41.再会した二人
一年を締め括る追い出しコンパは、例年通り、滞りなく終了した。
乃依は同期とともに無事修了することが決まっていたので、晴れやかな気持ちで会に参加することができた。前々から蓬田に、「本当に修了できんのか?」と言われ続けていたため(これは修論提出日にフェードアウトしたことを根に持っているのだ、と乃依は思っている)、鬱々とした毎日を送っていたのだが、それも数日前には解消された。今となっては、「蓬田め、いつか仕返ししてやる!」と密かに息巻いていたりする。
一次会の会場を出た後、乃依は二次会に行くグループの横をさっと通り過ぎた。蓬田が何か言いたそうな顔をしていたのがちらっと見えたが、気にしている場合ではない。次に会った時に、「なんで二次会に来なかったんだ」と文句を言われるだろうが、二次会よりももっと優先すべきことがあった。
(まだ、居てくれてるよね)
大丈夫だとは思いながらも、足早にその後を追う。
目的の人物はすぐに見つかった。
「高階さん!」
ととと……と駆け寄ると、高階は白い息を吐きながら小さく口を動かした。「あ」とか「ああ」とか、そういった言葉だろう。
首はグレーのマフラーで覆われ、手は黒いコートのポケットに入れられているので、肌色の面積が極端に少ない。先ほどのコンパで、「東京に出たのに変わってない。地味すぎる」と陰で言われていたように、暗色系でまとめられた服装は相変わらずである。
そのことに、乃依は妙に安心した。
「抜けてきたんだ」
「はい」
もはや乃依に怖いものはない。
……とまでは言えないが、少なくとも都甲研の顔色を窺うようなことはしなくなっていた。
これは確実に志水の影響で、この一年間で彼女から学んだことは多い。
「高階さん。ホテル、どちらですか?」
「駅前の……ええと、名前は何て言ったっけ」
そう言って、視線を彷徨わせる。
だが乃依にとって、ホテルの名前は関係ない。「駅前」という情報だけで十分だった。
「じゃあ、途中まで一緒に帰りませんか?」
言った途端、高階は目を丸くした。一瞬反応が遅れたのは、彼女はこんな性格だっただろうかと、記憶の中の人物と照合しているのかもしれない。
乃依は高階の様子に気付かないふりをして、「行きましょう」と言って促した。
「お仕事の方は、どうですか?」
狭い道路を歩きながら、乃依はさっそく話の口火を切る。
コンパではあまり話ができなかったため、高階の現状については把握できていない。乃依が知っていることと言えば、今年も博論を提出できなかったことと、仕方がないので来年度も籍を残すということぐらいだ。
ちなみに、厚東は無事博論を提出し、三週間後には学位審査会が開かれることになっている。公開なので、乃依も行って、後ろの方でこっそり聴こうと思っていた。
「今は落ち着いてるよ。秋から年末にかけては忙しかったけどね」
「来年も、継続されるんですか?」
「そのつもり。せっかく仕事覚えたのに、一年で辞めるのは勿体ないし。次年度まで持ち越してる仕事もあるから、そっちを片付けたいってのもある」
一年契約の身であるが、どうやら更新してもらえるようだと、乃依は彼の口ぶりから判断した。
「こちらには戻って来られないんですね」
「そうだね。今のところは」
乃依の残念そうな口調に、高階は疑問を覚える。
彼女とて、今年度で大学とは縁が切れるはずである。就職先が大学周辺なら理解できるが、そういった話は聞いていない。高階が大学に戻ろうと戻るまいと、彼女には関係ないはずだ。
急に気になって、高階はこれまで聞けなかった話題を口にすることにした。
「須崎さんの方はどう?」
「あー……就職のこと、ですよね」
気まずそうに笑う表情は、高階の得ている情報とぴたりと一致していた。
「その……ごめん、戸田先生から聞いたんだけど……まだ決まってないんだって?」
「はい……その通りです」
乃依は声のトーンを落としながら、言いにくそうに肯定した。
一次試験すら突破できなかったのだから、言い訳も何もない。単なる努力不足、勉強不足である。詳細を説明する気にもなれなかった。
高階もそれを察したのか、はたまた一次落ちの事実を知らされていたのか、それ以上突っ込んで聞いてくることはなかった。
代わりに、
「じゃあ……東京、来る?」
「………………え?」
乃依は思わず足を止め、高階の方を向く。
大通りから射し込む車のライトが、時折彼の顔を鮮明にさせた。冗談を言っている顔ではない。
「地方だとなかなか難しいだろうから、いっそ東京で探すのも良いと思うよ。業種だって、もう少し広げられない?」
言いながら高階は一歩を踏み出し、大通りへ向かう。乃依は止まっていた足を動かして、高階に続いた。
「あの、それが……」
歩きながら、そわそわと指先を動かす。
何と言ったら良いのか。いや、何から話せば良いのか。
