29.アウェイな人間
ちょっとした意地もあって、乃依は休暇中、極力院生室へは行かないようにしていた。
基本的には図書館へ直行直帰であり、院生室へは、早朝の誰もいないであろう頃合いを見計らって寄っていた。そして、学食はわざわざ農学部に近い(つまり文学部棟から最も離れた場所にある)ところを利用していたため、知り合いに遭遇することはなかったのだ。
おかげさまで、研究室のメンバーにはほとんど見つかることなく、夏休み期間は終了した。
ただ一度の誤算は、夏休みに入ってすぐに訪れたのだが――できれば記憶に留めておきたくない類のものだったので、それについては必死に記憶の削除を試みた。
休暇中にどれだけ自分の実力が向上したかは不明だが、以前より知識量そのものは増えているような気がした。やっただけのことはあるだろう。
さあ、見てみろ。自分は変わったんだぞ。
そんな思いで、久々に院生室の扉をくぐったのだが――。
「あーそれ! 私のです!」
「いいじゃん、いいじゃん。これ、あげるからさ」
「酷いですよ、辻原さん」
むっとした顔の板倉と、それを全く意に介さない辻原。
彼らの横では、志水周子が目を輝かせながら、貰ったばかりの中国茶を入れていた。これまたお土産でもらった、中国製の茶器で。
「いい香り。厚東さん、ありがとうございます」
志水は一年に一度見られるかどうかというほどの上機嫌で、本場の香りを楽しんでいる。その横では厚東が、西家から差し出されたマカダミアナッツチョコレートの箱に手を伸ばしていた。
「私も、実家に帰ってきたので。みなさんでどうぞ」
「お、なんか高級そう!」
「実家の近くに新しくオープンしたお店で、人気みたいなんです」
佐合は小分け包装された菓子を、みんなに配っていく。西家もこくこくと頷きながら、それを受け取った。
(…………)
アウェイ感が半端ない。
乃依は入口で静止状態になった。
佐合は、ここまでメンバーと打ち解けていただろうか。
西家は、こんなにも馴染んでいただろうか。
(なんか、前と違う)
夏休みの間に何があったのか。研究室のメンバーで親睦会でも開いたのだろうか――そんな考えさえ浮かんでくるような光景だった。
「あ、須崎さん!」
乃依が部屋に入るのを躊躇っていると、目ざとく彼女の姿を発見した板倉が叫んだ。
このままフェードアウトしちゃおうか、と考え始めていた乃依は、内心「げっ」と思いながらも、腹を括って挨拶する。
「こんにちは」
「久しぶりー。夏の間、全然会わなかったね」
「う、はい……そうですね」
板倉のストレートな発言が妙に痛い。悪いことをしたわけではないのに、乃依にはちょっとした罪悪感と後悔が生まれた。
「おまえ、ちゃんと研究してたんだろうな?」
横から蓬田が口を挟む。
「研究……っていうか、勉強はしてたよ」
「ベンキョウ」
わざとらしく復唱した蓬田は、馬鹿にしたように鼻で笑った。
(相変わらずの上から目線!)
乃依の中にちょっとしたイライラが生まれた時、
「須崎さんも、良かったらどうぞ」
佐合が小首を傾げながら、菓子箱を差し出した。
駅の構内で売っているような、いかにもな「土産」ではなく、お洒落な箱に包まれた「スイーツ」といった感じで、彼女の趣味の良さがうかがえる。
乃依は一瞬反応を遅らせるも、不自然にならないようにお礼を言ってから、有難くそれを頂戴した。同性から見ても、「いいなぁ」と思う仕草に、以前耳にした言葉がフラッシュバックする。
「あんな綺麗な人に相談されたら、嬉しいよねー」
それは、夏休み中のただ一度の誤算――図らずも高階と佐合に遭遇してしまった日に、偶然聞こえた言葉だった。
話していたのは、地理学研究室に在籍する三年生。どこのゼミに所属するのかはまだ分かっていないが、乃依はなんとなく戸田研に来るのではないかと思っていた。
そんな彼女たちが、研究室でだらだらと話している内容の一部を聞いてしまったのだ。
あんな綺麗な人――それが佐合を指すということに気付いたのは、すぐだった。そして、相談されている相手が高階だと確信したのも。
乃依は、これまで自分の外見を嫌悪したことはなかった。
思春期にはちょっとしたコンプレックスを感じることもあったが、少なくとも外見の所為で特別嫌な思いをした経験はない。かといってモテた記憶もないのだから、まあ普通の外見なのだろう、と認識している。
そもそも、大して化粧にも時間をかけず、髪型や服装にもお金をかけない時点で、「まあいいか、こんなもので」で済ませられるレベルなのである。
だから、別に佐合絢子という美人の同期がいても、気にはならないはずだった。
これまでに「綺麗な人だな」と思うことはたびたびあったものの、それは羨望ではなかったと思う。
それなのに――。
(綺麗……だよね。やっぱり)
菓子箱を持って移動する佐合を見る目は、これまでとは違う。
