39.送る人、送られる人
「高階君の就職を祝って――」
ご馳走を前にしての短い挨拶を終えた戸田は、待ってましたとばかりの一同に向かってグラスを掲げた。
「乾杯」
あちらこちらでグラスのぶつかる音がする。乃依も、隣の佐合と音を鳴らした。
あまり広い部屋ではないので、幹事席からも主役の姿が見える。
彼はいつもと変わらない表情で、戸田と言葉を交わしている。特段嬉しそうにしている様子も、楽しそうにしている様子もない。
聞くところによると、就職が決まったといっても嘱託職員だったようで、一年契約らしい。つまり、一年後はどうなるかわからない不安定な身であり、手放しで喜べないのだろう。
(でも、すごい倍率だったらしいし……凄いと思うんだけどなあ)
専門職はとにかく倍率が高い。それを突破しただけでも、十分誇れることだと思うのだが。
そんなことを考えていると、
「私、初めて見たよ。高階さんがアルコールを摂取してるとこ」
ととと、とやって来た板倉は、ちょこんと乃依の横に座った。
見ると、元彼女の席は別に人物に乗っ取られている。どうやら行き場を失って、ここへ流れ着いてきたようだ。
「私もです」
「飲めないわけじゃないのよね。飲まないだけで」
上から降って来た声は、大能のものだった。彼女も板倉と同じ理由でやって来たようである。
「何でなんですか? 昔、何かあったんですか?」
お酒にまつわる黒歴史を想像した板倉に、大能は笑って否定した。
「何かやらかしてたのは厚東君の方だけど……まあ、そういうの見て嫌になったんじゃないの? 本人は、アルコールを摂取することにメリットを感じないとか何とか言ってるけどね。あとは、飲むとその日の研究に支障が出るから、って」
「高階さんらしい理由ですね」
実のところ、誘いを断るための口実なんじゃないかと、大能は思う。
当たりは悪くないのに、どうも人付き合いが苦手なのだ。高階孝司という人間は。
こんな感じで就職できるのだろうか、むしろ社会に放って大丈夫なのか、と密かに心配していたりする。
「私も全然飲まないので、アルコールの魅力がわからないです」
「私もー」
「…………ああ。……うん。そうね。ただ単に、そういうことなのかもね」
後輩二人の意見を聴いて、いややっぱり、高階にそこまでの考えはないのか? と大能は考えを改めはじめた。
そういえば、戸田研で飲むのは自分だけである。戸田は全く飲まないし(ただし飲めないわけではないらしい)、四年生もソフトドリンク派ばかりである(しかも炭酸飲料ばかりを注文するので、まるで子供会の行事のようである)。
なんでこうなっちゃったのかなーと思うが、それはやはり戸田研の雰囲気なのかもしれない。酒豪で知られた都甲の元には、やはりお酒好きな面々が集まっているわけだし。
「佐合さんは、飲める方?」
「嗜む程度です」
グラスにほんの少し口をつけただけの佐合は、喧騒とは程遠いおっとりとした笑みを浮かべた。
うわーお嬢様っぽい模範的な解答ー、と思いながら、大能は一気にジョッキを傾けた。
雪のおかげか、店の外は思いのほか明るかった。
風がないので、雪がほぼ垂直に落ちてくる。乃依は折り畳み傘を取り出そうかどうしようか迷ったが、結局ダッフルコートのフードを被ることで対応した。
かねてから依頼していた通り、二次会は蓬田主動で行われることになった。と言っても主役不在の会であり、もはやただの飲み会である。乃依には勿論、参加する意思はない。
二次会へ行くメンバーを見送って、乃依は店内に残る彼らを待つ。
店の入口から少し離れたところに立っていると、戸田と、彼に続いて高階が出てきた。
「須崎さん。お疲れ様」
「今日はありがとうございました」
店の扉が開いた瞬間にフードを取った乃依は、何食わぬ顔で戸田に挨拶する。
「帰りはどうするの? バス?」