このような展開になるとは予想だにせず、乃依は急に焦り始めていた。当初の予定では、高階の仕事の様子を聞いて、来年度のことを聞いて、そして――少しだけ、自分の話をするつもりだった。それなのに。
「どういう方面に興味があるの?」
「それは…………」
「役所だったら、やっぱり観光課とか文化財課とか? その辺りなら、須崎さんの研究も活かせるね」
言葉に詰まった乃依を気遣ってか、高階がフォローするように言った。
そういう道も考えないではなかったが、やはり具体的なビジョンが描けない時点で、落ちて然るべきであったのだろうと、乃依は思う。
それに今となっては、もはや過去の道でもあった。
「あの、私――」
息を吸う。夜の冷たい空気が肺に入り、身体が一気に冷えた。
大通りとはいえ交通量は少なく、空気は澄んでいた。
乃依は、前を向いたままの姿勢で白い息を吐く。
「東京には、行けません」
横から、「えっ」という声が耳に入ってきた。
それは驚きというよりも、もっと別の感情が入っているような気がしたが、乃依はそれについて考える余裕もなく、続きを口にした。
「ここに、残ろうと思って」
視線を上に向けると、マンションの階段の明かりが目に映った。
最近駅前の開発が進められており、若い世代向けのマンションの建設ラッシュになっている。これも、一年前に建てられたものだ。
「大変でしたし、嫌なこともありましたけど――でも、やっぱり大学が好きみたいなんです。ここから離れるのは、なんか寂しいな、って。そう思うようになったので」
そこで、言葉を切る。
しばらく沈黙していた高階が、ゆっくりと自分の方を向くのが、乃依にはわかった。
「もしかして…………大学に、残る気?」
まさか、というような口ぶり。
驚愕というよりかは、疑念に近い。なぜ? ではなく、何のために?
一体何の目的で、そんな決断をしたんだと言わんばかりの目が、そこにあった。
乃依は戸惑いながらも、しかし間違った事実を伝えるわけにもいかないので、しっかりと返事をした。
「はい」
「本気で?」
「はい」
もう一度、同じように肯定する。
確かに急な話ではあるし、彼の提案を断ってしまう形になったのだが、そこまで言われることかな、と乃依は思う。
何が彼の中で引っ掛かっているのかわからないが、言い様のない不安は増していく。このままではいけない、という思いが、彼女の口調を早くさせた。
「って言っても、まだ決まってないので、全然わからないんですけどね。落ちる可能性だってあるわけですし」
出来ればそんな未来は想像したくないが、現実はそう甘くないということは、この一年で十分に実感している。志水からは「大丈夫だよ」と言われているものの、安心しきるほど、乃依は馬鹿ではなかった。
あははと笑う乃依を、高階は無表情で見つめる。
「就職先がないからって、そんな……」
高階は小さく呟くと、急に顔を背け、歩調を早めた。
「あっ」
それを、乃依は慌てて追いかける。歩くのは比較的早い彼女だが、それでも時々小走りにならなければいけないくらいのスピードだった。
(なんか、不味いこと言った……?)
彼は今、確実に機嫌を悪くしている。
それがわからないほど、乃依は鈍感ではない。
(「東京に行かない」って、はっきり言い過ぎたのが不味かったのかな。いやでも、そんなことで……?)
ここに来るまでの会話をリピートしてみるも、決定的な言動は思い当たらない。
原因がはっきりしないのと、彼との間でこういった状況になったことがないのとで、余計に対処の仕方がわからないのだ。結局、早足で歩く高階に追いつくのが精いっぱいで、乃依はそれ以上の思考ができなかった。
「あそこだから」
と言って立ち止まった高階の後ろで、乃依は呼吸を整える。
マフラーの内側が湿っていて、気持ちが悪い。取ろうかどうしようか迷ったが、そのままにしておいた。
彼が指差す先には、ビジネスホテルがあった。この先の路地を入っていけば、すぐに辿り着ける距離である。
「あの、」
「それじゃあ、ここで。遅いから、気をつけて帰って」
事務的な口調。
さっと背を向けた高階を、乃依はぼんやりと見送った。
一方的に告げられた「さよなら」に、思考が追い付かない。そんなにも彼の機嫌を損ねるようなことを、自分はしただろうか。
(なんで……)
なぜだろう。
せっかく一年ぶりに再会したのに、なぜこんな最悪な別れ方をしているのだろう。
乃依は、振り返ることのない背中を視線だけで追いかける。
「んっ……!」
彼の姿が完全に暗闇に隠れてしまってから、乃依は勢いよくマフラーを取り去った。
直接冷気に触れた首が、一気に冷たくなっていく。
(何なの……一体)
何がいけなかったのか。本気でそれを考えるよりも先に、乃依の視界はじわりと滲み始めていた。




