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一年ぶりに見る風景は、まるで変わっていないように思えた。
無人改札をくぐった先はやはり閑散としていて、雪の降り込む待合室も人気がない。随分昔に貼られたのであろうポスターが、冷たい風に吹かれてぱたぱたと揺られていた。
高階は腰を落として、足元に落ちていた押しピンを拾う。それを親指でぐっと押して、ポスターの端をきつく止めた。
(変わらないなぁ)
よいしょとリュックを背負い直して、駅を出る。列車の到着時刻は伝えておいたはずだが、祖父の姿はどこにも見当たらなかった。
このまま待とうかとも考えたが、実家までの道はほぼ一本道である。途中まで歩くことにして、懐かしい道を進み始めた。
歩いていくと、向こうから白い軽トラックが見えた。窓からは、細い手が覗いている。
そのトラックは高階の目の前で止まり、今度は窓から人の顔が現れた。
「すまんすまん。遅ぅなった」
「いいよ、全然。わざわざありがとう」
祖父に「乗れ」と言われ、高階は助手席に乗り込む。高階が物心ついた時から使用されている車は、若干嫌な音を立てて発進した。
「濡れたか?」
「あーうん、まあ。ちょっと。大したことないよ」
傘を持って来ていなかったので、頭は白くなっている。それでも、雨に濡れるよりかはマシだったし、こうして雪まみれになるのは嫌いではなかった。
「帰ったら、ばあさんがぜんざいを作っとるぞ」
一年ぶりだ、と高階は思う。一人では作ろうと思わないので、食べる機会がない。
祖母の作るぜんざいは好きだ。しかも、ぜんざいが作られるということは、餅つきが終わっているということなので、なおさら実家に着くのが楽しみになった。
――と思っていたのは道中のことであり。
離れに住んでいる祖母への挨拶を済ませた後、荷物を置きに母屋へと行こうとしたところで、帰省が必ずしも「楽しみ」とはならないものだったことを思い出した。
「あ、孝ちゃん。帰ってたの」
庭に出ていた女性が、乾いた洗濯物を抱えたままの状態で声を掛ける。彼女はそれを縁側まで一旦運んだ後、再び庭へと戻ってきた。
「今帰ったところ。じいちゃんに、駅まで迎えに来てもらった」
「ふぅん。あ、ねえねえお土産は? 頼んどいたあれ、買ってきてくれた?」
予想通りの反応に、高階は「はい」と言ってお土産袋を渡す。こうなることは予測済みで、敢えて手提げにして持って帰っていたのだ。
直ぐに所望のものが出てきたことに満足したのか、彼女は上機嫌で縁側へと戻っていく。サンダルを脱ぎ捨て、自分だけ暖かい部屋へと入って行った彼女を、高階は呆れた目で追った。
(玄関の鍵……開いてるかな)
これで閉まっていたら、さすがに泣けてくる。
この近辺では、鍵をかけるなんて習慣はないのだが、それでも高階は慎重に玄関へと回り、ドアノブに手を伸ばした。
「あっ」
やはり田舎はこうでなくては、と思う。遠いところを遥々やって来て、高階家に狙いを定めて窃盗を働くような輩もいなければ、見慣れない人間をスルーするような地域住民もいない。きわめて安全な社会なのである。
高階家と隣家との距離は、五百メートル程度あるものの、付き合いは良好で、互いの動向を良く知る関係にある。不審者が現れれば、直ぐにこちらの耳に入っているだろう。
ところで、初めて高階家を訪れた人間(但し都会っ子に限る)は、たいてい同じような反応を示す。
曰く、
――超お金持ちじゃん!
と。
そう思われる理由は簡単で、単に家が大きくて、どこぞのお屋敷のようだからだ。
確かに、家は無駄に広いし、耕作地も十分なほどあるし、山の一部も所有している。が、これは別に珍しいことでも何でもなく、過去に大地主だったという記録もない。「普通だよ」と言うのだが、「いやいや」「またまた」と言って信じてもらえないことが多かった。
「ただいま」
既に自分が帰っていることは知っているだろうが、一応そう言ってみる。
返事はない。
まあ、それはそうだろう。何せ、広いのだ。
畑の方には出ていなかったので、母は家のどこかにいるはずだ。取り敢えず台所に近付いてみると、良い香りがした。
「――母さん」
抑えたトーンで呼ぶと、母はぐるっと身体を回転させて、まるで一大事でも起こったかのような声を出した。
「あらぁ!? 孝ちゃん、帰ってたの!」
「帰ってたよ。さっきね。姉ちゃんから聞かなかった?」
「ぜん、ぜん! やだもう、何で教えてくれないのよ」
「……お土産に夢中になってるんじゃない?」
自分の帰宅が認識されていなかった事実に、ややショックを受けながらも――いやでも、これが普通だったな、と思い直す。
そうだった。これが我が家なのだ。
夕食は鍋だった。祖父母も一緒に食卓を囲むかと思われたが、食事の時間帯が違うことを理由に止めになった。父の帰りが少し遅くなると、連絡があったからだ。
少し前に、思う存分ぜんざいを食べていた高階だが、鍋は問題なく胃袋に収まっていった。
「そういえば孝司君、卒業したんだって? おめでとう」
今まで誰も口にしなかったことを言ってくれたのは、やはり義兄だった。姉とは違って常識的な人で、何故こんなにもまともな人が姉と結婚してくれたのか、高階はいまだにそれが理解できなかった。
「ありがとうございます」
