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34.消えた先輩



 博論の提出期間は五日間取ってある。決められた日のいずれかに受理されれば、まずは第一段階クリアというわけだ。そこからは学位審査会に回されて、審査にパスすれば学位授与となる。

 漏れ聞くところによると、高階の学位授与はほぼ確定しているらしいから(志水情報による)、提出すれば良いだけの話だった。

 しかし、


「高階が来てない?」


 その日、乃依が院生室の扉を開けようとすると、厚東のいつにも増して大きな声が廊下にまで漏れ聞こえてきた。

 一瞬動きが止まるが、このまま扉の前で固まるわけにもいかない。聞かれて困るような内容であれば話を止めるだろうし、とりあえず中に入ろう――そう考えて、勢いよくドアノブを持つ。


「こんにちは」


 いつも通り挨拶すると、中にいた厚東、辻原、志水、蓬田、佐合が一斉にこちらを見た。計五人分の視線はプレッシャーを感じさせるもので、乃依は思わず一歩後退した。


「須崎さんが怖がってるじゃないですか」

「え、俺の所為?」

「他に誰の所為だって言うんです?」

「チカちゃ――ごめん嘘」


 ふっと和らいだ空気に、乃依はほっと胸を撫で下ろした。どうやら、さほど不味い現場に足を踏み入れてしまったわけでもないようだ。


「ごめんね。高階さんかと思ったから」

「あ……。すみません、違って……」

「謝らなくていいよ、全然」


 志水にそう言われると、なんだか全てが許されたような気になってくる。恐ろしい存在だ。


「で、話元に戻すけど。初日に出しに来たんじゃないのかよ」

「今日まで、博論の受理はありませんよ。うちの研究科で本年度の博論提出予定者は三人ですけど、まだ三人とも提出がないみたいですね」


 どこで仕入れて来たんだその情報!――などと言う者は、もはや存在しない。志水周子故に、というところだろう。


 話の流れから、乃依は話題の中心が高階の博論提出に関することであると知った。

 高階とは、クリスマスイブの日に会って以降、一度も顔を合わせていない。ついでに連絡も取っていないので、彼の情報は相変わらず「なし」の状態にあった。忙しい時期だから、と遠慮して、メール一つ送ることも避けていたのだ。

 となると、当然高階に関する情報は、喉から手が出るほど欲しいわけで――。

 しかし、色々と訊きたい欲求を抑え、志水の言葉を待った。たった今やって来たばかりの新参者が口を挟める雰囲気ではない。


「けど、締め切りは明日だろ?」

「明日ですね」

「何で来てないんだよ」

「知りませんよ、そこまでは」


 もう日没が近い。これからどんなに早く走ってきても、今日の提出には間に合わないだろう。つまり、チャンスは明日一日しかないことになる。

 厚東は大きく溜息を吐いた。


「まさかぶっ倒れてるんじゃないだろうな」


 何気なく口に出されたその言葉に、誰もが「まさか」と思った。

 しかし、冗談で言ったわけでもなさそうな厚東の表情を見ているうちに、「いやでも、万が一でも」という悪い予感が芽生えていく。

 全員が互いに顔を見合わせ始めたのと、厚東が立ち上がったのはほぼ同時だった。


「電話してみるか」


 厚東は自分の席に戻り、すっかり見慣れた登山用リュックを漁る。決まった場所に入れていないのだろう。何度かリュックの中で手をかき回した後、やっと目的のものを掴んだ。


「高階、高階……っと」


 ボタンを連打しながら、その名を探す。彼の手には小さすぎる携帯電話を荒っぽく操作し、やがて耳に電話を当てた。

 数秒ほど経って、厚東は耳からそれを離した。


「出ねーし」


 ぱたんと音を立てて携帯電話を折りたたむと、今度はポケットに突っ込む。折り返し電話がかかってきた時に、気付きやすくするためである。


「着信拒否はされてないんですよね」

「チカちゃん酷っ!」


 志水とて、着信拒否にするほど高階が厚東を嫌っていないのはわかっている。というか、彼がそこまで面倒なことをするとは思えない(登録をしていない可能性は大いにあるが)。

 厚東は、壊れるのではないかというくらいに背もたれに寄り掛かり、「あーっ」と言って天井を見上げた。

 電話に出ないとなると、いよいよその身の心配がされる。家にいるならば、よほどのことがない限り、電話は取れるはずだ。それさえも叶わないとなると――。


「実は俺……」


 沈黙が訪れた部屋で、突如言葉を発したのは蓬田だった。

 今度は全員の視線が蓬田に集まるが、彼は誰とも目を合わせないように俯き加減でぼそぼそと話し始めた。


「一週間前に、高階さん見たんですよ。大学の構内で。声掛けようかと思ったんですけど、ちょっとこう、暗かったっていうか……なんか話しかけづらくて、そのまま別れたんですけど。今思えば、相当思い詰めてる感じだったし、精神的に参ってたんだと思います」


