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その後というか、一カ月後のお話
四月のキャンパスには人が多い、と高階は思う。一年の中で最も活気のある期間だろう。
これがゴールデンウィークを過ぎると、徐々に人口減少が確認されるようになるのだが、真面目な彼は、学部生の頃は講義に無遅刻無欠席という快挙を成し遂げていた。――誰もそのことに気付く者はいなかったが。
あの頃は精神的に楽だったよなぁと思いながら、高階は講義中のキャンパスを歩く。
時折吹く風が、東京との気候の違いを教えてくれる。向こうを出る際には、何とも季節感の無い恰好だと思われたが、駅を降りた瞬間、自分の判断は間違っていなかったと確信した。
風をコートで遮断しつつ、理学部へと急ぐ。文学部棟からは距離があるので、少し歩かなければならなかった。
(春はまだ先……か)
五月に入る頃には暖かくなっているだろうが、四月ではまだこの寒さである。それでも、日中の気温が上がるようになったのは、だいぶん春らしい。日光に当たっていれば、気持ちが良いと感じるくらいだ。
景色よりもむしろ気候を懐かしんでいた高階は、前方から走って来た人物の認識に時間がかかった。
「すみません、遅くなって!」
低めのヒールを鳴らして走って来る女性。自分に向けられた言葉だと分かっていても、高階の反応はやや遅れた。
ジャケットにスカートという、比較的かっちりした恰好は、記憶の中では見たことのないものだった。いつも普段着(と言っては彼女に失礼かもしれないが)か、黒のリクルートスーツ(おそらく入学式で購入したもの)だったので、こういった姿は新鮮だった。つい先日まで学生だったのに、急に社会人になったかのようだ。
(……って、実際そうなんだっけ)
同じ場所にいるので忘れそうになるが、彼女はこの四月から大学で働くことになった職員なのだ。
「いいよ、僕も今来たところだから」
そう言うと、女性――須崎乃依は、「ご無沙汰してます」と言って頭を下げた。それがやはり社会人っぽくて、高階も慌てて、同じように返す。
「用事は、もういいんですか?」
「うん。戸田先生のところには行ってきた。これまでもメールでやり取りしてたから、手続きの確認だけだったんだ。直ぐに終わったよ」
「手続きって、博論の、ですか?」
「そう。秋には、絶対に提出しないと」
「そうなんですか?」
「じゃないと、志水さんとかぶる」
きっぱりと告げられた理由に、乃依は拍子抜けした。もっとちゃんとした――というか制度上のルールによるものだと思ったからだ。
「駄目なんですか? それ」
「駄目っていうか……。彼女と一緒に提出するのは、ちょっと」
「え? どうしてですか?」
「比較されそうだから。勝てる気がしないから」
再びきっぱりと告げられた理由に、またも乃依は拍子抜けした。が、よくよく考えてみると、高階の言うことはもっともな気がした。何が悲しくて、優秀な後輩と敢えて競わなければならないのだろうか。ここは回避するのが確実である。
「ほんとにね、彼女と同じゼミじゃなくて良かったよ。仮に志水さんとポストを争うことになったら、と思うとぞっとする」
厚東や辻原、蓬田に対しては合掌、といったところだ。
高階は思い返す。数年前、志水が戸田ゼミに参加していたときのことを。
あのまま彼女が戸田の研究室に居続けていたら、きっとさまざまな事が、今と違っていただろう。
「そうですね……」
思いがけず昔のことが思い出された高階だったが、隣で乃依が深く頷いたので、それ以上の追憶をやめた。
「それで、須崎さんの方はどう? 仕事」
「あ、はい。なんとか。今までしてもらってたことをするのは、なんだか変な感じですけど」
「でも、学生課に配属になって良かったね」
「はい。そこは感謝です」
ぎりぎりまで配属先が分からなくて戦々恐々としていた乃依だったが、理学部の学生課に決まった途端、飛び上がって喜んだ。学生課ならばよく知っているし、相手が学生なのだから気が楽だ。文学部でなかったことを除けば、乃依が密かに希望していた通りの配属になったのである。
「理学部といえば、西家君は元気にやってるのかな」
「どうなんでしょう。顔は見るんですけど、話をすることがないので……」
西家は、結局理学部の博士課程へと進んだ。もともと向こうとの繋がりが強かったこともあるが、直接的な原因は、西家の指導教員が来年定年退職を迎えることにある。指導教員からの勧めもあり――もしかしたら、以前からそのつもりだったのかもしれないが――西家はあっさりと文学部を去って行ったのだ。
「そっか。まあ彼なら、どこでもやっていけそうだよね」
西家ほど自分を貫いている人間もいないだろう。――いや、志水といい勝負だろうか。
高階は、あの二人は案外似ているところがあるのかもしれないなと思った。
「それよりお昼、どうしましょうか。学食だったら、そろそろ行った方が……」
高階は時計を確認する。乃依の懸念する通り、あと二十分ほどで二コマ目、つまり午前中の授業が終わる時間である。これから混雑するだろうことは予測できた。
「それとも外に食べに出ましょうか」
「ああ。でも、須崎さんの休憩時間のこともあるし……学内にしよう」
高階が言うと、乃依は「じゃあ、学食で」と言って、さっさと歩き始めた。