「あ、いえ。うち、バス停から結構距離があるので、歩いて帰ろうと思います」
「大丈夫? タクシー呼ぼうか?」
「いえいえいえいえ! そんなに遠くないので大丈夫です!」
歩いて帰るつもりで、財布には飲み会代とちょっとしか入れていなかった。想定外の出費は不味い。
「じゃあ、高階君。途中まで送ってあげたら?」
「いえいえいえいえ! そんな、大丈夫です! 一人で帰れますから!」
高階が何かを言うよりも前に、乃依は手を左右に振った。
高階家とは、道が正反対である。ついでで送ってもらうならまだしも、そこまでの手間はかけさせられない。彼には、このまま戸田と一緒に、大学方面へと向かってもらった方が良いに決まっている。
戸田は「どうしようか」といった顔で、高階を見た。
「送りますよ、僕」
「え、でも――」
遠回りなんじゃ、と言いかけた乃依に、高階は「ここからだったら、二十分もかからないよね」と確認した。
そういえば、以前マルモトの近くに住んでいることを話したんだった、と乃依は思い出す。あれは、忘れもしない――良いのか悪いのか良く分からない、ちょっと変わった思い出を残してくれたクリスマスイブの日のことだった。
「あ、はい。それぐらいだと思います」
「なら送るよ。散歩だと思えば大した距離じゃないし」
「……いいんですか?」
いまだ遠慮がちな乃依に、高階は何てことはないかのように「うん」と言う。
「じゃあ……お願いします」
やっと頭を下げた乃依を見て、戸田は安心したように頷いた。
それから三人でバス停まで向かい、乃依と高階は、大学行きのバスに乗る戸田を見送った。
戸田はバスで大学まで戻り、そこから自家用車で帰宅することになっていた。
飲み会の日に車で来なくても……と高階は思ったが、直後、それがアルコールを断る口実だと悟った。
さすがは戸田。徹底している。
「今日はありがとう」
戸田を乗せたバスが発車してからしばらくして、高階が口を開いた。
「いえ。そんな……」
「急な話で悪かったと思ってる。準備、大変だったでしょ」
「そんなことないです」
実際、一番面倒だと思われたOBへの連絡は厚東が全て引き受けてくれたし、店の手配は辻原が協力してくれた。佐合が志水の協力を得て会計を担当してくれたおかげで、乃依は出欠の管理と、当日の進行を考えるだけでよかった。
うちの研究室は親切な人が多いなあと、つくづく感じる今日この頃である。
「須崎さんにはもっと早く言いたかったんだけど、こういう人事に関することは、あまり口外できなくて」
「そう、ですよね」
「でも、決まったのは本当に最近なんだよ。さっきも、言ったと思うけど」
さっき、というのは送別会のことだ。高階が就職に至った経緯について、挨拶で簡単に話してくれた。
なんでも、「旅」とやらで訪れた先の研究会にて、知り合いの研究者に、急に空きがでたポストがあることを教えてもらったとか。一応インターネット上で募集が出ていたらしいが、高階はチェックしていなかったので、そこで声をかけられなければ縁がなかったとのことだった。
ちなみに、すぐさま「それ旅じゃねぇだろ! ただ研究会に参加しただけじゃねーか!」と厚東のツッコミが入っていたが、高階は適当にそれを受け流していた。
「みなさん就職されて……喜ばしいことなんですけど、寂しくなりますよね」
大能も板倉も、来月からは大学に来なくなる。乃依と佐合が戸田研の最年長という、乃依にとっては有り得ない状況が、すぐそこにまで迫っていた。
「まあ都甲研が賑やかだから」
「えっと……ちょっと怖いんですけど」
彼らと戦っていくだけの度胸も、実力もない。蓬田君など、ますます態度が大きくなることだろう。それが容易に想像できて、乃依は少し憂鬱な気分になった。
「嘱託だから、大学にはまだ籍を残しておくつもりなんだけど――」
「え! そうなんですか!?」
