8.作業着の男
7・8話を続けて投稿しました。
須崎乃依の朝は早くない。
――と、彼女は思っていた。大学に入るまでは。
(この時間なのに、誰もいない)
相変わらず静かな廊下は、もうすぐ新年度が始まる雰囲気を微塵も感じさせない。みんなどこで何をしているのだろうと思うくらい、見事なまでに無人だった。
(夜には賑やかになるんだろうけど……)
どれだけ夜型? と聞きたくなる。乃依の知る限り、朝型人間は高階しかいない。そしてその高階は、今は調査で大学に来ていなかった。
(調査、多いなぁ)
大学院の合格発表の日も、彼は調査に出かけていた。それは数日で帰ってきたのだが、昨日からまた調査に行ってしまったのだ。今度は、一週間程行くらしい。
(今しか行けないからって、わかってるんだけど)
彼は、普段は附属校の非常勤講師をしている。だから一週間も調査に行こうと思えば、高校の休暇を使うしかない。つまり、春休みだ。
「おは――」
ようございます、と続けようとして、乃依は動きを止めた。
(誰?)
研究室にいたのは、乃依の知らない人物だった。
モスグリーンの作業着に、細いフレームつきの眼鏡。お世辞にも切り揃えられているとは言い難い、微妙な短髪。座っているから正確ではないかもしれないが、かなり背は高そうだ。
威圧感たっぷりのその人は、足を組んで椅子に座り、誰が見ても尊大な態度で「何か」を読んでいた。
(水道局の人がいる……!?)
怪訝な顔で目の前の人物を注視するも、直後「それはないだろう」と自分の考えを否定する。
水道局とは言わず、どこぞの業者の人というのであれば、納得できる。例えば火災報知器の点検に来た人だとか、コピー機の修理に来た人だとか。その可能性を考えなかったわけではない。いや、普通ならばそう考える。
――彼が、その手に卒論を持っていなければ。
もっと言うと、乃依が先日提出したばかりの卒論を読んでいなければ。
(ななななななななんで――――っ!?)
乃依は無意識のうちに、ぱくぱくと口を動かしていた。
卒業論文は、各自で用意したファイルに綴じて提出するきまりになっている。
乃依が用意したのは、再生紙で出来たグレーのファイルだった。他の人はピンクやブルー、グリーンといったパステルカラーをチョイスしている中で、彼女一人がグレーをチョイス。本人は落ち着いた色を、と思ってのことだったのだが、逆に目立つ結果となってしまった。おかげで、「グレー論文」という不名誉極まりない称号を頂いてしまっている。
(あれ、絶対私のだよ!?)
見間違えようがない。グレーのファイルなんて、他にない。
(OB? まさか、新しい先生?)
雰囲気から察するに、完全な部外者ではなさそうだ。だとすると、OBの可能性が一番高い。研究室のことを知っているようだし、あんなに堂々と人の卒論を読んでいるのだから。
パニック状態で目前の光景を眺めている乃依の先で、その人物はゆっくりと立ち上がった。
「あっ……」
目が合う。
いつから乃依の存在に気付いていたのだろうか。そこに彼女がいたことに、驚いた素振りはみられない。
彼は一歩、二歩と乃依の方へ近付いて来たが、半径二メートルの距離で不意に止まった。文字通り見下ろされている形になり、乃依は思わず半歩右足を下げる。
「……須崎乃依?」
呼び捨て。しかもフルネーム。でも、読み方が違う。
乃依は警戒しながらも返事をした。
「は、はい。そうですけど……」
読み方が違う部分には、敢えて触れずに。
ふーん、といった感じに乃依を見上げる男。乃依としては落ち着かない。
しばしの沈黙があった。
「あの、それ……」
遂に我慢できなくなって、乃依はファイルを指差した。続く言葉はないが、その仕草だけで、相手には十分伝わったらしい。
彼はぱたりとファイルを閉じ、威圧感たっぷりの態度で、近くの書架にもたれかかった。日本人男性の平均体重よりはいくらか重いだろう体重を受けて、書架がぎっと音を出す。上の方がわずかに揺れた。
「須崎さんさぁ」
「は、はい」
乃依は、ぴんと背筋を伸ばして返答する。彼の口調と動作に既視感を覚えたが、上手く記憶と一致しなかった。
何を言われるのだろうかと、乃依は身体を硬くする。彼女の中では、精一杯努力した結果ではあるが、他の人からもそう思ってもらえるとは限らない。
しかし目の前の人物の口から出てきたのは、意外な言葉だった。
「高階の、どこがいいの?」
うん、と一拍置いて問われた意味を考え。
次いで、作業着男の目を見て。
「はいいいいい!?」
目を見開いて、絶叫した。