42.走る大学院生
失意のうちに帰宅した乃依だったが、いつもの如く郵便ポストを確認することだけは忘れなかった。
ダイヤルを回すと、郵便物に混じってチラシが出てきた。飲み屋の広告(クーポンは付いていないので不要だ)と、引っ越しの案内(もしかしたらお世話になるかもしれないが、考えたくない)である。
階段を上りながら、必要なものと不要なものを選別する。その結果、必要と思われるものは一通の郵便だけだった。
(これ……!)
差出は、大学。このタイミングで来る通知など、一つしかない。
乃依は残りの段を駆け上がり、自宅の前に立った。
鞄の内ポケットから急いで鍵を取り出し、鍵穴に差しこむ。その、一つ一つの動作がもどかしい。
部屋に入って明かりをつけるなり、封筒を手で破く。はさみやペーパーナイフを使うという選択肢はない。とにかく、この封筒の中身を知ることが、何よりも優先されるべきことだった。
(ちょっと厚みがある……ってことは!)
中から折りたたまれた紙を取り出し、ざっと斜めに流し読み。
結論は、いたってシンプルに記されていた。
乃依は、見間違いがないように何度も確認してから、それを鞄の中に仕舞った。
(……………………よし)
迷ったのは、一瞬のこと。
どういう別れ方をしたにせよ、これだけは伝えておかなければいけないと思い直したからだ。高階は迷惑に思うかもしれないが、これっきりになるぐらいなら、後悔のないように行動した方が良い。
乃依は玄関先でUターンし、再び寒空へ飛び出していった。
電話はワンコールで繋がった。まだ就寝の仕度はしていなかったようで、話したいことがあるので、駅まで来てほしい旨を伝えると、一呼吸置いてから「わかった」との返事があった。正直、「電話に出てもらえなかったらどうしよう」という不安があったので、この時点で乃依の心境は幾分かマシになった。
「すみません、急にこんなこと言って……!」
駅にやって来た高階に、乃依は駆け寄る。
「あの、どうしても報告したいことがあって!」
「何?」
結論を急いだ言い方をするのは、まだ彼の中でわだかまりがあるのかもしれない、と乃依は思う。本当はもっと別のシチュエーションで言いたかった、というのが本音であるが、今はそうも言っていられない。
「さっき家に帰ったら、合格通知が来てたんです」
「…………合格通知?」
不審げな目を向ける高階。「そんなはずはないだろう」という声が聞こえてきそうだ。
乃依は項垂れながらも、証拠の品を見せる。すると、高階は一層不可解だという顔をした。
「この時期に、結果って出るっけ……?」
「二次募集なんです。臨時採用なので」
「臨時採用?」
「志水さんが言われるには、就職先の見つからない学生のための救済措置だそうですけど……。たまたまエントランスに募集が出てて、締め切りの前日にエントリーしたんです。そしたら、こうして運よく採用してもらえて……。来年度は取り敢えず臨時採用という形なんですけど、夏に正規採用の試験があるので、それも受けてみようと思ってます」
一気に説明すると、高階はこれまでの不審そうな表情を崩して、なぜか言いにくそうに、苦笑いさえ浮かべながら言った。
「…………確認するけど」
「はい」
「大学に残るっていうのは、職員として残るってこと?」
「はい。そうですけど……?」
他にどんな選択肢があるのだろう。乃依は僅かに首を傾けつつ答える。
途端、高階は思い切り脱力したというように、大きく身体を前に倒した。
「なんだ……」
「た、高階さん!? どうされたんですか?」
そのまま地面に倒れ伏すんじゃないかという懸念は、幸いにも杞憂に終わった。寸でのところで彼は上体を起こし、大きく息を吐く。白い息が完全に消えてしまってから、高階はやっと乃依の方へ顔を向けた。
「そういうことか」
珍しく、彼は笑っていた。
それはなんというか、とてつもない疲労感を湛えた笑みだった。
「あの……?」
ここ数時間で、彼の心境にどういった変化が起こっているのだろうか。
乃依がそんなことを考えていると、
「てっきりドクターに上がるのかと……」
「ぅええええええええ!?」
夜の公道に、傍迷惑な声が響く。
「ないですないです! 有り得ないです、私なんかが! そんなの、無理に決まってます!願書出しても受け取り拒否されるでしょうし、受理されたとしても、一番に落とされます!」
「いや、そこまでは思わないけど……」
「そんなことないです。私には進学できるだけの頭はありません!」
「頭の良さは関係ないよ」
「あります! 絶対あります! というか、それは一定以上のレベルの人が言う台詞です!」
少なくとも自分は言えない。例えば蓬田に対して言ったとして、速攻でフルボッコにされるに決まっている。
乃依はうっかりそれを想像してしまい、途端に憂鬱な気分になった。
「でも……そっか。良かった。てっきり、就職が決まらないから、進学に逃げようとしてるのかと思ってた」
