力を持ち、アイガン内部の商取引をも半ば支配していたが、ここに至って実質的な領主を務めるようになっている。
不幸中の幸いと言っていいのか、アイガンの前領主、故人となった貴族家当主の子供がチランのガルフ――メルクリウスの異母弟――に討伐者として仕えていたため、彼が帰る事で“正統な”領主不在という事態が避けられたことだ。
彼自身には領主業など出来る筈も無く、望まれているのは討伐者としてダンジョンを抑える仕事ではあったが、そういった仕事の一つが片付き任せられるというだけでクーラには十分有益な存在だ。
領主としての実務、政治的な部分はクーラが受け持ち、非常に良好な関係を築いている。
クーラの商会は複数の都市間を行き来する行商も行っている。
一般的に、行商には三つの仕事があると言われている。
一つ目。商品と金銭のやり取り、“物流”。商人なのだから当たり前だろう。
二つ目。娯楽の提供。商人の有する情報は、地方に住む村人には大きな娯楽である。商人の語る世の情勢を聞くことは月に何度も無い娯楽であり、大きな楽しみとして期待されている。
そして三つ目。情報操作。二つ目と似たような話であるが、こちらは貴族の走狗と言う側面が強い。例えばだが、村人に語る情報を片寄らせることでその感情を制御し、支配を上手く行うのだ。重税を課しているが、近くで大崩壊が起こりモンスターが攻めてくるかもしれないから仕方が無い。そう言われてしまえば積極的に逆らおうとする気持ちを持てなくなる。これは貴族からもたらされる情報であれば信用されにくいが、同じ平民である商人からとなると、意外とすぐに受け入れられるのだ。
食料を購入するため帝国側にも人をやったクーラは、帝国領内に「チランに救世教会の天使出現」「帝国の非道」「帝国に対し救世教会の女神は非難声明を表明」という噂話をバラまいた。全て事実なので否定するのは難しい噂話だ。巧妙なのは断片的な情報しか教えないやり口で、足りない部分は語り部が補完するため様々なバリエーションが発生していくことだ。他にも、足りない部分はどうなっているのかと想像することにより、帝国への不信感を勝手に増幅していくようになるのだ。
一度村人に広まった噂話は他の商人を通じて都市部にも広まり、荒唐無稽なトンデモ話から真実を突いた推論までが帝国中に広がっていく。帝都に本店を置く商人の中には事実関係を調査するため冬にも拘らずチランまで情報収集をするため人を送り、噂話の大部分が真実であることを確認していく。
自国の領民を生贄に戦争をする皇帝に付き従う貴族は少ない。地方にいる貴族を中心に、反帝国の風潮は広がっていく。
冬が終わり春になるころ。
広大な土地を支配していた帝国の姿は無く。
周辺全てを敵国に囲まれた憐れな小国が残るばかりであった。
だが、そうなって尚。
「元」帝国は周辺国家との対話を拒み、強硬路線を崩さなかった。
冬が終わり春となり。
軍靴の音が響く中。
かの国がなぜ強気でいたのかの、答え合わせが始まる――