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人生三回目の引っ越しの手続きを終えた高階は、まだ雪の残る実家に立ち寄った。足がなかった時代には、とてもそんな気分にはなれなかったが、自家用車を購入してからは、こうしてちょっと足を伸ばすことも多くなった。
夕方から大学で約束があるので、それまで時間を潰すのにもちょうど良い。こちらに帰ってくれば、宿代も浮くというものだ。
実家からは、弟の荷物がすっかりなくなっていた。この春から東京の大学に通うことになった弟は、すでに下宿先に住所を移している。前期試験で合格したため、準備にも余裕があった。
(孝弘も大学生か)
月日が経つのは早いものだと、年寄り臭いことを思う。
弟が出て行った後、代わりに自分が出戻る選択肢もあったのだが、今さら実家生活も何だかな……と思い、結局は一人暮らしを選んだ。それに、やはり職場から近い方が便利ではある。
荷物を部屋に運んだ高階は、階段を降りて居間へと向かう。冷えるので、こたつにでも入ってくつろごうか、という考えである。
スイッチを入れて、こたつ布団の中に手を入れる。じんわりと温かい熱が手のひらに伝わった。
なんとなく、幸せだなぁと思う。そのまま腰を進め、肩を入れ、すっぽりとこたつの中に収納された高階は、そのまま微睡みの時間に突入した。
が、そんな憩いの時間は長く続かなかった。
「孝ちゃーん! 私の鞄知らなーい?」
どたどたと足を踏み鳴らしながら、部屋を出たり入ったりする姉。
高階は目を開けると、ぼうっとした頭で瞬時に現在の状況を把握し、被害を受けないように、通路から最も離れた場所に移動した。
「知らない」
さっき帰ったばかりの自分が知るわけないだろうと思いながら、家の中をばたばたと走り回る姉に返事をする。
これから婦人部の集まりがあるらしく、「遅刻するぅー」とか「あーもう間に合わないかもー」と言いながら、忙しなくしているのだ。
ちょっと前――自分が帰宅した時はあんなにのんびりしていたくせに。自業自得だ、と高階は知らないふりを決め込んだ。
「あったぁー!」
嬉しげな声。「台所にあった」と、不要な情報を伝えてくる姉に、高階は棒読みで「そっか、良かったね」と返した。
いつも決まった場所に置いておかないから、こういうことになるのだ。
しかも、よく物を紛失するところは、子ども時代から全く変わっていない。つまり、成長していない。あれだけ学生時代に苦労したのだから、少しは改善されても良いはずなのだが、ルーズな性格が邪魔をしているのか、今後直る見込みはなさそうだった。
「じゃ、ママ会行ってきまーす」
鞄を発見した姉は、中身を確認することはく、そのまま肩にかけた。
「忘れ物、してない?」
「え?」
「鞄。中身確認してから出かけたら?」
「あっ……」
慌てて鞄の中身を確認する姉。
そういえば小学生の頃にも、同じことがたびたびあったよなぁと、高階は妙に懐かしい気分になった。
「そうだった! ドレッシングのレシピ入れるの、忘れてた!」
「ありがと孝ちゃーん」と言いながら、姉は台所に戻っていく。ドレッシング? と高階は思ったが、そういえば以前、婦人部(姉の中では、「婦人部」が「ママ会」になっているらしいが)で、地元の野菜を使ったドレッシングを開発している、と言っていた。今日はそのための集まりだろう。
やっと静かになることを喜んだ高階だったが、
「あ、そぉだ。車、借りてくね」
聞こえた言葉に、完全に覚醒した。
「は?」
そのまま、襖を閉められる。
まさかと思ってこたつから出ると、居間の端へ。そこに置いてある棚を確認する。
「あ」
置いていたはずの鍵がない。
高階は襖の向こうに向かって叫んだ。
「ちょっと待って!」
しかし、返事は返ってこない。玄関まで走って行ってしまったのだろう。
自分の常識を遥かに超える事態に呆然としたのも、わずかの間。高階は気を取り直して、姉を追いかけた。
(非常識過ぎる……!)
