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38.突然の別れを知る彼女



 その報せがもたらされたのは、学位授与式の二週間前のことだった。


「――そういうことだから、送別会でもやろうかと思うんだけど」


 戸田の声が、どこか遠くに聞こえる。自分とは一切関係ないところでなされている会話であるかのごとく、乃依はただ、話を続ける指導教員を視界に収めていた。


「本当は追い出しコンパの時に、一緒に出来れば良かったんだけどね。もう終わってしまったし、改めて、ということで」


 追い出しコンパ――その単語に、乃依はほんの少し反応を示した。あれから、もう一か月経ったのか、と。

 今年も滞りなく終了したコンパでは、いつものように辻原に絡まれ。蓬田には嫌味を言われ。高階と志水は助けてなどくれず(食事に集中していたため、気付かなかったものと思われる)。

 ただ去年と違って、そこには厚東や佐合がいて、厚東は珍しく辻原と蓬田を乃依から引き離してくれる役を担ってくれた。「須崎が困ってんだろ」とか何とか言って。

 

「――だから、須崎さん。企画してくれる?」

「……あ」


 名前を呼ばれ、乃依はやっと我に返った。

 正面には、戸田の顔がある。

 そうだ。ここは彼の研究室で、十分ほど前に「話がある」と言われて来たのだった。

 停止しかけた思考の中で、辛うじて「わかりました」とだけ口を動かす。


「ありがとう。引っ越しの準備もあるから、日程的にあまり余裕がないんだけど、出来るだけOBなんかにも声をかけてくれるかな」

「はい」


 OB。

 つまりは学部時代の同期で、進学せずに就職した人とか、他大学へ行った人のことだ。県内にどのくらい残っているか分からないが、他県からでも来てくれる人がいるかもしれない。ただ、そのメンバーに関しては乃依には分からないので、厚東に訊くより他にないが。


「まあ、まずは高階君の予定を聞いて。その中で、集まれる人で集まろう。僕はだいたい空いてるから」


 戸田はカレンダーを見ながらそう言った。


「――東京、ですか」

「ん?」

「あ、いえ……急だなって」

「人事なんて、こんなものだよ。僕が学生の頃も――といっても二十年以上前のことだけど――こうして急に決まってたからね。都甲さんの時なんか本当に急で、送別会ができなくてね。実は、今でもそのときのことを言われたりするんだ」

「それ、聞いたことあります」

「都甲さんから?」

「はい」


 乃依が肯定すると、戸田は苦笑いして「そうやって学生に言うんだから」と言った。

 戸田は、都甲とは三つか四つか離れていると聞いたことがある。あまり仲が良かったという話は聞かないが、こうして職場まで一緒になってしまったのだから、かなり長い付き合いである。


「一時はどうなることかと思ったけど、高階君にとってはこれで良かったのかもしれないね」


 戸田は穏やかに微笑む。

 それは、これまでに色んな学生を送り出してきた彼だからこそ、言える台詞だった。


「じゃあ、あとはよろしく。大能さんも板倉さんも忙しいだろうから、佐合さんと二人でやることになるだろうけど」

「はい。大丈夫です」


 大能は、単位取得退学というかたちで大学を去ることになった。というのも、最後の最後で内定を得たからだった。

 彼女曰く、「もう大学に未練はない。さっさと就職して稼ぐ」とのことで、今日も研修のために東京に行っていた。今後も、引っ越しの準備で忙しくなるだろう。

 板倉もまた、就職に向けての準備を進めている。

 急に寂しくなった戸田研では、来年、遂に乃依が最年長となるのだ。


(なんか、信じられない)


 一年前、こうなることを少しでも想像しただろうか。

 乃依は緩慢な動きで廊下を歩く。

 暦の上では春だというのに、外は相変わらずの雪景色である。振袖袴姿の卒業生のためにも、学位授与式の日には吹雪かなければ良いんだけど、と窓の外を見て思う。

 高階が大学を出るまで、という猶予が、こんなにも短いものになるとは思っていなかった。一年あれば、何かが変わるかもしれないと思って安心していた自分が馬鹿だった。

 今更後悔したところで後の祭りなのだが、そう思わずにはいられない。


(送別会、かぁ)


