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35.災い転じて、な人たち



(たぶんこの辺のはず、だよね……)


 電柱に括りつけてある番地を頼りに、乃依は脳内にインプットした場所を探す。おおまかな位置は分かるのだが、何せこの辺りは単身者用のアパートが多い。似たような外観なので分かりにくいのだ。

 そしてその大半は学生向けで、安い、ぼろい、狭いと三拍子揃った昔ながらの住宅が立ち並んでいた。


(あ、ここだ。それで、ええとB棟だから――)


 築二十年は経っているであろう建物は、なんとなく傾斜があるように見える。そういえば、以前に高階が「諸般の事情で家賃が大幅に下がった」と言っていたが、これが原因だろうか。貧乏学生なら飛びつくに違いないボロ――いや、趣深いアパートは、「満室御礼」の張り紙の通り人気の物件のようだった。

 蓬田からもたらされた悪いイメージを払拭しつつ、インターホンを押そうとした乃依だったが、


(でもいきなり家に行くのって、迷惑な気が……)


 冷静になって考えてみれば。

 今まで一度も訪問したことのない家に、しかもさして親密でもない相手の家に――果たして、いきなり突撃できるだろうか。

 今は緊急事態なのだからとの言い分はあるものの、乃依にとっては躊躇されることだった。

 やっぱり先にアポを取っておくべきだったかも、などと自宅までやって来た理由を根本から否定するような発想に至った彼女は、その勢いのまま携帯電話を取り出した。

 厚東が掛けて繋がらなかった、という事実はすっかり忘れて。


(よし)


 登録してある電話番号を何度も確認し、通話ボタンを押す。何度かのコールを辛抱強く待っていると、突然それはぷつりと切れた。


「あ、」


 切れたのか、と思ったが違った。


「はい高階です」

「高階さんっ!?」


 携帯電話なのに、ちゃんと名乗るところが彼らしい。いつもより声に覇気が感じられない気はするが、少なくとも生存していることが分かって、乃依はとりあえずほっとした。


「須崎さん、だよね。何かあった?」

「あ、すみません! 須崎です。いえっ、その、最近大学にいらっしゃってないから、何かあったのかなって……」


 早口で捲し立てると、携帯電話越しに「ああ」という納得した声が聞こえた。

 本当ならばここで――高階の無事を確認できた時点で、電話を切るものだ。目的は果たされたわけだから。しかし乃依は何を思ったか、言わなくて良いことまで口にしてしまった。


「あの、それですみません! 家まで来てしまいました」

「……え? 今、何て言った?」

「すみません。今、家の前にいます」

「誰の?」

「高階さんの」


 玄関を見上げると、表札には「高階」の文字。間違い様がなく、彼の家である。

 帰ろうかな、無事だって分かったし――そう思っていると、突然目の前の扉が開いた。


「あっ」


 慌てて一歩下がる。

 玄関から顔を覗かせた高階は、普段よりラフな服装をしており、眼鏡をかけている。朝からずっと家にいたことを匂わせた。


「……えーと」

「はい」

「わざわざ、来てくれたんだ」

「いえ、その……はい」

「場所、知ってたっけ? 誰かに訊いた?」

「あ、いえ。住所録で……」

「そっか」


 そこで、会話が途切れる。

 久しぶりに会ったからといって、会話が弾むわけでもなく。かと言って、このまま「じゃあ、さようなら」というわけにもいかず。

 遠くからは、十八時を告げるサイレンが聞こえてくる。乃依の下宿先よりもずっと小さいサイレン音は、双方の家に距離があることを教えてくれる。

 音が完全に消えた時、高階がやっと口を開いた。


「こんなところで立ち話も何だし――」


 言いながら、「使い古された言い回しだな」と思う。まさか、自分が使用する羽目になるとは。


「上がってく?」





 部屋は思ったよりも窮屈感がなく、すっきりしていた。これはひとえに高階の整理整頓スキルの賜物だろう。長らく自宅の片づけをしていなかった乃依は、帰ったら早々になんとかしよう、と決意した。


「お邪魔します」


 靴を脱いで、そろりそろりと部屋に上がる。

 久々に踏む畳の感触が気持ち良い。昔ながらの旅館にでも来た気分だ、と乃依は緊張感のないことを思った。

 そして、


(こたつにみかん!)