完全に大学から離れるものだと理解していた乃依にとっては、意外な朗報だった。すっかり「もう会えないのかな」というネガティブ思考に陥っていたのだが、籍が残っているとなると、これからも関わっていくチャンスは十分にある。
知らずきらきらした表情になった乃依に、しかし高階は頷いてから、「けど」と繰り返してから続けた。
「しばらくは、こっちに顔を出せるかどうか分からない」
「あ……」
「取り敢えずは、あっちの仕事を覚えるのが先だからね。落ち着くまでは難しいと思う。研究の方も、すぐに再開できるかどうか」
考えてみれば、それもそうである。いくら専門知識を活かした職に就けるとはいっても、一から覚えなければならないことは多いだろう。
乃依は表情を戻し、「そうですよね」と言った。
「本当は、須崎さんが修了するまでは残ってようと思ったし、そうすべきだったんだけど……。こういうことになってしまって、申し訳ない。最後まで指導できなかったっていうのもそうなんだけど、急にゼミの最年長なんていう負担もかけて」
「いえっ、そんな! 研究のやり方とか、高階さんにこれまでずっと教えていただいたので、その……前よりかは分かってると思うんです。この一年で、少しは成長したかなって思えるくらいには」
周りの評価はわからないが、自分がそう感じるのなら確かなことなのではないかと、乃依は思う。
「それに、私一人じゃなくて佐合さんもいますし、ゼミの方は二人で頑張ります。――だから、大丈夫です」
「そっか」
高階は噛み締めるようにそう言ってから、ふと「そういえば」と付け加えた。
「須崎さんは公務員志望だっけ?」
「はい。地元の市役所にでも就職できれば、と」
「地元? ……ってことは、島根?」
「そうです」
これは以前から決めていたことである。
今は、大学近辺の自治体も視野に入れているところだが、両方合格した場合には地元に戻るつもりだ。生まれ育った土地でもあり、今も研究のフィールドとしている島根には愛着がある。公務員ならばどこでも良い、というわけではない。
乃依にしては珍しく即答の事柄に、高階もまた珍しく反応が遅れた。
五秒ほどの沈黙の後、遠慮がちに、それでいて重要事項を確認するかの如き面持ちと口調で、
「他県は? ここにそのまま残るとか、例えば関東まで選択肢を広げてみるとか」
その只ならぬ雰囲気と、言われた言葉から、乃依はある解釈に至った。
「……やっぱり、地方は厳しいでしょうか」
「あ、いや、そういう意味じゃないんだけど。なんていうか、その、可能性の意味で訊いただけで」
「倍率高いですしね。相当勉強しないと。――やっぱり無理かな……」
「違う違う、そうじゃなくて」
「いえ、でもちゃんと勉強しますから。修論書きつつ、試験勉強もします」
「ああうん。それは大切なことなんだけどね、さっきからこっちの意図が伝わってない気がするっていうか、誤解してるみたいだけど――って、危ない!」
「ひゃっ!」
間抜けな声が長閑な田園風景に響いたのは、急に車が突っ込んできたからとか、不審者が出現したとか、そういう理由ではない。ただ単に、ぼうっと歩いていた乃依が側溝に落ちそうになり、寸でのところで高階の声に救われたというだけの話である。
乃依はコートの上から、心臓の辺りを軽く押さえる。
いつも以上にばくばくしている。言うまでもなく、側溝に落ちそうになったことに対する反射的な反応をみせているだけだが。
高階を送る会はずが、乃依を病院に送る会になるところだった。あわや大惨事、とはこの事だ。
「暗いから気をつけないと」
「すみません……」
高階はそれ以上言うのを諦め、「追々考えよう、うん」と自分に言い聞かせた。
あっと思ったのは、どちらが先だったか。
薄暗い小道の先に見える灯りを目にしたとき、それが別れを意味するものだと理解したはずだ。
自然に歩調が緩まり、電灯の下で立ち止まる。
