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27.噂の先輩



「上手く、というのは……?」


 恐る恐るといった感じで、乃依は尋ねる。

 そのままの意味で捉えるならば、「関係は良好か」ということだろうが、深読みをするなら様々な解釈ができる。

 乃依はこれまで、志水に高階との関係を相談したことは一度もなかった。辻原とは、それに近い話題になったことはあるが、まさか志水に筒抜けになっているわけではないだろう。そう考えると、なぜ彼女がそんなことを聞いてくるのか、さっぱり不明だった。

 

「ちゃんと指導してもらってるか、ってこと。最近、二人でいるところをあまり見ないし、むしろ厚東さんに見てもらってることの方が多いような気がしたから」


 確かに志水の言う通りである。彼女の観察眼に、乃依は恐れ入った。

というか、知られ過ぎていて怖い。


 席が隣同士ということもあって、厚東には何かと話しかけられる。勿論、聞き手に回ってばかりではないので、結果として一番多く会話している相手は厚東になるのかもしれない。

 それだけではなく、都甲の演習に対するアドバイスをもらっているのも事実である。

 それもこれも高階が院生室を不在にしていることが多い所為だが、来ていたとしても、向こうは向こうで佐合の指導をしていることが多く、理由もないのに話しかけるのが憚られる状況だった。


「そうですね。最近はあんまり……」

「大丈夫なの? それで」

「どう、なんでしょう」


 この場合、どういった意味での「大丈夫」なのだろうか。

 研究のことを言っているのか、はたまた人間関係のことを言っているのか。

 ぐるぐると思考を巡らす乃依に、再び志水の声が被せられた。


「もう印刷できるみたいだよ」

「あ、はい」


 慌てて製版ボタンを押す。


「あの人、こっちから行かないと駄目だよ」

「え?」

「基本、自分から動かない人だから。しかも今は、自分のことで手一杯だろうし」


 色々と訊きたいことはあるのだが、乃依は後半部分に反応した。


「それって、卒業するために論文を書かなきゃいけない、ってことですか?」


 以前、高階がこぼしていた内容を思い出す。

 あれは、四月の初めだったか。今年はとにかく本数を出して形にしないと、というようなことを言っていた気がする。


「卒業じゃなくて修了ね。――そう。今年出るつもりみたいだよ」


 さらりと告げられた事実に、乃依は少なからず衝撃を受けた。

 考えてみれば、当たり前のことだ。

 彼は最終学年なのだから、博士論文を書いて大学を出るのが、正当なコースになる。厚東や辻原みたいに留学しない限り、修了を遅らせる理由はない。


「そうなんですか……。寂しくなりますね」


 極力感情を抑えて言ったつもりだったが、それが成功したかは疑わしい。

 それでも、志水は特にコメントを残さず、代わりに恐ろしいことを言った。


「ま、書ければ、の話だけど」


 乃依はぎょっとなる。


「書けないってことがあるんですか!?」

「書けないから、残ってる人がいるんだよ」


 誰とは言わなかったが、乃依にはそれが誰のことかがわかった。

 こんなとき、志水周子のことを少し怖いと思う。彼女は、驚くほど冷静に他人を見ている。


「須崎さんは、高階さんの論文読んだことある?」

「はい。……一応」


 一応、と付け足したのは、内容を正確には思い出せなかったからだ。

 彼とは分野が近いので、内容そのものはわりと理解できる。が、結局「そういう事例があるんだ」で終わることが多く、正直に言って印象が薄い。彼の主張とか、研究史的な意義とかを説明するのは難しかった。

 だから、


「どう思った?」


 志水にそう聞かれても、正直に答えるほかなかった。


「事例は面白いなって思ったんですけど……すみません。それ以上は、よく分からなくて」


 こんな回答では満足してもらえないだろうな、と思いながらも、下手な誤魔化しはできない。それこそ、志水にけちょんけちょんにされそうである。


「ああ、いいよ。私も、よく分からないから」

「え?」

「そういう書き方なんだよね。批判もせず、主張もせず。坦々とデータに基づく事実を述べるだけっていう、典型的な個別事例研究。奇抜な事を言わないし、人の研究を批判しない分、自分も批判されないんだけど……そういうスタイル自体を嫌う人もいる」

「もしかして、志水さんも……?」


 恐る恐る問いかけると、志水はすぐに首を振った。


「私は、特には。性格出てるな、とは思うけど」


 それは良い意味か、悪い意味か。

 乃依にはなんとなく皮肉のようにも聞こえたが、追及するのは止めておいた。


「終わってるよ」

「あ、はい!」


 とっくの昔に製版を終えた印刷機は、次の指示を静かに待っていた。「印刷枚数を入力してください」の文字を無視し続けていた乃依は、受講人数を三回ほど数え直して、入力した。