 そこで一旦言葉を区切り、一息吐いてから静かに続けた。


「俺が、あの時声を掛けてれば――」

「やめてよ、そういうこと言うの!」


 いっそう不吉そうな顔になった蓬田を止めたのは、乃依だった。

 彼女の大きな声に、蓬田は顔を上げて一瞬止まり、「すまん」と素直に謝った。不謹慎が過ぎることを自覚したのだろう。


「とにかく、何とかして連絡取らないと」


 辻原が厚東を見る。

 厚東は志水を見た。


「チカちゃん、何とかならないか?」

「なりません」

「例えば、チカちゃんの思念を高階に送るとか」

「私を何だと思ってるんですか」


 志水はそう言うが、辻原と蓬田は、厚東の提案に対して密かに「それイケるかも」と思った。彼女であれば、それくらいのことはやってのけそうである。


「チカちゃんの実力をもってすれば」

「だから、無理です」

「またまたご謙遜を」

「意味わかりません」


 この一大事に緊張感のない会話を繰り広げる都甲研の面々を余所に、乃依は時計を確認した。

 こうしている間にも、刻一刻と提出期限は迫っている。今日のうちに連絡がつかないとなると、最悪に事態が予測された。

 都甲研の四人は駄目だ。志水は何か考えがあるのかもしれないが、他の三人は当てにできない。自分が行動しなくては。

 乃依は、先ほどから考えていたことを実行に移すことを決めた。


「あの、私……ちょっと失礼します!」


 それだけ言って、たった来た道を引き返す。

 目的地は研究室。あそこには、住所録があるはずだ。





「どうしましょう……」


 佐合が口元に手を当てる。

 このまま、部屋でああだこうだと言っていても埒が明かない。そろそろ建設的なプランが必要だった。


「戸田さんに訊いてみるか」


 厚東が時計を見て立ち上がる。

 戸田の研究室は、同じ階にある。この時間帯は授業が入っていないので、部屋にいるはずだ。指導教員なら何か知っているかもしれないし、そうでなかったとしでも状況を知る必要はある。

 とその時、まるでタイミングを見計らったかのように、院生室の扉が開かれた。冷たい外気を背中に感じた佐合が振り返ると、そこには戸田が立っていた。


「戸田先生!」


 辻原が立ち上がると、戸田は全ての状況を把握しているとでも言いたげな表情で、「高階君のことなら、心配いらないよ」と言った。


「先週、電話で全部話したから」


 戸田は、いつもに増して落ち着いているように見えた。

 彼は、都甲とは違って穏やかな気性の持ち主である。だからなのか、戸田研に集まる学生もまた、彼と同じようなタイプの人間が多かった。高階然り、乃依然り。

 そんな戸田だが、弟子の一大事にここまでのんびり構えているはずはない。ということは、何も問題は起こっていないのだ。


「なんだよ。人騒がせな奴だな。あいつ、たまにこういう非常識なことするんだよなぁ」

「まあ、何事もなかったんだからいいじゃないっすか」


 辻原は、さっそく文句を口にする先輩を宥める。何もないと分かった瞬間から、これだ。


「高階さんらしいと言えば、らしいですけど」


 この場に乃依がいたら、「蓬田君にだけは、高階さんの『らしさ』なんて語ってほしくない!」と憤慨するだろうが、そんな彼女は今、院生室にはいない。


「本当に、良かったです」


 佐合はもはや涙目だ。


 当の本人は不在だが、何はともあれ一件落着。

 そう、誰もが安心しかけた矢先のことだった。


「戸田先生」


 一人だけ、別の意味で戸田の言葉を解釈している人物がいた。


「何?」


 志水は、厚東らの誤解を敢えて解こうとしない戸田を見つめる。彼は、高階に関する情報の十分の一すらも、自分たちに与えていない。

 おそらく、隠しているという意識すらないのだろう。訊かれなかったから答えなかっただけ――そういうことなのだ。

 だから、志水周子は確認する。他のメンバーにも真実を教えるために。


「ということは、高階さんは提出されないんですね?」


 案の定、厚東らは緩んだ表情をさっと変えた。彼女は、今何と言ったのか。

 

「それって――」


 冗談だよな、とは続けられなかった。

 志水が、この場面でそれを言う意味。

 戸田の、「ああ、やっぱりこの子は分かってるんだな」という表情。

 それらが全てを明らかにしていると気が付いたからだ。


「マジか……」


 厚東は呻くように呟いて、戸田の方を見た。結論は既に出ているが、決定的な戸田の一言を待つ。

 戸田は一拍ほど置いてから、普段と変わらない表情で頷き、


「そうだよ」


 と言った。



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