30.救援を求める後輩
都甲の演習が終わってすぐ、部屋を出ようとした乃依は厚東に呼び止められた。
「須崎、どうした!?」
「え、何がですか?」
怪訝そうな顔な顔で――しかしやや興奮気味な厚東は、早口で捲し立てる。
「さっきの演習。やけに鋭い発言してたじゃないか。しかも、文献の引用までして」
「え……と……そうですか?」
「ああ。前とえらい違いだ。――まあ、前が酷過ぎたのか」
余計なひと言とともに笑う厚東に、乃依は低い声で「すみません……」と言った。
彼が言うように、以前が酷くレベルが低かったのは事実だ。今、こうしてまともなレベルになったからこそ、それがはっきりとわかった。
「意外とやってんだな」
「ええと……少しは」
相変わらず曖昧な返答しかできない乃依を馬鹿にすることなく、厚東は上機嫌で去っていった。
(今の、褒められたのかな)
厚東は喜怒哀楽のはっきりした性格で、誰の目にも明らかな態度で自身の感情を表す。さきほどの言葉と態度を見る限り、お世辞ではなく、本当に乃依を評価している風だった。
彼のことは苦手だが、こうして褒められるとやはり嬉しい。自分でも頑張ったかなと思う部分が、成果となって現れたのだから猶更だ。
(本音を言えば、高階さんに言って欲しかったんだけど……)
しかしそれも、今となっては叶わぬ夢である。
乃依は己のタイミングの悪さを呪った。
自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが、まさか後期開始のガイダンスにも顔を出さないとは思わなかったし、ちょっと研究室のメンバーと会わなかっただけで、彼に関する情報が途絶えるとは思わなかった。
「戸田研も大変だね」
荷物を取りに院生室に戻った乃依は、荷物を持ったまま授業教室に行ったにもかかわらず、なぜか院生室に戻ってきた(というかやって来た)志水に話しかけられた。
院生室では、今月の中間報告に向けての指導が各所で行われている。マスターだけでなく、四年生も詰めかけており、辻原と蓬田がその相手をしていた。
「大能さんも高階さんもいないでしょ。戸田先生は板倉さんに付きっきりだし」
「そうなんです。四年生の指導をどうしようかって……」
「須崎さんは全然関わってないんだっけ」
「あ、ええと……たまに、質問されることはあるんですけど」
しかし、十分な指導ができているとは言い難い。せいぜい文献の探し方だとか、レジュメの作り方だとか、そういった基本中の基本くらいしか教えられない。
「せめて中間報告くらいは面倒見てくれてもいいのにね。――あ、須崎さんになら任せられるって思われてるのか」
「それはないです!」
乃依はぶんぶんと両手を振る。
「けど、否が応でもそういう状況にはなるんじゃない?」
「やっぱり、そうですか……?」
「それが嫌なら、あの人を無理矢理にでも引っ張り出すしかないよ」
あの人、というのは大能のことではないだろう。引っ張り出すという行為が、具体的にどういうアクションなのか想像がつかなかったが、乃依には無理な話だった。
ふと、志水には出来るのだろうかと思って尋ねたが、彼女の答えは、
「私はやらないよ」
だった。
曰く、ゼミが違うのだから、口出しはできないとのこと。
「どうでもいいことなら引っ張り出せるけど」
「どうでもいいこと、ですか?」
「うん。前に、カードキー忘れて研究室に入れなかった時、家に帰るのが面倒だったから高階さんに電話したら、すぐ来てくれたよ。――朝早かったけど」
それってパシリじゃないですかー! と、聞いた乃依は驚く。先輩を使うなんて芸当、志水周子でなければ無理だろう。
「だって、高階さんが一番大学から家近いし」
確かに、彼は大学近辺に下宿しており、徒歩通学だと聞いたことがあったが……それにしても。
「あとは、学校で私のパソコンが壊れたときも、頼んだら、来て直してくれたよ」
「ええ!?」
「だって、高階さんが一番機械に強いでしょ。この中で」
確かに、彼は機械全般には強く、研究室で機械に異常が生じたときには、必ずと言って良いほど声が掛かるが……それにしても。
「須崎さんも、何かあったら頼んでみたらいいよ」
さらりと言う志水の横で、乃依は「いや無理ですから!」と思った。
結局、戸田研の卒論指導は、乃依を中心に行われることになった。
戸田には無理だと何度も言ったのだが、マスターになったのだから、後輩の面倒をみるのは義務だということをやんわりと言われ、しぶしぶこれに従った。その時に、蓬田を引き合いに出されたのだから、言い返す言葉もない。彼が自分の時間を割いて、後輩の指導にあたっていることは、誰もが知っていることだからだ。
結論から言えば、まあなんとかなった方なのではないか、というのが乃依の評価だ。
指導と言うには、あまりにもお粗末な内容だったが、後輩と一緒にバタバタやっているうちに、解決の糸口を見つけることが多かった。口を開けばロクなことを言わない蓬田までもが、「一応『先輩』やってんだな」と言ってきたということは、最低限の務めを果たすことができたのかもしれない。とりあえず、目立った混乱はなく中間報告を終えることができたのは何よりだった。