 

「だから、あの二人は仲悪いんだよ」

「あの二人……って、高階さんと厚東さんですか!?」

「うん」


 妙に子供っぽい返事をし、志水は勢いよく用紙の封を切った。

 豪快にびりびりと包装紙を破り、ぐちゃりと握りつぶして、ごみ箱へ。横に貼ってある「包装紙は折りたたんで資源ごみへ」の文字は完全に無視だった。


「別に性格が合わないとかじゃなくて――まあ、それもちょっとはあるだろうけど――それ以上に、合わないのは研究の方。あの二人は正反対なんだよ。研究スタイルも、考え方も」


(正反対……)


 見るからに、性格はそうだろう。どう見たって、意気投合するようには見えない。おそらく、一生親友にはなれないだろうことが傍目にもわかる。

 しかし研究のこととなると、話は別だ。乃依は、二人を対比できるほど、彼らのことを知らない。


(あれ? でも、前に――)


 似たような話題になりかけたことがなかっただろうか。

 乃依は記憶を手繰り寄せる。

 誰と話している時だっただろうか。

 志水ではない。当然、高階でもない。辻原……は、たぶん違う。大能や板倉は有り得ないし、蓬田とはそもそも極力話をしないようにしているし、あとは――。

 と、そこまで考えた時、一人の人物が思い浮かんだ。

 

(厚東さんだ!)


 瞬間、今までもやもやしていた頭の中の霧が、うっすらと晴れているのを感じた。


 そうだ。

 厚東と初めて顔を合わせた時(その時は相手が誰であるか認識できていなかったが)、「高階のどこがいいのか」と訊かれたではないか。

 思わず可笑しな叫び声を上げてしまったが、何のことはない。聞いてみれば、彼が言いたかったのは、「高階の書く論文のどこがいいのか」ということだった。彼は乃依の書いた卒論から、彼女を指導した人物が誰なのかを知ったからだ。

 その時に何と答えたのか、乃依はよく覚えていない。とにかく、高階がどれだけ凄いのか。彼にどれだけお世話になっているかを猛アピールしたような気はする。

 彼はその回答を一通り聞いた後で去って行ったが、今思えば、乃依の頓珍漢な返事に幻滅したに違いなかった。きっと、彼が話をしたかったのは、こういう――志水が言っているような内容のことだったのだ。

 その証拠に、あれ以来厚東が同じ話題を振ってくることはないではないか。


「――って……まだ、わからないか」

「え!? あ、いえ……」


 意識を志水から外していた乃依は、突然の声にびくりとなる。


「そういう目で読んでないでしょ」

「あ、はい。すみません……。それに、厚東さんの書かれているのは、その……読んだことがなくて」

「じゃあ、今度読んでみたら? 荒削りだけど、面白いよ。各方面から絶賛叩かれ中だけど」


 志水は口角を上げて面白そうに言うと、勢いよく印刷されたレジュメを持ちあげた。


「印刷完了」





 もはや完全に晴れた霧は、乃依の世界を鮮明にさせた。今まで見ようとしなかったこと、知ろうとしなかったことは、すぐそこにある。


(勉強、しないと)


 今のままでは、駄目だ。

 彼らと同じ土俵に上がることさえ敵わない今の自分では、駄目だ。


 もしかしたら、志水はそれを教えてくれようとしたのではないか。

 そう思って、横でレジュメを折り続ける彼女を見ると、志水は「何?」というような目を向けた。


「あ、いえ。……そ、そういえば、志水さんって、高階さんと仲良いですよね」


 これはとっさに考えたわけではなく、前々から聞きたかったことだ。――もっとも今、このタイミングで尋ねる予定はなかったのだが。

 乃依の勇気を振り絞っての質問に、志水は驚くほどあっさりと答えた。


「今はね」


 と。


「『今は』?」

「うん。前はむしろ険悪だったよ」

「ええっ!?」


 衝撃の事実だ。というか、高階は地味に敵が多いのではないだろうか。

 乃依は密かに先輩の人間関係を心配した。

 攻撃性を有していないどころか、穏便第一を考えていそうな人なのに、世の中は上手くいなかいものだ。


「険悪って言っても、私の方が一方的にイラッとしてただけなんだろうけど」

「そうなんですか」

「イラッとしない?」

「いえいえ! そんなことは!」

「本当に?」

「本当です!」


 ぶんぶんと手を振ると、志水は「ふぅん」と言って目を細めた。



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