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久々に会った友人は、乃依の話を聞くなり、
「完全に通い妻よね」
と言った。
「通い妻って……」
「だってそうじゃない。向こうから来てくれないわけ?」
「それは……仕事で忙しいみたいだし……」
「仕事、ねぇ」
有馬雪穂は背もたれに寄り掛かる。
東京の某外資系ホテルのラウンジである。こんなところを待ち合わせ場所に指定されて、乃依はひどく緊張しながらやって来た。いらっしゃいませ、とドアマンに声を掛けられただけで「すみません」と謝ってしまうような小市民である。居心地悪いことこの上ない。
対する有馬は、すっかり「東京の人」になってしまったようで、女子アナが着ているような、流行の最先端をゆく服をしっかりと着こなしていた。
乃依はこれでも余所行きの服をチョイスしてきたつもりだったが、彼女と並んで可笑しくないかどうかは、かなり怪しい。
「蓬田君は、来てくれる?」
「はぁ? 来るわけないでしょ、あれが。こっちからも行かないし」
「え……それ、大丈夫なの?」
「何が?」
「何がって……だから、その」
それは果たして付き合っていると言えるのだろうか。まさか破局寸前なのだろうか。だとしたら、不味いことを訊いてしまったのかもしれない――そんな思いが乃依の頭を占めるが、
「ああ、別れるって話はないから。今のところ」
乃依の懸念を察した有馬が、先回りしてそう言った。
「なんだ。良かった」
自分のことではないのに、乃依はほっと胸を撫で下ろした。蓬田のことは正直苦手だが、有馬と別れてほしいとは思わない。あれで、意外に良いところがあるのかもしれないし。
「まあ、今は乃依の方が安泰だもんね。就職、おめでとう」
「ありがと」
この春、乃依は無事に正規の大学職員としての職を手にした。相当厳しいよ、と言われていたので猛勉強したのだが、なんとか入り込めたらしい。「無理無理」と言ってくれた蓬田を見返すことができたのも、合格したことと同じくらい嬉しかったりする。
「で。あっちは、まだ正職につけてないの?」
「そういうこと言わないでよ。最近は厳しいんだから」
「そうも言ってられないでしょ。志水さんなんて、博物館の助教じゃない」
「志水さんと比べるのは、ちょっと……」
この春修了した志水は、そのまま博物館に就職を決めた。ライバルは大勢いたらしいが、彼女からしてみれば有象無象である。
「厚東さんだって、講師でしょ」
「中国でね」
そういえば最近メールが来てないなぁと、乃依は思う。たいてい週一で、研究室のメールアドレスに、まるで定期便のようにメールが来ていたのだが……。新年度が始まって忙しいのかもしれない。
「戸田先生って、退職まであと何年だっけ?」
「まだまだあるから!」
「引き抜きの予定とかないの?」
「ないないないない!」
恐ろしいことを言った有馬は、「じゃあ駄目か」と、口をへの字に結んだ。
「とにかく、乃依もぼんやりしてないで、考えなさいよ」
自分が考えてもどうにもならないような気がしたが――乃依はとりあえず「うん」と言った。
有馬おすすめのホテルランチ(思ったよりもリーズナブルな値段だった)を堪能した後、乃依は次なる待ち合わせポイントに向かう。
初めて東京に来た時には、人の多さと駅の複雑さに圧倒されるという、田舎っ子丸出しな乃依だったが、もう慣れたものだ。仮にも地理学を学ぶ人間としては、迷子だけは避けたいものである。
(まあ、地図があるから助かってるんだけど)
一度訪れた場所はたいてい記憶しているが、初めての土地には不安が残る。こうして地図を片手に歩かなければ、迷子にはならないとしても、待ち合わせに遅れてしまう可能性はあった。
(あ、ここだ)