高階が乃依と会うのは追い出しコンパ以来である。だから、それほど長い間会わなかったわけではない。どちらかというと、「ついこの間会ったばかり」という感覚の方が強い。それなのに、高階から見た乃依は、以前とはやや変わっているようだった。
それは外見ではなく内面的な変化のように思われたので、やはり社会人になると心境の変化があるものなのだろうかと、自分を振り返って、妙に納得してしまった。
「並木通りなんて、久々に通りました」
周りの景色を楽しみながら、乃依は軽い足取りで通りを歩く。
学食はお互いに食べ飽きているということで、農学部の隣にあるレストランに行くことになった。ここでは、大学で生産した素材を使った料理を振る舞っている。やや値段は高めだが、美味しいと評判だ。
「僕は二回……だったかな。それくらいしか来てないな」
「ここ、カップル専用みたいになってますもんね」
「ああうん、在学中はついぞそんな機会なんて訪れなかったからね」
高階はやけくそになったかのように、早口で乃依の発言を認めた。
彼女の言う通り、ここはカップル達の憩いの場となっており(造られた当初はそんな用途など考えられていなかったはずだが)、独り身は自然と避けて通る場所となっている。
高階は農学部に行く用事があった時に来たくらいだが、その時も極力周りを見ないようにしながら、足早に通過したことを思い出した。
「あ、いえ! そういう意味ではなくて!」
じゃあどういう意味だろうか、と言いたいのを堪え、高階は「いいよいいよ」と、これまた早口で言った。若干、適当な感じになってしまったのは仕方がない。彼女に悪意がないのは分かっているが、はっきり指摘されると多少の心理的ダメージを認めざるを得ないのである。
とそこで、高階は乃依の発言に引っ掛かることがあったのを思い出した。
「ていうか、須崎さんは通ってたんだ?」
「いえいえいえいえ! 私の場合は、散歩してただけです!」
「「散歩」って……。須崎さんはそう思ってたとしても、向こうは違うかもしれないよ」
「いえいえいえいえ! そういうのではなくて!」
やけに必死だな、と高階は思う。もしや嫌な思い出でもあるのだろうか。
乃依のことは、彼女が戸田ゼミに入ってから認識したようなものである。もちろんそれ以前から同じ研究室に所属していたのだが、後輩の顔と名前を全て覚えてはいなかったので、一部の優秀そうな人間を除いては記憶していなかったのだ。
だから、彼女が一二年の頃のことは知らない。当時付き合っていた相手がいたのかどうかも、当然知らない。
「まあ、その、いいんだけど……」
これ以上追及する気もないので、そう言ったのだが、
「いえあの、よくないです、たぶん」
「よくない? 何で?」
「だから……その、誤解です。私、一人だったんです」
「一人?」
「つまり、その、一人で散歩してたんです」
「ああ……」
やっと辿り着いた回答に、高階は何とも言えない声を出した。
フォローすべきか聞き流すべきか迷ったが、「ああ」以外の言葉を思いつかなかったので、結局はそれ以上会話を広げられなかった。
「あの…………不味かった、ですか? ここ、通るの」
「何で?」
突然、不安げな顔で問いかける乃依。
高階は意図が分からず、聞き返す。
「だって……」
乃依は言いよどんだものの、意を決したかのように口を開いた。
「周りから、その……そういう風に見られるかもしれないですし」
知り合いに会う確率は低いが、仮に研究室のメンバー(特に都甲研)に見つかってしまった場合、噂は瞬く間に文学部棟に広がるだろう。しかも、不要な尾ひれまでもくっつけて。
乃依は研究室を出た身なので、まだ気が楽だが、高階は所属している。余計な面倒が増えるのではないかと思ったが、
「なら、別に問題ないんじゃない?」
当の本人の返事は、驚くほどあっさりとしたものだった。
あれ? そうなの? と拍子抜けする乃依に、高階は続ける。
「別に間違ってはないと思うよ」
それが、あまりにさらりと言われた言葉だったので、乃依は反射的に「そうですよね」と同意しようとして――はたと思い直した。
間違っていない、ということは「合っている」とは完全なイコールではないにせよ、その事実の一部を認めているということだ。
(ってことは、つまり……)
数秒前の会話をリピートしてみる。こういうことに関しては、妙な記憶力の良さを発揮するのが乃依の特徴だ。
急にそわそわし始めた乃依の横で、高階は視界に妙な光景を捉えた。
「……あれ、何だろ」
その声に、乃依も高階と同じ方向を向く。
「うわぁ……」
見てはいけないものを見てしまったかのような声は、一人の男に向けられていた。
ベンチに向かって地面に正座をして。
ぱんぱんと手を鳴らして。
必死に拝んでいる、一人の不審者に。
「…………猫?」
高階の怪訝そうな声が、乃依に届く。
男が拝む先に鎮座するのは、一匹の黒猫だった。
ベンチで日向ぼっこをしているその猫は、気持ち良さそうに目を閉じている。男の珍妙な行動など、気にも留めていない、というように。
「えっと……彼、ちょっと変な人なので。大丈夫です」
「え!? 知り合い!?」
「知り合いというか、ただの同期なんですけど……たぶん向こうは、私のことを覚えてないと思います。話したことないですし」
今は話しかけたくもないですし、と心の中で付け加える。元々親しかったのならまだしも、今からお近づきになりたいとは思わない。
乃依は、避けるようにベンチの脇を通る。
変人と名高かった彼は、やはり変な人のままだった。
相変わらずな新和くん……。