羨望ではなく、ましてや嫉妬でもなく――ただ、言い表しようのないもやもやが、乃依の中にくすぶっている。
羨ましさ、ではないのに。
妬ましさ、でもないのに。
ほんの少しだけ、この美人の同期を見るのが辛くなっているような気がする。
「ほい、これ」
「は、はい!?」
ぼうっとしていた乃依は、突然降ってきた声に全身を揺らす。
見上げると、相変わらずの作業着男が、乃依に向かって何かを突き出していた。
「あの……?」
よく見てみると、中には菊の花が入っていて、パッケージには漢字が使用されている。中国語だ。
「須崎にも、土産」
「あ、ありがとうございます」
どうやらお茶のようだ。自分には土産なんてあるはずがないと決めていた乃依は、かなり衝撃を受けた。
「それは菊花茶って言って、中国じゃ一般的な飲み物だな。店に行ったら、水の代わりにこれが出てくる。まあ、言ってみりゃ庶民の茶ってわけだ」
「そうなんですか……」
どういう反応すべきか分からず、乃依は適当に相槌を打つ。まさか、文句を言うわけにもいかない。
「チカちゃんは鉄観音茶が好きだから、それ買ってきたけど。須崎はこだわりないだろ」
「……はい。ないです」
決めつけられるのは癪だが、確かにお茶にこだわりはない。どれが高級品で、どれが安物かなんて、説明されなければ分かるはずもない。
「ま、飲んでみろよ」
「ありがとうございます」
帰ったらさっそく飲んでみようと決めて、鞄に仕舞う。
と、いつの間にか隣に西家が来ていた。いつもながらの俯き加減が、なんとなく懐かしい。
彼は無言でマカダミアナッツチョコレートの箱を差し出すと、二度ほど頷いた。どうぞ、ということだろう。
「え、と。ありがとう」
乃依が言うと、再びこくこくと頷く西家。最初はどうなることかと思ったが、これでコミュニケーションが取れている――のかもしれない。
ふと、乃依は西家の手が浅黒く焼けていることに気付いた。ハワイに行っていたことは土産品から想像できたが、かなりの期間滞在していたに違いない。
「調査で行ってきたんだ?」
離れかけていた西家は、乃依の言葉に足を止め、振り返った。
「どのくらい?」
「三週間弱」
「へぇ。すごいね」
言ってから、何が「すごい」のか意味不明な上、小学生並みの語彙力だということに気付いたが、西家は気にした様子はなかった。
(みんな、頑張ってるなぁ)
乃依のフィールドは国内だから、都甲研の三人や西家みたいに、海外に調査で出ることはない。戸田研の面々や志水もそれは同じだから、どちらが優れているというわけでもないのだが、それでもなんとなく置いていかれた気分だ。
(いやでも、私も勉強したから!)
この成果が発揮されるとしたら、本格的に授業が始まってからだろう。乃依は、後期が始まるのが楽しみで仕方がなかった。
(高階さんにも、いいとこ見せたいし)
実は休暇中、院生室に立ち寄らなかった要因の一つに、これがあった。秘密特訓をして、急成長した姿を見てもらおうという子供じみた考えが、彼女を院生室から遠ざけていたのだ。
(そういえば、高階さんは来てないな)
院生室を見回しても、彼がいるという形跡はない。机の上は相変わらず、綺麗すぎるほど整頓されている。
(……あれ?)
そこで、乃依は奇妙なことに気が付いた。
綺麗すぎる、どころではない。そもそも、物がほとんどない。
ノートパソコンがないのは持って帰っているからだろうが、本や雑誌、研究ノートや調査ファイルなど、これまで本棚に入っていた物までなくなっている。おかげで、今や本棚は虫食い状態だ。
まるで、近々引っ越すことでも告げているかのように。
(まさか)
嫌な予感が乃依の頭をよぎる。そこへ、近くから涼しげな声がした。
「高階さんなら、引き籠り中だよ」
思考を読んだかのような発言に、乃依はぎくりとなる。そんなに分かり易い行動を取っていただろうか。
ゆっくり首を動かすと、志水周子が近くまで来て、乃依と全く同じ光景を目に映しているのが見えた。
「ヒキコモリ、ですか」
そういえば、以前高階について、元々はヒキコモリ系だと聞いたことがあった。大学に来る必要がなければ敢えて来ない、と。
「そ。授業も、出て来れるかわかんないって」
「どうしてですか!?」
「博論で忙しいんじゃないかな。しばらくは難しいかも」
「しばらく、って……」
「さあ。――博論の目途がつくまで?」
それって、いつのことですかー!? と、乃依は内心焦ったが、志水に聞いても分かるはずがない。取り敢えず分かったのは、自身の計画が脆くも崩れ去ったことだけだった。
(私の夏は、一体……?)
目の前が真っ黒になることは、まさにこのこと。――いや、真っ白かもしれないが。
いまだ土産話で盛り上がる院生室の一角で、乃依は呆然と、一つの机を見つめ続けていた。
そして志水の言葉通り、高階は十月に入っても、大学に現れなかった。