しかし、そうは言っても、卒論を提出できなければ意味がない。
卒論の提出日は修論のそれよりも早いので、だいたい年末が執筆のピークになる。短い冬休みに突入するや否や、研究室は四年生に占拠されるのだ。
(懐かしいなー)
パソコンと睨めっこしている四年生の姿は、一年前の自分を思い起こさせる。
乃依の場合は、必ずしも研究室で作業していたわけではないが、こうして同期と肩を並べて取り組んでいた記憶は確かにあった(その中に蓬田が含まれていたのは、この際置いておく)。
(邪魔しちゃ、悪いか)
文献を探しに研究室に来ていた乃依は、その場で読もうと思っていたものを抱えて部屋を去る。空きスペースはないし、通路に立って読むことさえも邪魔になりそうな気がしたからだ。
しかし、避難先である院生室に入った瞬間、そこにも自分の居場所がないことが知れた。
「悪い、須崎。ここ借りてる」
「あ…………はい」
席替えなんてシステムが存在しない、この研究室。いまだに乃依の席は厚東の隣なわけだが、そこには萎縮しきった四年生が座っていた。
それはそうだろう、と乃依は彼の心境を察する。厚東にあんな風に睨まれていたら、たいていの人間はああなる。
「すぐ使いたいか?」
「あ、いえ……別の場所で大丈夫です」
本当は自分のパソコンを使用したかったが、この状況で願望を主張するほど考えなしではない。
(まあUSBあるし、いっか)
ノートパソコンを持ち出すことも諦めた乃依は、仕方なく情報処理室へと向かった。
情報処理室には、文学部の誰でも使用することができるパソコンが置いてある。いつもは自分の机を持たない学部生で席が埋まっているのだが、なぜか今日はガラガラだった。
誰もいないことをこれ幸いと、悠々自適にパソコンを使ってやろうとした乃依だったが、十分も経たないうちに、それは後悔へと変わっていった。
(動かない……!)
これは、いわゆるフリーズという現象ではないだろうか。
クリックしても、適当にキーを押しても、何の反応も示さないパソコンを前に、乃依もまたフリーズする。
(しかも、変なの出てるし!)
正確には「変なの」ではなく、ちゃんとした英文なのだが、今の彼女に翻訳をする余裕などない。
(え……と、これを押せばいいの?)
よく分からないままに、画面に出ている唯一判読可能な文字――表示されているキーを人差し指で押す。
しかし、今度は別の英文オンリーな画面に切り替わるだけで、彼女のよく知る画面は表示されなかった。
(壊した!? 私、壊した!?)
不味い。これは不味い。
なんといっても、これは文学部の共用パソコンなのだ。壊したとあっては、最悪弁償しなければならないだろう。
(どうしよ、これ……)
マウスを持つ手は、既に湿っている。
これ以上触らない方が良いのか、それともトラブルの解消を図った方が良いのか――思考するも、どちらにしたって成功の見込みがなさそうだということに気付き、その場で再びフリーズする乃依。
今日に限って、部屋に誰もいないというツキの悪さが恨まれる。
(あーもう! こういう時、機械に強かったら、ぱぱっと直せるのに!)
――例えば、高階のように。
(あ、)
フラッシュバックする、いつぞやかの会話。
そういえば、機械に強い人が身近にいたではないか。
瞬時に様々なことが脳裏をかすめたが、彼女が迷ったのはほんの一瞬だった。
(ああもうっ! 仕方ないっ!)
こうなったら自棄だ。
乃依は世間のギャルたちに負けないくらいの猛スピードで、メールを打ち始める。
こんにちは。須崎です。
お忙しいところ、すみません。
情報処理室のパソコンを(たぶん)壊してしまいました。
画面に英文が並んでいます。
どうしたら良いでしょうか?
(もういい、これで! はい、送信!)
こういうことは、勢いが肝心だ。文章はこんな感じでいいんだっけ? なんて考え始めたら、日が暮れてしまう。ただし、後で決して「見直し」などしないように、封印しておかなければならないが。
(とりあえず、指示がもらえれば大丈夫だよね)
高階の言う通りに操作していけば、きっとなんとかなるだろう。
まだ返信が来ていないにもかかわらず、乃依は胸を撫で下ろした。後は、彼が出来るだけ早くメールに気付いてくれることを祈るばかりである。
それにしても、と乃依は考える。どうして今日に限って、人が来ないのだろうか。パソコンが壊れた日に限って。
(みんな、もう帰省してるとか?)
一昨日今年の授業が終わったばかりなのに、少し早すぎないだろうか――と、そこまで考えて、「ん?」となる。
(今日って……何日だっけ)
嫌な予感(ほぼ確信に変わりつつあるが)を覚えながらも、乃依は鞄からスケジュール帳を取り出す。一昨日、新年の予定を更新したばかりだ。
栞を挟んでいるページを開き、カレンダーを見る。
「……………………あ」
さすがに気が付いた。
なるほど、道理で人がいないわけだ。
今日は、クリスマスイブだった。