 極めつけはこれだ。

 良い。凄く良い。

 乃依は目をきらきらさせながら、案内されたこたつに進んだ。

 自分の家も一人用のミニこたつを出動させているが、フローリングにはマッチしない。やはり畳でないと駄目だな、と改めて思う。


「緑茶でいい?」

「あ、はい。その、お構いなく」


 やっぱり緑茶なんだー、とほのぼのとした気持ちになる。期待を裏切らない展開が嬉しい。

 高階はやかんに水を入れると、コンロに火をつけた。


「いつも緑茶なんですか?」

「いや、普段は……何のお茶だろ。実家から送られてくるんだけど、考えたことないな」

「お家で栽培されてるんですか?」

「庭の方でね」


 元々、実家は茶の栽培に適した環境ではない。祖母が空きスペースを使って、趣味で育てている程度だ。


「って、そうだ!」


 突然の声に茶葉を入れる手を止め、こたつの方を見ると、後輩が姿勢を正してこちらを見ていた。


「高階さん、まだ博論提出されてないんですか!?」


 ああ、そういうことか、と。高階は、今になって彼女が家を訪ねてきた本当の理由を理解した。

 彼の中では、提出云々は既にケリがついている事柄だった。戸田とも話をしており、一週間前から既に提出の意志はなかった。だから、明日が最終日だということを、すっかり忘れていたのだ。


「してないよ。というか、今年はしない」


 そう言うと、予想通り後輩は不安そうな顔をした。


「そんな……」

「まあ、一応書けてはいるんだけど」

「じゃあ――」


 乃依の表情がぱっと明るくなる。しかし、高階は首を振って続けた。


「でも、やっぱり今年は出せない。本数揃えたっていうだけで全体の纏まりがないし、何より結論がありきたり過ぎて面白くない。自分で書いててそう思うんだから、他人にどう思われるかなんてお察しだよね」


 後輩は口を噤んだままだ。何と言って良いのか分からないのだろう。だから、高階は続けて話した。


「本当は、戸田先生には出せって言われてたから、出せば学位は取得できるんじゃないかと思う。けど」


 そこで一旦言葉を切り、火を止める。

 ゆっくりとやかんを傾け、湯呑と急須に注ぐ。部屋の温度が心なしか上がったようだが、それが湯の所為かどうかは分からなかった。


「ここで、これまでと同じように無難な選択ばかりしてたら、自分の将来にとって良くない気がするんだ。出してしまったら、たぶん後悔すると思う。直ぐにではないかもしれないけど……将来的には、きっと」


 湯呑を傾け、中に入れていた湯を捨てる。

 良い感じに温まっている。


「とは言っても、賢い選択だとは思えないよね。自分でもそう思うし、戸田先生にも散々言われた」


 その時のことを思い出したのか、高階は可笑しそうに笑った。


「いいんだよ。どうせ就職先も決まってなかったし」


 もし就職が決まっていたら、こんな結論には至らなかっただろう。だとすると、昨今の就職難も悪いことばかりではないのかもしれない。

 今となっては、そうとまで考えるようになっていた。若干ネガティブ思考であることを自覚している高階は、こうした自分自身の変化に驚いていたりもする。


(まあ特別研究員を外されるのは、かなり痛いけど)


