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28.噂の後輩


 最近、須崎乃依の姿を見ない。


 高階がそのことに気付いたのは、夏季休業が始まって二週間後のことだった。

 都甲ゼミの三人組は、一昨日から都甲に付いて中国へ調査に行っている。二週間向こうに滞在するらしいから、しばらくは研究室も静けさを取り戻すことだろう。

 志水は志水で、いよいよ文学部棟に来る理由がなくなったため、やはり会うことはない。たまに博物館バイトの行き帰りに顔を合わせるくらいか。

 西家ら自然地理のメンバーも、ハワイへ行ってしまった。

 大能は就活が忙しいらしく研究室には顔を出さないし、板倉も右に同じく、だ。

 板倉の場合は、就活よりも修論を何とかしろと周囲から言われ続けているが(就職が決まっても修了できないかもしれないぞ、と脅されているほどだ)、高階としては、彼女の選択は間違っていないと思う。

 修了できても就職できなければ、それこそお先真っ暗である。実際に、そういった人たちを何人も見てきたので、できれば後輩にはそんな風にはなってほしくなかった。


(まあ、人のことは言えないか)


 スケジュール帳を捲りながら、高階はコーヒーを口にする。

 博士論文の概要提出日が、刻一刻と迫っている。

 順調にいけば、概要提出自体は難しくないだろう。肝心の論文そのものに関しても、本数は揃っている。序論と結論を書きさえすれば、規定枚数は軽く超える計算だった。

 問題は、中身だが――。


(今のところ、これといって批判は受けてない)


 しかし、逆に言えばそのレベルだともいえる。

 相手にされていない、ということは、厚東に言われるまでもなく、彼自身が一番良く分かっていた。


(だからって、これ以上本数を増やしても――)


 その可能性を考え、しかし瞬時に否定する。

 もはや、そんな余裕はなかった。

 無理矢理にでも、書いて、まとめて、出すしかないのだ。


「おはようございます」


 控えめな声がしたかと思うと、扉から佐合が顔を覗かせていた。

 今日は夏らしい淡いブルーのシャツワンピースで、普段に増してお嬢様度がアップしている。

 佐合はミュールの立てる音に気をつけながら、静かに院生室に入って来た。


「今日はお一人ですか?」

「うん。みんな調査に行ったり、バイトだったり……それぞれ」


 大能と板倉のことは伏せておいた。もしかしたら知っているかもしれないが、わざわざ言うべきことでもない。

 特に大能は、業界では有名どころばかりを狙っているので、あまり人には知られたくないはずだ。


「静かですね」

「集中できて良いよ」

「私がいては、お邪魔ですか?」


 冗談めかして言う佐合に、高階は「いや」と言う。

 彼女とは席が隣同士だが、それが変に気になったことはなかった。


「そういえば、最近須崎さんと会った?」

「須崎さんですか……。いえ、最後に会ったのは、休みに入る前の……ゼミの時です」

「そっか。連絡は? 取ってないの?」

「はい。連絡先、知らなくて……」


 そんなものなのか、と高階は思う。

 確かに自分の携帯電話にも、厚東の連絡先は入っていないが、女性同士の関係はもっと違うものだと思っていた。


「連絡してみましょうか? 名簿を見れば、たぶん分かると思いますので」

「ああ、いいよ。用があるわけじゃないし、連絡先自体は知ってるから」

「そうですか。――あの、今お時間よろしいですか? 教えていただきたいことがあって」


 時々、佐合はこうして質問をする。席が隣同士だから聞きやすいのだろう。

 彼女が椅子を寄せて資料を広げたので、高階はそれを見る。


「これ……GISを使ったんですけど、ちょっと分かりにくいかと思って」

「あぁ、確かに。――度数分布は弄っちゃ駄目なの?」

「あ、いえ、大丈夫です」

「元データ見せて」


 急いで佐合がGISのソフトを立ち上げると、高階が画面を覗き込んだ。


「偏ってるなぁ」

「そうなんです。だから度数分布も悩んで……」


 二人で一台のパソコンを注視していると、窓から心地よい風が入った。

 ああ、涼しいな――そう思ったのは一瞬のこと。

 何故、風が入ってきたのか。それには理由がある。


「あ、えっと……すみません」


 それは、部屋に風が通りやすくなったからであり。

 つまり今まで閉めきっていた部屋の扉が開けられたからであり。


 目が合った途端、なぜか謝罪してきた後輩は、以前会ったときよりも元気がないように見えた。





 その後、何度か佐合の質問を受ける場面があったものの、自分の作業をする時間はたっぷりと会ったはずだ。

 再び一人になった院生室で、高階は本日の成果を振り返る。

 佐合の指導をしていた時間は、まだいい。自身の研究は進まなかったが、有効的に時間を過ごせていたと評価できる。

 問題はその後だ。


(結局、今日進んだのはこれだけか)


 プリントアウトした博士論文の概要を眺める。

 本来なら―――彼の計画の中では、もっと早くに完成しているはずのものだ。


(来週にでも、戸田先生に見てもらおう)


 締め切りは一月近く先だが、修正が入ることは確実なので、早めに見てもらった方が良い。戸田も戸田で、今週は調査に出ているから、来週以降にしかならないが。

 それまでは少し休むか、と高階が思っていると、廊下から足音が聞こえた。

 少しずつ近くなってくるそれは、確実にこの部屋へと向かっていた。


(志水さん?)


