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25.病み上がりな彼女



「ぅええええええええ!?」


 その日は、須崎乃依にしては早い朝だった。

 普段はいくら日が昇っていても、目覚まし時計が鳴らない限り、彼女が完全に覚醒することはない。仮に目が覚めても、時計を見て、「まだ寝れる」とばかりに布団に戻るのが常である。

 そんな彼女が日昇とともに目を覚まし、机に上に置いていた携帯電話を手に取り、時間を確認するとともにメールの受信に気付き――驚きのあまり二度寝など不可能な状態になったのは、当然メールの送信者に原因があった。


(これ、夢……じゃないよね)


 ためしに頬をつねってみるが、ちゃんと痛みを感じる。

 ということは、現実だ。


(いやでも!)


 信じられないことに変わりはない。

 乃依は、最新の受信メールを読み返した。



 志水さんから、体調が悪いと聞きました。

 明後日のゼミは無理をしなくていいので、休養に充ててください(と、戸田先生がおっしゃっています)。

 お大事に。



 相変わらず件名がないので、何だろうかと開いてみると、これだった。

 事務メール――と言えなくもないが、しかし最後の一文はそれほど無機質には感じられない。心配してもらっている、と思わせるような文章は、それだけで乃依の心を満たしてくれた。


(あーでも、ゼミは出たいんだけどな。高階さんの報告だし……)


 そのために、高階が参考文献として事前に挙げた論文のコピーは入手済みである。……まだ一回しか読んでいない上に、内容はほとんど忘れてしまっているが。


(熱も下がってるし、明日なら行けそうな気がするんだけど)


 おでこに手を当てると、ひんやりする。汗をかいたせいか、手のひらの温度に比べて、随分低いように思われた。

 この分なら、今日一日安静にしていれば大丈夫だろう。乃依はそう思って、再び携帯電話を操作し始めた。





 風邪はたいしたことはなかったようで、昼になっても完全に平熱のままだった。やはり明日は大学に行けそうだ。

 しかし、高階からのメールには「ゼミは無理をしなくていい」と書いてあった。どうしようかと、乃依が考えていると、


「あっ、」


 机の上に置いた携帯電話が震えている。

 音の鳴り方からメールの受信だということが分かったが、彼女はコンマ一秒の速さで机へ飛んでいく。

 果たして、送信者は彼女の予想した通りの人物だった。



 Re:須崎です。


 熱が下がったとのこと、良かったです。

 ゼミの件ですが、明日はやはり中止になりました。板倉さんも調子が良くないようなので。

 代替日は未定です。またメールを回すので、都合の良い日を教えてください。



 今朝、乃依が送ったメールの返信だ。

 高階からのメールに気付いたのが朝だったため、約半日のタイムラグがあったわけで、乃依は急いで返信をした。熱は下がったみたいです、という現状報告も含めて。

 しかし、今来たメールを見る限り、今度は板倉が不調を訴えているらしい。研究室では風邪が流行り始めているのだろうか、と乃依は思った。





 翌日、乃依は必修の授業を受けるために大学に行った。ゼミが中止になっても、結局は出なければならなかった。

 熱は下がったとはいえ病み上がりなので、直接大講義室に向かう。研究室に行って、菌をまき散らしては迷惑になるからだ。

 ところが、運が良いのか悪いのか、偶然にも文学部棟のエントランスで、よく知った人物と遭遇してしまった。


「須崎さん」


 後方から掛けられた声。しかし、誰かは直ぐにわかった。


「あ、こんにちは」


 頭を下げようとした乃依の元に、高階が小走りでやって来る。乃依の中では、彼はいつも歩いているイメージだったので、なにやら新鮮な光景だった。


「風邪、大丈夫?」

「はい。大したことなかったみたいで……」

「それなら良かった。これから授業?」


 乃依は「はい」と言って頷く。


「一回くらい、休んでもいいのに」

「ええと、それはちょっと……」

「真面目だなぁ」


 高階さんは見かけによらず不真面目ですよね――とまでは言わないが、彼にサボリのイメージが全くなかった乃依は、今の発言に少々驚いた。

 ちなみに乃依は、学部時代は無遅刻無欠席だったが、真面目というよりかは、単にサボる度胸がなかっただけである。


「まあ、あまり無理をしないように」

「はい、ありがとうございます」


 ほんわかした雰囲気が漂う。「なんかいいなぁ」と乃依が思っていると、文学部棟の出入り口が開いた。

 入って来た人物を見て、乃依は「あっ」と声を上げる。


「西家君!」


 呼びかけると、彼はこちらを向いた後、ぎょっとしたような顔をした。腰も若干、引き気味だ。

 しかしそんな彼の様子には構わず、乃依は駆け寄った。


「この前はありがとう。おかげで、凄く助かった!」


 近付いてお礼を言っても、西家は顔を背けるばかりで、乃依の方を見ようとしない。何かやましいことがあるのでは、と疑われても仕方のない仕草である。


「ほんと、お世話になりました。――えっと……それだけ、だから」


 一方的に喋り続ける虚しさに、乃依は心が折れそうになったが、「いやでも西家君だし……」と気持ちを落ち着ける。他の人に対してもこうなのだろうから、特別自分が嫌われているわけではないだろう。

 西家はやっと二三度頷くと、逃げるように階段(エレベーターを待つことすら嫌だったのだろう)を駆け上がっていった。

 その動きの、俊敏なこと。


(何かあったのかな)


 今日はいつも以上に距離を置かれているような気がする。

 最初は自分が何かしてしまったのだろうかと考えたが、真夜中の院生室で教授願った日以来は顔を合わせていない。お礼を言うのが遅くなったことに対して気を悪くしている風でもなかったので、どうも他の要因があると思うのだが。


(うーん……)


 考えるも、彼の行動原理など分かるはずもなかった。




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