36.語らう暇人
久々に大学に現れた高階は、憑き物が落ちたような、すっきりとした表情をしていた。
「こんにちは、高階さん。お元気そうで何よりです」
志水周子が言うと、こういう演技がかった台詞も普通に聞こえる。
院生室では、既に高階無事との報せは厚東によってもたらされていた。とはいえ、精神的に参っているのでは、との懸念はいまだメンバーに残っている。だからこそ、誰が最初に声を掛けるのかという雰囲気になっていたのだが、そんな空気を全く気にせず我が道を進んだのが志水である。
さすが強いな、志水さん……という複数の視線を受けるも、やはり気にすることなく彼女は続ける。
「今年も全員、提出できましたよ」
「それは良かった。板倉さんも間に合ったんだね」
「締切の一時間前でしたけどね」
しかも、長時間コピー機を占領し、わあわあ騒ぎながら、周囲にヘルプを求めるという傍迷惑な事件を起こしながら。
ちなみに、それを手伝ったのは主に厚東である。
「そういえば、追いコンの出欠、まだじゃないっすか」
横から辻原が口を挟む。そろそろ大丈夫だろうと、判断したらしい。
「いや。メールで出したよ」
「出席ですか?」
「うん。まあ」
気が進まないといった風の先輩を見て、辻原は相変わらずだな、と思う。こういうところは、一生変わらないのかもしれない。
「今日は、戸田先生のところですか?」
「そう。挨拶と、あとは……連絡に」
「連絡?」
高階の言い方が引っ掛かったのだろう。志水は繰り返す。
すると、高階はやけに晴れ晴れとした顔で、きっぱりと言い放った。
「しばらく、旅に出ようと思って」
瞬間、大丈夫かこの人――という視線が、一斉に高階に注がれる。やっぱり声掛けちゃいけなかったんじゃなかろうか、という微妙な空気が漂うなか、それを破ったのはやはり志水だった。
「ご実家にでも帰られるんですか?」
「いやチカちゃん、それ旅って言わない」
志水の冗談に、思わず厚東も破顔する。
高階の実家は、大学から一日で行って帰れる距離にある。それを知っているからこその発言だ。
ちなみに、実家が近いからといって頻繁に帰省しているわけではなく、盆と年末年始にちょろっと帰る程度である。
「実家に帰るかどうかは決めてないけど。……そうだな、とりあえず本州を一周してこようかな」
「近っ!」
「狭っ!」
同時に叫んだのは、厚東と辻原である。蓬田も、「は?」と口を開けた。この三人はちゃんと反応する上、リアクションがいちいち面白い。
こういうところで、気の利いたリアクションができないのが戸田研の特徴で、乃依と佐合は成り行きを静かに見守っていた。
「せめて、日本一周くらいしましょうよ」
「いや、ここは普通に世界を見て回るとか」
しかしそんな提案にも、高階の返事は簡潔だった。
「海外は無理。日本語以外喋れないから」
「そういう問題かよ」
厚東が呆れたようにツッコむ。
受験を突破してこの大学に入学している時点で、英語の成績は悪くないはずだが、それも過去の話。今となっては、日に日に英単語を忘却していく高階である。しかも、完全に受験英語しかできないので、「話す」「聞く」といった日常会話が出来なかったりする。
現地の人に間違えられるくらい中国語に堪能な都甲研の連中に、この気持ちは分からないだろう、と高階は思う。
「一生日本から出られないじゃないっすか」
「いいよ。出ないから」
「今はそう思ってても、そのうち出る機会がありますよ」
「出ない。絶対、出ない」
「高階さん、自棄になってますね」
これ絶対、外国語コンプレックスだ。辻原はそう思った。
「にしても、過疎ってるなぁ」
研究室に雑誌の最新号を読みに来た厚東は、がらがらの部屋を見てそう呟く。
一か月前はぎゅうぎゅうの満員だった机には、一つの荷物も置かれていない。椅子もまた、そろそろ埃が溜まるんじゃないか、というほど使われた形跡がなかった。
「口頭試問も終わりましたしね」
一足先に雑誌の最新号をコピーしていた辻原は、最後のページをコピーし終えると、雑誌をコピー機に乗せたまま、場所を厚東に譲った。
「あいつら、こんなに休んで何やってんだよ。研究しろ!」
「いや、もうしないでしょう。就職決まってるんだから」
「あーくそ、就職かー。俺もしてー」
喜ばしいことに、卒業生と修了生は全員就職を決めていた。毎年一人くらいは決まらない者がいて、手放しで喜べないパターンが多いのだが、今年に限ってはその心配はなかった。
「どっかないですかね」
「ないだろ。取り敢えず、とっとと博論出すしかないな」
「それでも就職の見込みはないっていう」
「言うなよ」
二人は同時に溜息を吐いた。これ以上、この話題を続けるのは無理そうだ。
「それ考えると、高階さんのアレもあながち間違いじゃないような」
「あいつも馬鹿なことやらかしたと思ったけどなぁ。けどまあ、今までよりはマシになったか」
「自分の中ではかなり衝撃だったんですけど。まさか高階さんが、みたいな。思いませんか?」
厚東は「ああ」と言って頷く。
決して馬の合う相手ではなかったが、高階とは学部からの付き合いである。それなりに彼のことは知っているつもりでいた。しかしそんな厚東でも、今回の高階の選択は予想だにしなかったものだった。
