33.変えた者、変えられた者
店を出ると、ラッキーなことに雪が弱まっていた。地面を見ても、凍結している気配すらない。これならば自転車を飛ばして帰れそうだと、乃依は判断する。
キャンパス内はいよいよ人がいなくなって、今日という日の特別さを表しているようである。見上げた研究棟の窓も、いつもより灯りが消えている所が多い。
「どの辺に住んでるんだっけ?」
「マルモト、分かりますか? あの近くです」
「ああ。あの辺り、住んでる人多いよね」
乃依が近所のスーパー(学生御用達の格安スーパーである)の名を挙げると、高階はふんふんと頷いた。
駐輪場までは距離がある。少しのでも多くの時間を高階と過ごしたい乃依にとっては、これまた非常にラッキーなことだった。
「蓬田家の近くなんですよ」
「そうなんだ」
「だから、しょっちゅう近所で会うんです。休日でも」
嫌そうな口ぶりに、高階も「確かにそれは嫌だな」と思う。休日に買い物をしている姿ほど、知り合いに見られたくないものはない。
「蓬田君は、須崎さんの家を知ってるの?」
「あ、はい。遅くなったときは、送ってくれるので」
と言っても、彼が自主的にそうしてくれるわけではなく、指導教員に命じられてのことなのだが。
すると高階は「え?」と呟いた後、立ち止まって乃依の顔をまじまじと見た。
「蓬田君って、有馬さんと付き合ってるんじゃなかったっけ」
「どうして、それをご存知なんですか!?」
二人は、研究室のメンバーには極力秘密にしているはずだ。なんでも、バレたら面倒だからだとか。
確かに事あるごとにネタにはされるだろうが(他に楽しみがないため)、だからといって小学生みたいにからかったりはしないだろう。いっそ周知の事実にしてしまえばいいのに、と乃依は当初から思っていた。
しかし、終ぞ二人がそれを実行することはなかった。有馬が卒業した今でも、研究室でこのことを打ち明けられているのは乃依しかいない。
――そのはずだったのに。なぜ。
その疑問に、高階はいともあっさりと答えた。
「志水さんから聞いたから」
(志水さぁぁぁぁぁん!?)
何で知ってるんですか、とか。
いつから知ってたんですか、とか。
聞きたいことは色々あるが、恐るべきはその情報収集能力である。そしてその情報の正確さときたら。改めて彼女に隠し事はできないな、と乃依は思った。
「あの、それ、研究室のみんなには内緒みたいなので、その……」
「ああ、それは大丈夫。吹聴する気はないから」
乃依はほっとした。高階なら口が堅そうだし、信用できる。
「ちなみに、蓬田君が私を送ってくれるときは、一緒に有馬さんもいますよ。最後に送ってくれたのは、四年生の時の追い出しコンパの時ですし、院に入ってからは一人で帰ってます」
彼が最初に送ってくれたのは、二年生の新歓――つまり研究室の所属が決まった時である。あの頃は、まだ二人は付き合っていなかったが、今思えばそういう雰囲気はあったような気がする。三人で帰っていても、時折自分だけのけ者にされているような、微妙な疎外感があった。有馬は気を遣って乃依にも話を振ってくれてはいたが、蓬田にそんな配慮ができるはずもない。
「そっか……そうだよね。驚いた。聞いてた相手と変わってたから」
高階は納得したように頷いた。
それにしても、と乃依は思う。自分と蓬田の組み合わせなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないだろうに。いままでに、それらしい雰囲気が欠片でもあっただろうか。
「蓬田君とだけは、絶対にないですよ」
「え、何で?」
「向こうは私のことなんか眼中にないです。馬鹿にされてますから。常に」
「そうかな。そうは見えないけど」
本気で首を傾げはじめる高階。しかも、「結構、仲良いように見えるよ」と、さらにあり得ないことまで言う始末。
前から薄々感じ取っていたことだが、高階は人間関係のあれこれには鈍いのかもしれない。乃依はそう思った。
「卒論提出の時、私、結構早くに提出したんですよ」
「そういえばそうだったね」
「あ、その節はお世話になりました」
乃依はぺこりと頭を下げる。
やけに昔のことのように感じられたが、実際はまだ一年も経っていない。進学してからの日々が濃すぎる所為で、一年以上の経験を積んだ気になっているのだろう。
「それで?」
「あ、はい。それでその後で、蓬田君に『妥協するとか、考えられない』って言われたんですよ」
「最後まで粘れ、ってことか」
「そうです。言いたいことは分からなくもないんですけど……」
しかし、である。
その時のことを思い出すと、乃依は手に力が入るのを抑えられなかった。
「それ言われたの、学位授与式の時ですよ! そんな時に言いますか、普通!?」
「あー……普通は、まあ言わないよね。――彼なら言いそうだけど」
厚東の悪いところをそのまま受け継いだような後輩を思い浮かべる。そういえば、厚東も数年前に同じようなことをしていたな、と高階は思った。やはりあの二人はよく似ている。
「でも、今なら少しはわかる気がします」
乃依は歩調を緩めた。
駐輪場はもう目の前だ。真っ暗なロータリーの先に、電灯がついている場所がある。自転車はいつにもなく疎らで、乃依は遠目にも自分の自転車を確認することができた。
「言われたことが?」
乃依は首を縦に振る。