「遅くまでやってるんだね」
「二十二時まで開いてるんです。帰りが遅くなったときは便利ですよ」
「いいなぁ。うちの近くには、こういうスーパーがないから。大学から近いのはいいんだけど、たまに不便なんだよ」
他愛もない会話。
こういったことも、当分の間できなくなるのだろうと、乃依は思う。
「あの……ここで大丈夫です。雪、また降り始めましたし」
バス停では止んでいた雪が、再びちらつき始めていた。まるで「早く帰れ」と急かしているかのような動きに、乃依も決断を早める。
「送ってくださって、ありがとうございました」
「いいよ、全然。じゃあ、気をつけて帰って。今日は本当にありがとう」
「いえ、こちらこそ……今まで、ありがとうございました。お身体には気を付けてくださいね」
「ありがとう。須崎さんも、元気で」
「はい」
普段と変わらない別れ際。いや――少しは、背を向けるまでの時間が長かっただろうか。
乃依は、濡れたアスファルトを見つめる。
いつものスニーカーではないので、歩き辛い。靴音がするのも耳に残る。高階と歩いていた時には気にならなかった一つ一つのことが、今になって気になり始めていた。
(良かったのかな……これで)
首だけを後ろに向ける。
黒い背中が遠ざかっていく。あと少し街灯から離れれば、その姿は簡単に暗がりに溶け込んでしまうだろう。
乃依はほんの少しだけ、彼が振り向いてくれることを期待したが、それが叶えられることはなかった。
(良いはずはないんだけど、でも……)
だからといって、何を言えば良いのだろうか。
好きです? 付き合ってください?
しかし、乃依は直ぐさまそれらを取り消す。それは、何だか違うような気がした。
(だって……)
中途半端だ、と思う。
将来の見通しもたっていない上、そもそも修了できるかどうかもわからない。こんな状況で言える資格なんて――たぶん、ない。
彼についても、せっかく掴み取った仕事だ。今はそれに集中させてあげるべきではないのか。
そう考えると、少なくとも、このタイミングで言う台詞としては相応しくないと思うのだ。
もしかしたら、時機を逸することになるかもしれない。
この日の選択を、後悔するかもしれない。
それでも――やはり、今は「違う」。
それが、彼女の答えだった。
「…………あっ、そうだ!」
ふと、乃依の頭にある考えが浮かんだ。
ちょっとした思いつきだったが、もしかしたら、今の自分には相応しい言葉かもしれなかった。
乃依は、踏み出し始めた一歩を軸に半回転した。
「高階さん!」
近所迷惑を顧みずに声を出すと、高階は弾かれたように振り返った。
乃依は小走りで高階の元へ急ぐ。
「すみません。言い忘れてたことがあって」
「何?」
「あの、住所……教えてもらえませんか? その……年賀状とか、出したいので」
そう言うと、高階は申し訳なさそうな表情になった。
まさか拒否される!? と一瞬構えた乃依だったが、
「ごめん。住所、まだ決まってないんだ。落ち着いたら、こっちから手紙書くよ。年賀状も出す」
「お願いします」
なんだ、そういうことかぁと安堵しながら、乃依は頭を下げる。
「言い忘れてたことって、それ?」
「はい。あと……」
そこで言葉を切って、いつもよりはっきりとした口調で続けた。
「来年、絶対に修論出しますから。追いコン、来てください」
「――わかった」
高階がしっかりと頷くのを、乃依は心に刻み込む。
一年後の約束。
一年という期間が長いのか短いのか、乃依にはまだ分からない。
今まで当たり前のようにあった日々がなくなるということが、どういうことなのか――それも分からない。
けれど一つ言えることは、目標ができたということだ。
彼ならば絶対に覚えていてくれる。そして、約束通り来てくれる。だから、それまで頑張らなくては――。
この日、乃依はそう決意したのだった。