「もし就職決まってたら、やっぱ提出されたんですかね」
「そりゃするだろ。そこまで馬鹿じゃない」
「ですね」
結局、そこなのだ。
話がループし始めたことに気付いた厚東は、「明日は我が身だな」と言って、人差し指でコピー機のスタートボタンを押した。
ああだこうだと言って研究室で油を売っていた二人だったが、厚東がふと時計を見上げた。
「お、そろそろ飯か」
「この時期なら、学食もがらがらでしょうね」
「待たなくていいのは楽だな」
研究室には、相変わらず学部生の姿はない。三年生くらいは卒論の準備をしたらどうかと思う二人だったが、彼らにそんな意識はないようだ。
これは苦労するぞ、と二人は思う。彼らを指導する立場にある自分達が。
「来年の四年は手強そうだな」
厚東の呟きに、深く深く頷く辻原だった。
「院生室、寄りますよね」
「ああ。財布持ってねーし」
誰もいない研究室の鍵を閉め、院生室へと戻る。人通りの少ない――というか全くない廊下は、いつも以上に冷え込んでいるように思えた。
院生室には、乃依と高階と蓬田、そして鞄を持ったままの志水がいた。
高階は無事に「旅」とやらから帰還したようで、平常運転に戻っている。心なしか、彼の周囲には爽やかな風が吹き抜けているように見えなくもない。
「学食行く奴ー」
部屋に戻って早々、厚東が声を発した。これは、だいたい彼の役割である。
パソコンに向かっていた蓬田はさっと作業を中断し、財布を手にした。常に一緒に行動している彼は、いちいち「はーい」などと言ったりしない。
「チカちゃんは?」
「私は家で食べるので」
自炊派の志水は、滅多に学食には行かない。行くとすれば、修羅場続きで自炊をする暇もない時くらいだ。
今は学期が終わっており、しかも博物館バイトも落ち着いているので、比較的ゆっくりできる時期である。毎日家でのんびり夕食を取ることが、彼女にとっての楽しみとなっていた。
「ちなみに今日の献立は?」
「寄せ鍋です」
「今から行っていい?」
「来ないで下さい」
厚東と志水がいつも通りの会話を繰り広げている、その横で。荷物をまとめる高階を、辻原が目ざとく見つけた。
「あれ? 高階さん、帰られるんですか?」
高階は、二人が院生室に戻ってくる直前にパソコンの電源を落としており、帰る準備を開始していた。たまたまタイミングが重なっただけで、別に一人だけフェードアウトしようとしたわけではないのだが、そう見えてしまうあたり、間の悪い人間である。
「うん。今日は朝から来てたからかな……なんだか疲れたし」
「何時に来られたんですか?」
「五時過ぎ」
うわぁ、という声が複数漏れる。夜型メンバーにとっての五時は、普通に「夜」だった。
高階が荷物を持ち上げたのと同じくらいに、乃依も立ち上がる。
「私も、ちょっと……」
「え、須崎さんも帰るの?」
ここ最近、乃依は彼らと夕食を共にすることが多かった。大学から姿を消した卒業生らと違い、彼女はほぼ毎日院生室に来ているからだ(これには自主的に勉強する意図もあるが、実際はしばらく席を空けると、隣人の厚東から何を言われるか分からないからである)。
それなのに今日は行かないといった乃依を、辻原は不思議そうな顔で見た。
「あ、はい。すみません……」
ついつい条件反射で頭を下げてしまう乃依だったが、そこに厚東の声が飛んだ。
「おい辻原!」
自分に対して言われたわけではないのに、びくっとする乃依。これまた条件反射であった。
「須崎だって予定があるんだよ。なあ?」
「え!? あ、はい……」
あれを予定と呼ぶかどうかはかなり怪しいが、自分にとっては、立派な「食事を断らなければならない理由」だ。
乃依は理由については明言せず、曖昧に笑って誤魔化した。
すると厚東は、「ほらな」と言って得意げに顎を上げた。
「どうしたんすか? 厚東さん」
「分かってないな。空気読めよ」
「空気? まあ、須崎さんが今日は行けないってのは分かりましたけど」
「そうじゃないんだよなぁ」
ますます得意げ――というか、いっそ嫌味なオーラを放ち始めた厚東を、志水は胡乱な目で見つめる。さっさと帰ろうと思っていたものの、思いがけず面白そうな方向に話が進み始めたので、しばし留まることに決めたのだ。
その視線に気付いた厚東は、しかしそこに込められた意味には全く気付かずに、志水に話しかけた。
「チカちゃんにも分からないか」
普段であれば確実にイラッときたであろう話し方にも、今の志水は寛大である。というのも、
「厚東さんが面白すぎて」
「は? 何で?」
優越感に浸ってる感じが何とも滑稽です、とはさすがに口にできない。志水は緩みそうになる頬を無理矢理引き締めながら、「いえ」とだけ返事した。
にしても、厚東はどこでその可能性に気が付いたのだろうか。彼の口ぶりからするに、確信している様子だし、決定的な証拠でも掴んだのだろうか。
「どした? チカちゃん」
「いえ。何でも」
でも、やっぱりそれはないような……と、大して進展のなさそうな二人を観察する志水だった。