 この時間帯なら、その可能性が高い。ちょうどバイトから帰還する頃だ。

 たいていは何をしに来たのかよく分からない感じだが(何もせずに帰ることが多々ある)、もしかしたら彼女なりに、研究室のメンバーとコミュニケーションを図ろうとしているのかもしれない。

 高階は、志水を見るたびに、そんなことを思っていた。


 果たして、高階の予想は当たっており、


「こんにちは、高階さん。喉、渇きませんか?」


 と、志水はいつもの調子で、意味不明なことを言った。

 それはまあ、喉ぐらいは渇くだろう。なんせ、夏なのだから。しかし、開口一番に言うことだろうか。

 高階は警戒しつつ、志水の出方を窺う。


「ジュース飲みたいです、私」

「……飲めば?」

「そういえば、二か月くらい前に、須崎さんに奢ってあげてましたよね。確か、ゼミの後に。須崎さんが報告だった時だと思います」

「よく覚えてるね」

「何でしたら、日付まで思い出しましょうか?」

「いいよ。僕は覚えてないから、確認の仕様がないし」


 彼女の異常なまでの記憶力に、高階は舌を巻く。

 以前から知ってはいたし、それが発揮される現場を何度も目撃しているから、今更驚くことではない。しかし、こうして自分に対しても適応されていると思うと、何やらぞっとするものがあった。


「私も、ゼミは違うとはいえ、高階さんの後輩だと思うんです。可愛い後輩が、喉が渇いて死にそうだと言ってるんですが、どうしますか?」


 なるほど、と高階は理解した。

 要は、こういうことだ。


「下の自販機でいい?」





「さあ、どれでも好きなものを選んでください」

「僕が払うんだよね?」


 氷入りのメロンソーダが入った紙コップを手にした志水は、新たにコインを投入した高階がボタンに触れる前に、そんなことを言った。

 アイスコーヒー(砂糖・氷なし)を選ぼうとしていた手が止まる。


「このメロンソーダ、美味しいですよ?」


 彼女の持つ紙コップの中では、いっそ毒々しい鮮やかな緑色が揺れている。

 意外なことに、志水は炭酸飲料を好む。先ほども、「不健康な飲み物が無性に飲みたくなる」と言って、迷わずにメロンソーダを選択したほどだ。


「それを飲むのは、何となく抵抗が……」

「じゃあ、他のでもいいですけど。とにかく、飲みたいものを飲みましょう。別に誰に見られてるわけでもないですし。――まあ、私は居ますけど。私のことは気にせず、お好きなものをどうぞ」


 そう言う後輩には、うっすらと優越感が見て取れる。


「……じゃあ、これを」


 何やら彼女への敗北感があったが、そういえば、彼女に勝てた例なんてないんじゃないかと、高階は思い直した。

 しばらくして、ピーッという音とともに扉が開き、中から真っ黒い液体の入った紙コップが出現した。色は普段見慣れたものと変わらないのに、無臭であるという点が異なっている。

 ベンチに移動してから、高階はまだ細かい泡を立てているそれを口に含む。

 久々に味わう甘ったるさは、不思議と彼に満足感をもたらした。


「美味しいですか?」

「ああ……うん。久々に飲むのも、悪くないね」


 志水はその返事に微笑むと、「そういえば」と言った。


「最近、須崎さんが秘密の特訓をしてるらしいですよ。ご存知ですか?」

「え!?」


 須崎乃依の名前に、思いのほか動揺する。先ほどの影響だろうか、と高階は分析した。

 いや、それよりも――。


(志水さんは、相変わらずだな)


 これが本題なのだろう。「そういえば」なんて言っているが、最初からこのことを話すために、わざわざ自分を誘ってきたのだ。高階はそう判断した。


「秘密の特訓って?」

「図書館の一角を陣取って、猛勉強してるとか。しかも、開館から閉館まで」

「へぇ。熱心だね」


 なぜ、志水がそんなことを知っているのか。そして、なぜそれを自分に話すのか。

 聞きたいことは色々あったが、結局出てきたのは、そんな言葉だった。


「研究室でやりたくないという気持ちは、よく分かります」

「今は静かだよ」

「高階さんはそういうこと、さらっと言いますよね」

「え、今のは志水さんの方から振ってきたんじゃ――」

「私はいいんです。いつも口に出してますから」


 それはそれでどうだろうか、と思うが、確かに彼女が今さら毒を吐いたところで、誰も傷つかないし気にもしないだろう。


「まあ、それはどうでもいいとして」

「いいんだ」


 呆れたような言葉を無視して、志水は続ける。


「さっきは、この世の終わりを見たのかというくらい、暗ーい顔をしてましたけど」

「え?」

「須崎さん」


 高階の顔が上がる。それを見ずに、志水は鞄を肩に掛けた。


「すれ違ったのに、私に気付かなかったみたいですし」

「それで、今どこにいるの?」

「さあ。農学部の方に行ってましたけど」

「農学部!?」


 なにゆえ農学部?

 考えるも、思い当たることは何もない。


「ごちそうさまでした」


 柔らかくなったコップの形を変えて、彼女は立ち上がる。

 色々と情報を握っていそうな後輩を引き留めたい衝動に駆られたが、ついぞ高階がそれを実行することは叶わなかった。




GIS……地理情報システム

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