 送別会までの日数は、決して多くはない。幹事の仕事を任された以上、やらなければいけないことは多いだろう。あっという間に当日を迎えてしまうことは目に見えた。

 時間がない。

 突如現実味を帯び始めたタイムリミットが、重く彼女にのしかかる。

 そんなことを考えながら階段を降りていった乃依は(気分的にエレベーターではなく階段を用いた)、段の先に見えた人影に目を止めた。


「あ……」


 佐合絢子だ。

 今日も今日とて清楚な装いで、今も優雅な動作でストールを肩に掛け直している。寒いからといって、分厚いコートの下にセーターを着込んで来ている乃依とは大違いだった。

 佐合の格好はこんな田舎大学では明らかに浮いているが、見慣れてしまった乃依には、そこだけが切り取られた藤谷女子大の一場面ように映った。


「須崎さん」


 乃依に気付いた佐合が、立ち止まって軽く会釈する。

 美しい所作に思わず身を固くした乃依だったが、佐合が去ろうとする直前に、「そういえば」と言って彼女の動きを止めた。


「ちょっと相談があるんだけど……今、大丈夫?」


 先ほど戸田に言われた件については、佐合と協力していかなくてはいけない。いまだに整理しきれない頭のまま、乃依は佐合に話をすることを決めた。


「大丈夫。特に用事はないから」

「えっと……じゃあ、あっちで」


 自動販売機が置かれている休憩スペース(といっても利用者はあまりいない)の方向を指差す。話題が話題なだけに、院生室や研究室では話ができない。常に関係者と遭遇する恐れがあるからだ。

 提案してから、あの場所は佐合にはミスマッチかもしれないと思ったが、佐合がさっそく向かおうとしたので、乃依は慌てて階段を駆け下りた。





 休憩スペースは部屋になっているわけではなく、しかも囲いすらないので、近くの扉が開くと外気が入ってくる。人通りが少ないこの時期ならばまだマシなのだが、それにしても話し合いに向くような場所ではなかった。

 そんな劣悪な環境の中、乃依の事務的な報告を聞いた佐合の第一声はといえば。


「須崎さん、大丈夫?」

「え?」


 思わぬ言葉に、乃依が素で驚きの声を上げる。

 何を心配されたのかが、全く分からない。「こういう話になってるんだって。へー」ぐらいのつもりで、間違っても悲壮感の漂う口調にはなっていなかったはずだ。……きっと。

 まさか知らないうちに心の声が漏れていたのだろうかと心配し始めた乃依は、恐る恐る佐合の表情を窺う。

 すると佐合は、珍しく目を泳がせて言いよどんだ。


「佐合さん……?」

「だって、その……」

「その?」


 ゆっくりと、佐合の言葉を繰り返す。続きを促すように。

 普段にない乃依の積極性に押されたのか、佐合は意を決したように頷いて――言った。


「高階さんとお付き合いしてるんでしょう?」


 彼女の問いに、乃依は一拍置いてその意味を考える。

 お付き合い、という何やら奥ゆかしさを感じさせる単語を、頭の中で二度ほど繰り返し、そして――。


「ぅええええええええ!?」


 休憩スペースに、乃依の、お世辞にも大学院生とは思えない素っ頓狂な声が響き渡った。

 声に出してから、あっと気付いて口を押さえるが、廊下は変わらず静かなままだ。授業期間でないことが幸いした。事務室にいる職員も、学生の奇声が聞こえた程度では、暖かい部屋からわざわざ出てくることはないだろう。


「まさか! そんな事実はないです!」

「そうなの?……じゃあ、高階さんの片思い?」

「いやいやいやいや! それ反対! 反対だから!」


 ぶんぶんと手を振って。

 大慌てて否定した乃依だったが、直後、佐合のまん丸になった目を見て己の失言に気が付いた。


「……………………あ」


 一度口にしてしまったことは、もう撤回できない。

 佐合も、そうそう都合よく忘れてくれることはないだろう。

 ということは、つまり――もはや取り返しがつかないわけで。


「佐合さん」

「はい」

「もう少し……時間ある?」


 ばつが悪そうに笑う乃依に、佐合はゆっくりと首を縦に振った。


「飲もう!」

「え?」


 言うや否や、立ち上がって自動販売機に直進。鞄から財布を取り出し、小銭を次々と投入する。

 重かった財布が軽くなった頃、乃依はやっとがま口を閉める。

 迷う間もなく押したボタンは、ホットココアだった。


 そんな彼女を見て、佐合は珍しく隙のある顔で呟いた。


「飲もうって……そういうこと?」




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