目印となるものがあるので、間違いない。乃依は一度時計を見てから、邪魔にならない場所へと移動した。
人の往来を一通り眺めた後、乃依は持って来た地図――ガイドブックではなく、東京都心の地図――を再び広げた。
地図を見るのは楽しい。小学校で初めて地図帳を扱った時から、暇な時にはぱらぱらと捲っていたくらいだから、もしかしたら筋金入りかもしれない。高校では日本史を選択していたので、あまり世界地理には詳しくないが、日本地理ならば自信があった。
夢中になって地図を読んでいた乃依は、徐々に近付いてくる人物に気が付かなかった。
「須崎さん?」
「え! はい! すみません!」
途端、ぱっと顔を上げる乃依。
この反応が懐かしいなぁと、高階は思う。志水の独壇場だった先月の学位審査会で会って以来である。
「いいよ、全然。遠くからでも、直ぐに分かったし。それより、早く着いたんだね」
待ち合わせ時間よりも、二十分ほど早い。高階も時間には正確な方だが(これは祖父母の影響によるものと思われる)、乃依はそれを上回っていた。
「迷ったらいけないと思って、早めに出たので」
と言っても、ホテルから最寄りの駅まで有馬に送ってもらったので、あとは電車に乗って、目的の駅まで行くだけで良かった。さらに、乃依は「電車がなかなか来なかったらどうしよう」と懸念をしていたが、そんな心配も全くなかった。この辺りは、なかなか慣れない部分である。――地元や大学周辺とは違い過ぎて。
「ちょっとぐらい遅れてもいいのに」
ここ最近、乃依を待たせてばかりの高階である。
彼も早く来ているとはいえ、乃依がそれを常に上回ってくるとなると、このままではどんどん「本来の待ち合わせ時間」との差が進みそうである。そのうち、待ち合わせ時間の一時間前集合が暗黙の了解になっても可笑しくない。
しかし、乃依は大真面目な顔で「そんな!」と言った。
「先輩を待たせるわけにはいきません!」
体育会系の流れだろうか、と高階は考える。高校時代は陸上部だったと聞いたことがあった。上下関係の厳しさが身に付いているのかもしれない。
が、それはそれ。これはこれ。
いい加減、先輩・後輩の意識をなくしてもらわないと、やり難くて仕方がない。
「もう『先輩』じゃないよ」
そう言うも、
「先輩ですよ! 大学は出ましたけど……でも、高階さんが先輩であることには変わりないですから!」
乃依は全力で否定である。
「そういう意味じゃないんだけど……」
「あ、すみません! ええと…………どういうことですか?」
どうやら自分の解釈が間違っていたらしい、ということに気付いた乃依はとっさに謝罪したが、高階は小さく肩を落としただけで、それ以上の説明はなかった。
「いいよ、もう。――それより、移動しようか」
「あ、はい」
歩き始めた高階について、乃依も移動を開始する。
地図を眺めていたとは言っても、実際に歩き慣れた道ではない。乃依は「いかにも観光客です」といった動きで、東京を散策した。
「何か面白いものでもあった?」
「え?」
「さっきから楽しそうにしてるから」
高階がそう言ったのは、街路樹の並ぶ、落ち着いた雰囲気の道に入ったときのことだった。
乃依は一瞬きょとんとしたものの、再び顔を綻ばせて「あ、いえ――」と、言われたことをやわらかく否定した。
「高階さんと会えたのが嬉しいだけです」
何の躊躇いもなくさらりと言ってのけた乃依に、高階はしばし言葉を失った。バットを構えていないのに投球されたような、単語帳を開いてもいないのに抜き打ちでテストをされたような――そんな、妙な感覚だった。
しかし乃依は、高階の心情などいざ知らず、今度こそきょろきょろと風景を眺めながら楽しんでいる様子だ。彼女にとっては、ごく当たり前の会話の一部だったのだろう。
高階は何やら腑に落ちないものを感じながら、
「なんだかなぁ」
と言った。