「えっと……それ、私にとっては全然「逃げ」にはならないんですけど。というか、私はそんなことしませんし」
「だよね。ごめん、勝手に思い込んで」
「あっ、いえっ、その、……大丈夫です、はい」
高階に謝られると、なんだか落ち着かなくなる。ここは怒って良いところなのかもしれないが、自分の伝え方が悪かったのも事実だ。心なしかむっとした言い方になってしまったことを自覚した乃依は、その場で小さくなった。
「じゃあ須崎さんは、しばらくはここに留まるわけだ」
「はい。実家から遠いので、ちょっと不安はあるんですけど……。でも、弟が地元で就職するみたいなので」
「そうなんだ。良かったね」
「あ、でもまだ決まったわけじゃないです! 就活、これからなので!」
とは言うものの、弟は要領と愛想が良いから、すんなりと就職先を決めそうではあるが。
乃依は、すっかり家族の期待が弟に集中している現状を思い出す。自分に期待がかからなかったのは、ひとえに弟のおかげであるのだが、心中は複雑だ。
「うちも姉夫婦が地元に残ってるから、好きにさせてもらってるんだ。弟はどうか分からないけど、妹も家から出る気がないみたいだし」
「……高階さんって、何人きょうだいですか?」
「四人。姉と、妹と弟。騒がしいよ」
「そうだったんですか……」
なんとなく、彼が落ち着いた環境を求める理由が分かった気がした。
「去年はバタバタしてたけど、今年は余裕ができそうだから、大学にも顔出すよ。機会があれば、また」
「えっ、あ、はい!」
これは、また会う約束をしてもらっているのだろうかと、乃依は期待を膨らませながら返事をする。それがどれほどの頻度なのかは分からないが、日々の楽しみが出来るのは必定だ。
「ところで、配属先はある程度絞られてるの?」
「いえ、大学全体の募集だったので、全然です。できれば文学部がいいんですけど」
「そうだね。知ってるところの方がやり易いよね」
うんうん、と高階が小刻みに頷く。彼も彼で、慣れない場所で苦労していることが窺えた。
話を聞く限り、向こうでの生活は順調のようだし、病んでいる気配もない。それでも、やはり大学に来てからはほっとしたような表情を見せることが多かったように、乃依は思う。高階にとって、ここは、ちゃんと落ち着く場所なのだ。
そんなことを考えていた乃依は、今まで触れてこなかったことを口にしていた。
「いずれは、こっちに帰って来られるんですよね?」
一瞬、高階の動きが止まった。
ややあって、小さく「それは……」と口を動かす。
「戻りたいとは、思ってるけど」
飽くまでも願望だ、というニュアンスを含ませて。
慎重に、彼は答える。乃依の提示する未来が、どれだけ困難な道のりかを知っているだけに、安易な回答はできないのだろう。
(だったら――――うん)
そんな彼の心中を察しながらも、しかしこれだけは言わねばと、乃依は自分に気合を入れる。頑張って口を開けると、思ったよりも明るめの声が出た。
「だったら――」
ふと、高階に「東京に来るか」と言われた時のことを思い出す。彼もこんな気持ちであったのだろうか。だとしたら嬉しいな、と思いながら、
「帰ってきてください。ここに」
と言った。
にわかに人の往来が増えたと思ったら、かんかんかんかんと、踏切が閉まる音がする。列車の到着を告げるアナウンスが駅の外にまで聞こえてきた。
高階は再び静寂が訪れるのを待ち、呼吸を整えてから、先ほどよりもよほど慎重に言葉を探す。
別の場面であったなら、そして彼女相手でなければ、苦笑しながら「帰れたらね」とでも言っていただろう。
不確定なことは言わない主義だ。特に、見込みの少ない事柄に関しては。
けれど、今ここで「それ」に逃げるのは、良くない気がした。良くない、というか――別の言い方をすると、卑怯だ。彼女にここまで言わせておいて。
だから、高階は決断する。見込みがどうとかではなく、確かな未来にするために。
「わかった、そうする。……時間、かかるかもしれないけど」
「大丈夫です。それまで、待ちますから」
躊躇のない言葉を聞いて、高階はすっと緊張が解けるのを自覚した。それまでの、一時ではあるものの張り詰めた空気は、驚くほど呆気なく消えていく。
不思議なものだな、と思う。こんなことを言われるまでは、その可能性についてぼんやりとしか考えてこなかったし、実現することがあったとしても遠い先のことで、直近の問題としては捉えていなかった。
しかし今は、将来についての具体的なビジョンが見えてきたような気がしていた。
何年後になるかは分からないが、必ずここへ戻ってくる。それまでは大変だろうが、地道に実績を積み上げていくしかない。運が良ければ、十年以内に戻って来られるかもしれないし。
改札を潜ってやって来る人の波を目で追いながら、高階はそっと、ポスト争いを勝ち抜く算段を始める。東京に帰る足取りは、随分と軽いものになりそうだった。
これで完結となります。
ここまでお付き合いくださいまして、ありがとうございました。