「妥協するなっていう部分は、です。提出日は、初日に出して安心したい派なので、たぶん修論も初日に出すと思うんですけど」
「うん。僕もそれ。卒論も修論も初日に出した」
「ですよね」
どちらからともなく、控えめに笑う。そういう性格なのだ。
「妥協、か」
高階が呟く。
ロータリーを過ぎると、駐輪場が間近に迫ってきた。
明るくなった足元の段差を、乃依はひょいと飛び上がる。湿ったままの土が軟らかくスニーカーに食い込んだ。
「それを人に押し付けるのは駄目だと思うんですけど、蓬田君はそれぐらい真剣にやってたんですよね、きっと。それに比べて……あの時の自分はまだまだだったな、って思います」
駐輪場の電灯が近付くと、視界は一気に明るくなった。乃依は「あれです」と言って自分の自転車を指差した。
愛車は大学に入ったときに、こちらのサイクルショップで購入したもので、かれこれ五年近くの付き合いになる。ほぼ毎日乗り回しているが、汚れが目立たない色のせいか、ぱっと見た感じではわりと綺麗だ。
「じゃあ――」
ここで、と言いかけて乃依が振り返ると、高階は少し離れたところで立ち止まっていた。
顔はこちらを向いていない。どこを見ているんだろうかと、彼の視線を追っていくと、ちょうど文学部棟の四階――地理学研究室の辺りで止まっていた。
(これって、待ってもらってるのかな)
だとしたら、嬉しい。物凄く。
乃依は敢えて何も言わず、さっと自転車の鍵を回した。
自転車を押して高階の元までいくと、彼は文学部棟からは視線を外して言った。
「みんな、頑張ってるね」
「四年生は、結構来てると思います」
ついでに都甲研の面々も来ているが、それは言わないでおく。
「懐かしいな」
耳に届いたその声は、ただ過去を思い返しているだけのものでないと、乃依には分かった。上手く表現できないが、もっと多くの、複雑な何かを含んでいるような気がしたのだ。
「今思えば、M2の時が一番楽しかった」
何と言ったら良いか分からなくて黙っていると、高階は続けた。
そういえば、高階と話をするのは久しぶりだ。少し前までは、こんな風に会話できるなんて考えられなかったことだが、今では当たり前になっている。
学部生の頃、乃依にとって高階はどこか近付き難い存在だった。率直に言うと、怖いというイメージすらあった。そんなことはない、親切で優しい先輩だと分かっていても、彼の前に立つと、緊張して上手く喋れなかった記憶がある。
「どうしてですか?」
けれど、今は違う。何が変わったのか、いつ変わったのか――良くは分からないけれど、こうして肩を並べて歩いて、きちんと「会話」できている自分がいる。
そして、乃依には漠然とした予感があった。
今、核心に近いものに触れようとしているのではないかという予感だ。
だから、彼女は問いかける。
「こっちから行かないと駄目だよ」
――その言葉通りに。
高階は「どうしてだろうね」と言った後で、「一番多くのことを吸収できた時だったから、かな」と続けた。
「とにかく充実してた。毎日が。月並みな言い方だけど、研究が楽しくて仕方がなかった」
「今は、楽しくないんですか?」
「どうだろう。好きで続けてるのは、確か。ただ……今はそれだけじゃないから」
彼の言わんとすることは、ぼんやりとは理解できる。きっと本質的なものは理解できていないのだろうが、大能や厚東と接していると、自分にはない彼らの苦労を感じることがあった。
「でも、これからも続けられるんですよね?」
それは、乃依の期待であり願望だ。
彼がこの先、研究とは全く関係ない職業についたとしても、納得はできるし祝福もできるだろう。けれど、出来れば彼には自身の研究を続けてほしい。
それが、どれほど困難なことかを知っていても。
「続けるなら――かな」
乃依の問いかけからたっぷり時間を取った高階は、吐き出すようにそう言った。
「え?」
意味が分からなくて乃依は聞き返すが、高階はそれ以上言う気はないようだった。
「須崎さんは来年だね」
思いがけず重くなった空気を払拭するかのように、高階は声のトーンを上げた。
「あ、はい。もう来年……なんですよね」
一年ってあっという間だ、と思う。修論こそは後悔しないぞと思っていたはずなのだが、この一年を無駄なものにしなかったと言い切れる自信はない。
「進んでる?」
「え! あ、はい。…………そこそこ」
「詰まってるんだったら、早めに誰かに相談した方がいいよ。何だったら、僕のところに来てもいいし」
「あ……ありがとうございます」
忙しい時期なのに、そんなことを言ってくれるなんて、なんて親切な先輩なんだ。乃依はじーんときた。こういう時に、人は人の優しさに感謝するのだろう。
「須崎さん?」
「え! あ、はい! 何でもないです!」
不審そうな眼差しを感じ、乃依は左手をぶんぶんと振る。右手は自転車を押さえたままだ。
それから、どちらからともなく歩き始めた。示し合わせたようなその動きが、些細なことながら、乃依には嬉しかった。
結局、大学を出るまで一緒に帰った。と言っても高階の家は大学を出て左、乃依は真っ直ぐなので、別れはあっという間にやって来たが。
別れ際、乃依はもう一度高階の呟きを聞いた。
――妥協、か。
それは、深く、自分に言い聞かせるようなもののように聞こえた。
この時、乃依の目には高階が何かを決意したように映ったが、それが何かを知ることはできなかった。