卒業ではなく正しくは修了だが、祝いの言葉を述べてくれる義兄を前に、訂正することは控えた。
「いやぁ、すごいね。俺なんか、そっちのことは全然わからないんだけど、博士っていえば、ほら。大学の教授になれるんだろ? いやぁすごいなぁ。教授かぁ」
「あ、いや、そうとも限らな――」
「そうよ孝ちゃん、いつになったら出世するの!?」
被せるように発言してくるのは、母。
出世もなにも、ただの嘱託職員ですが何か?――そう言いたいのを堪え、高階はお茶を一口飲んだ。
「そんな直ぐには無理だよ」
「えぇー!? せっかく卒業したのに? どうして?」
「じゃあ、まだバイト続ける気!?」
「バイト!? 兄ちゃん、フリーターだったの!?」
母、姉――それから、妹。
口々に質問を浴びせられ、高階は「やれやれ」と思うと同時に、懐かしさを覚えた。悲しいかな、やっと「実家に帰ってきた」という実感が湧いてきた瞬間でもあった。
高階は律儀に現状と今後の見通しについて、途中で何度も腰を折られながらも説明し、一応は周囲の理解を得ることに成功した。ちなみに、全てを聞き終わった女性陣の反応は、「ふぅん」だったが。
(まあ、いいんだけど)
寡黙――というか、この喧しさについていけない父(たぶん自分はこの人に似たのだろうと、高階は思う)は、ただただ箸を動かしていた。
父は高階の進路について、あまり意見を言わなかった。大学に関しては、私立はやめてくれと言われたが、それ以上の縛りはなかった。結構好きにさせてもらってるな、と今更ながらに思う。
高階がそんなことを思っていると、かつーんという大きな音が響いた。
「知可ちゃん!」
その名前に、思わずぎょっとする。が、それが姪を指しているのだと理解するのに、時間はかからなかった。
「もう、駄目でしょ。これで遊んだら!」
姉が姪――知可の持っていた陶器のレンゲを取り上げる。
きゃははは、と姪は笑っている。音の鳴るものに興味があるのだろう。
義兄が「そろそろ風呂に入れるか」と言って立ち上がり、父も「ごちそうさま」と言ってそれに続く。高階も同じようにフェードアウトしようとして――。
「ところで孝ちゃん、良い人はいないの?」
母に捕まった。
これは長くなるぞ、という嫌な予感――というかもはや確信が、ずっしりとのしかかる。
「孝ちゃんに彼女ぉー!?」
案の定、姉がそれに便乗する。わざとらしい驚き方に、さすがの高階もカチンときた。
が、それよりも早く、
「いないわよねぇ。やっぱり」
即答の母。
「いるわけないじゃん。兄ちゃんだし」
追い打ちをかける妹。
どういう根拠だ、と高階は思う。
「えー、つまんない」
箸をぷらぷらさせる姉を、高階は冷めた目で見る。いいから早く旦那を手伝って来い、と心の中で思うも、それが姉に伝わることはなかった。
「東京で一人っていうのも、寂しいわよねぇ」
「そっか! てことは、この前のクリスマスも一人で過ごしたわけ? うわ有り得ない!」
有り得ないのは、受験生のくせに遊び呆けているお前だろう、というツッコミを入れる人間は、この場にはいなかった。本当は言ってやりたかったが、それを言ってしまったが最後、ますます面倒なことになる予感しかしないので、高階は黙っておいた。
「ねぇ、誰かいないの?」
「だからいないって。兄ちゃんだし」
「そろそろ勉強したら? 受験生だろ」
イラッとして、妹にそう言ってやる。すると妹は勝ち誇ったような口調で、「専門だから、余裕だもんね」と言った。
「専門学校? 何の?」
「んー。ま、色々。取り敢えず何か資格取れるとこ」
「何だそれ」
「私は兄ちゃんとか孝弘みたいに頭良くないし、これでいーの」
分が悪くなったと判断したのだろう。捨て台詞のようにそう言うと、妹は居間を後にした。
「孝弘、勉強できるんだ」
合宿中で家を留守にしている弟とは、長いことロクに話をしていない気がする。弟も弟で、あまり喋らないのだ。
「そりゃもう、孝ちゃんなんか足元にも及ばないんだから」
相変わらず育児を夫に任せたままの姉は、余計なひと言を挟みながら、それでも主婦らしく後片付けを始めていた。
「ふぅん」
「冷蔵庫に、この前の模試の結果貼ってあるから、見てきたら?」
「はぁ? 冷蔵庫?」
どんなスパルタ教育だと思いながら、冷蔵庫に近付いてみる。高校一年生だから、まだ三教科受験のはずだ。
昭和を感じさせる冷蔵庫に、でかでかと模試の結果が貼られてある。弟が自らこんなことをするとは思えないから、おおかた母か姉のどちらかの仕業だろう。
ちょうど目線の高さに貼ってある紙を見た高階は、何度かそれを確認した後、思わず呟いていた。
「え……? これ、孝弘の……?」
第一志望には、国内で最も偏差値の高い大学の名前が書かれており――驚くべきことに、合格圏内だった。
その夜、高階は離れに泊まった。学生の頃は、離れで祖父母と生活していたからだ。
「じいちゃん」
床につこうとする祖父に、高階は声を掛ける。「んん?」と言って振り向いた祖父は、眠たげな顔をしていた。
あのさ、と意味のない前置きをしてから、高階は何度も脳内シミュレーションしてきた言葉を告げた。
「今度、連れて来たい人がいるんだけど」
最初にこれを言うのは、祖父にしようと決めていた。
祖父はさして驚いたような様子は見せず、にんまりと笑って、「そうか」と言った。