 正直に言えば、その部分は惜しい。せっかく勝ち取ったポジションをみすみす手放すのは、やはり勇気がいることだった。


「すみません。その……全然知らなくて」

「いいよ、全然。言ってなかったんだから」


 二つ分の湯呑をこたつテーブルに置く。狭い部屋に湯気が立ち昇った。

 神妙な顔をする乃依の前に、高階は湯呑を進める。

 この深刻になりかけた雰囲気をどうしようか。そう考えていたところで、その場には似合わない軽快な音が響いた。


「誰だろう」


 高階は首を傾げながら玄関に向かう。

 荷物は頼んでいないし、この時間に勧誘の類は来ないだろう。まさか、この家を訪ねてくるような物好きがいるとは思えないのだが。

 大して警戒もせず(そもそも、この家にはモニター付きインターホンは設置されていない)、玄関の扉を開ける。ご近所さんかな、と思いながら開けたその先には――。


「……厚東?」


 高階は思わず自分の目を疑う。

 最もいるはずのない人物が、そこにいた。

 学部時代に一度だけ二人で飲みに行ったことがあるぐらいの付き合いしかない彼が、相変わらずの威圧系の顔と態度で、高階家の玄関を塞いでいた。


「なんだ。生きてんじゃねーか」

「ああ。一応は」

「だったら電話くらい出ろよ」

「電話?」


 何のことだか完全に分かっていないらしい高階を見た厚東は、「俺がかけた時だよ」と、早速イライラした様子で答えた。

 いきなりやって来て、なんでそんなに不機嫌なんだ? と思ったが、そんなことを訊いたところで発展的な会話に繫がるとも思えない。高階は、厚東の用件を済ませることを優先させた。


「いつ?」

「ついさっき」

「さっき……」


 考えるような仕草をする高階。

 それに待ちきれなくなったのか、厚東は勝手に玄関に入って扉を閉めた。ちゃんと近隣の迷惑を考えているあたり、良識のある人だ。


「さっきだよ、さっき」

「知らない番号からかかってはきたけど……」


 記憶を辿るように、部屋の中に目を向ける高階。

 そんな彼の動きを辿るように部屋の奥を覗き込んだ厚東は、こたつに入ってこちらの様子を窺っている人物に気が付いた。


「…………ん?」


 一瞬、我が目を疑った厚東である。

 その人物は、彼のよく知っている後輩のように見えた。見間違いでなければ。


「須崎ぃ!?」

「はいっ!?」


 互いの素っ頓狂な声は、狭い部屋にガンガンに響いた。

 玄関の扉が閉まっていて正解だったな、と高階は冷静に思う。ただし、このアパートは壁が薄いので、確実に隣家には聞こえているだろうが。


「なんで須崎が………………いや、そっか」


 ぶつぶつ呟きながら、最終的には納得したように頷く。

 が、直ぐに気を取り直したように、がばっと顔を上げた。


「――って、はぁ!? マジか!」

「え、あの」

「そういうことなら、先に言えよ」


 どちらに対しての言葉だったのか。厚東は機嫌悪そうに言うと、近くにいた高階を軽く睨んだ。


「須崎。悪い、直ぐ帰るから」


 高階から目を逸らすと、いつになく真剣に謝罪をする厚東。乃依はわけが分からず、「い、いえいえ」としきりに繰り返した。

 その間に、高階は奥から携帯電話を持って来た。いくつかボタンを押した後、それらしき着信履歴を見て、「これだ」と口にする。


「んー?」


 厚東が横から覗き込む。と、すぐさま「俺のだよ!」と叫んだ。


「え、これ厚東の?」

「そーだよ、俺の! てか、登録してなかったのかよ」


 厚東は信じられないものでも見たかのような表情をした。

 高階は「ごめん」と小さく謝ってから、携帯電話を操作し始めた。今、まさに登録しているといった動作だ。


「ま、別にいいけど」


 大して気にしていないような口調で言うと、厚東は玄関に置かれている靴に気をつけながら、一歩下がった。


「じゃ、帰るわ」


 顔を見たらすぐに帰る予定だったため、長居は無用だ。しかもこの状況で居座るなど、空気が読めないにもほどがある。高階もそれを分かっているから、「上がっていけば?」なんてことは言わない。

 玄関の扉を開ける直前、厚東は振り返って「なあ」と言った。


「この家、傾いてないか?」

「ああ、傾いてるよ」


 高階は事もなげに言う。


「だから、家賃一万九千円。安いだろう?」


 厚東はしばし沈黙した後、何も言わずに帰っていった。




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