玄関のドアを開け放った高階は、姉を呼ぼうとして――。
「あ……」
目の前で、ぞんざいな扱いを受けた車が遠ざかっていく。安全運転という言葉を知らないであろう姉は、細い道路を我が物顔で抜けていった。
――こうして、就職するから、という理由で先月購入した中古車は、かくもあっさりと姉に乗っ取られたのであった。
高階がファミリーカーの鍵を開けるのを、辻原は無言で注視した。
遂にペーパードライバーを卒業した、というのは聞いていたが、念願の自家用車がファミリーカーとは。
これは実用性を重んじたのだろうか、と考え、辻原は改めて車と――それから乃依を交互に見て、言った。
「……気ぃ早くないですか?」
「これは姉夫婦の。姉に自分のを持ってかれたから、代わりに借りてきた」
「ああ……そういうことですか」
変わった理由だな、と思いながらも相槌を打つ。辻原には姉がいないので、その辺りのことがよく分からなかった。
「夕方出かけるって言ったのに、聞いてなかったんだと思う。そういうところが――」
ぶつぶつと文句を言い始めた高階を、辻原は「まあまあ」と言って宥める。きょうだい仲は悪くなさそうだが、性格的にはあまり合わないタイプなのかもしれない、と思った。
「いやぁ、てっきり、そういう話になってるのかと思いましたよ」
辻原の突然の発言に、高階は文句を言うのを止めた。乃依は反応がないから、何を言われているのか分かっていないのだろう。
そのことにほっとしながら、高階は「ああ、うん。それは……まあ」と微妙な返事を返した。あまり触れてほしくない話題だった。
辻原はそのことを察したのか、根掘り葉掘り聞いてくるようなことはしなかった。彼も彼で人のことは言えないので、藪蛇になるのを避けたのかもしれない。
「じゃ、ここで。お気をつけて」
「今日はありがとう」
「いえ。これからは、ちょくちょく顔出してくださいよ」
辻原はそう言うと、一礼してから自転車を押した。良いと言ったのに、こうして駐車場まで送ってくれたのだ。今日の幹事を快く引き受けてくれたらしいところもそうだが、なかなかに気遣いのできる人物である。
辻原の姿が小さくなると、高階は乃依に向かって言った。
「こんなので良ければ、どうぞ……?」
「あ、はい。ありがとうございます」
自転車ではなく徒歩で来たという乃依を、高階は下宿先まで送っていくことにした。二人でファミリーカーに乗るというよくわからないシチュエーションは、いつものことながらギャグみたいだった。
「引っ越し、来週ですよね」
「そう。部屋が空くのが来週だからね。もう少し早く入りたいところだけど」
「授業は何日から始まるんですか?」
「十日……だったかな。しばらくガイダンスが続くから、実際に講義が始まるのがそのくらいだと思う。でも、全然準備してないからなぁ……。そろそろやらないと不味いとは思ってるんだけど、引き継ぎとか、意外と時間取られるから」
そうだろうな、と乃依は思う。嘱託とはいえ、四年間同じ部署で仕事をしていたのだ。任されていた仕事も多いと聞いていたから、その分引き継ぎは大変だろう。
「授業の内容って、もう決まってるんですよね」
「一応ね。決まってるというか、決めさせられたって感じだけど。……やっぱり、シラバスに沿ってやらないといけないんだろうなぁ」
早々と、大学の方から「シラバスの提出をお願いします」と言われ、慌てて作ったので、今となっては微妙にプランに変更が生じている。学生に突っ込まれなければ良いのだが、と高階は思った。
ただ、気が楽なのは、高階のもつ授業は全て、今年度より開講されるというところだ。
勤務予定の女子大は、もともと教養科目でしか地理を教えていなかったが、今年度新たに人文学系の学科を設けたことにより、専門科目を教える地理の教員が必要となった。今まで非常勤でまかなわれていたところに、常勤(期限なし)の枠が出来たのである。
高階にとっては絶妙のタイミングであり、これに応募しない手はなかった。ライバルは少なくなかっただろうが、地元国立大学出身という地の利が働いたことは明白で、わりと早くに結果は決まっていたらしい。「最初から決まりだったぞ」――とは、県下の大学に情報網を張り巡らせている都甲の言葉である。
大学は偏差値こそ高くないものの、落ち着いた雰囲気の、なかなか良いところだった。女子大という未知の領域へ足を踏み入れる緊張感を除けば、おおむね満足のいく就職先だといえる。
「しばらくは忙しそうですね」
「そうだね。まあ、始まってみないことには、分からないんだけど。――須崎さんの方は、移動あるかどうか分かった?」
「それがまだなんです。今日内示があるかと思ったんですけど……来週みたいです」
怖いなあ、と乃依は思う。何となくだが、移動がありそうな予感がするのだ。そして彼女のこういった勘は、かなりの確率で当たる。
高階と違って、引き継ぎは大したことないのだが、机の整理やら掃除やら、そちらの方が面倒臭い。また、新しく人間関係を構築するのも、少しだけ気が重かった。
「そっか。落ち着かないね。……にしても、何でうちは、そんなに遅いんだろ。人事なんか、もう決まってるはずなのに」
「ですよね! こっちの身にもなってほしいです!」
おかげで、きっと土日の精神状態は良くないだろう。せっかくの週末をそわそわと過ごさなければならない勿体なさを思い、乃依は「あーあ」と思った。




