24.戸惑う病人
朝からマックスに痛みを感じていた胃は、夕方にはマシになりつつあった。それもこれも、最大級の難題をクリアしたからに他ならない。
報告中は、自分が何を言っているのか分からなくなったり、質問に対して頓珍漢な回答をしたりしたような気もしたが、終わった後の雰囲気を感じ取る限り、そう酷い有様ではなかったらしい。
今日はあれこれ考えず、枕を高くして寝てやるぞ、と乃依は決めた。
ところが、いざ最後の時限の授業が終わってみると、全身に倦怠感が漂っている。身体が重く、特に動くたびに頭痛がした。昼過ぎから身体の節々に違和感があったので、まさかとは思っていたが――。
「大丈夫?」
乃依が廊下でおでこに手をやっていると、博物館バイトから帰ってきたばかりの志水が、いち早くその様子に気が付いた。
「あ、はい。ちょっと熱があるかもしれないですけど、大丈夫です」
「風邪?」
「たぶん……。今朝はこんなこと、なかったんですけど」
「今日は、早く帰って休んだら?」
「はい。そうします」
さすがに、残って勉強する気にはなれない。それに、風邪であれば、他にうつしたら大迷惑だ。
「一人で帰れる? 送ろうか?」
「え! そんな、大丈夫です!」
その申し出に、乃依はぶんぶんと手を振る。
幸い微熱程度なので、普通に自転車に乗って帰れるだろうし、何より志水にそこまでして貰うのは恐れ多い。
「そう。なんか、顔赤い気がするけど。熱、上がってきてるんじゃない?」
それはそうかもしれない。徐々に重くなっていく身体は、現在進行形で布団を所望している。今ここで寝て良いと言われれば、すぐにでも実行できるだろう。
「たぶん、まだ大丈夫です。今から帰って寝れば……」
「そっか。――荷物は院生室?」
「はい、取ってきます」
鞄を置いて、必要なものだけを持って授業に出ていたので、一度院生室に戻らなくてはいけない。そのために、乃依は一階の講義室から、わざわざ四階まで上がってきたのだ。
院生室へは、志水と一緒に入った。彼女は博物館のバイトがある時には、行き帰りに院生室や研究室に寄ることが多いらしい。
「こんにちは」
先に志水が入って、中にいたメンバーに挨拶をする。
挨拶励行の研究室にあっては当然の行いだが、彼女は特に挨拶を重んじていた。口調がキツいわりに、中身はわりとまともな人である。
「あ、チカちゃん。まだいたんだ」
「はい。博物館に行ってました」
オープンスクール用の企画展の準備で、今博物館はかなり忙しい。志水はここ最近、ずっとバイトを入れ続け――というか、入れさせられてきた。一日中バイト先に籠ることもあれば、今日のように授業が終わってから行くこともある。
「もっと院生室に来ればいいのに」
「何のためにですか?」
「は? んなの研究するために決まってんじゃ――」
「してないですよね、今」
彼女が指差して言う先には、いかにもダラダラ過ごしていましたと言わんばかりの、先輩の姿。
そして近くには右に同じく、な後輩×2の姿。
どこをどう見ても、今までジュースを飲みながら無駄話をしていたとしか考えられない有様に、志水は大きな溜息を吐く。
もちろん、彼らに聞こえるように。
もちろん、計ったようなタイミングで。
「いやこれは、ちょっと休憩を――」
「別にいいですけど。私には関係ないですし」
ただ、と志水は心の中で付け加える。
可哀想なのは他の連中だ。院生室を拠点としていない人はまだ良いが、常時ここにいる者にとっては迷惑千万な話である。普段は居るはずの高階の姿がみえないのも納得だ。
「それより、ちょっと退けてください」
「退け………って、先輩に対してなんつーことを」
「いいですから、早く。須崎さんの荷物を取りたいんです」
広くはない通路を空けさせると、志水は後ろに控えている後輩に目をやる。
「あー須崎。さっきの演習さぁ」
「待ってください。彼女、病人なんです」
厚東の言葉を遮り、志水は乃依に鞄を取りに行くように、目で合図する。
乃依は荷物を踏みつけないように気をつけながら、身体を斜めにして通路をすり抜けた。
「病人?」
「熱があるみたいなんですよ」
途端、厚東と辻原、蓬田は口ぐちに「大丈夫か」と声をかける。しかも、本気で心配していることが伝わるような表情で。
乃依は愛想笑いを浮かべて「大丈夫です」と言うが、何らや狐につままれたような気分だ。彼らがこんな風に労りの眼差しを向けてくるなんて、夢じゃなかろうか。
「てか、一人で帰れるか?」
鞄を持って部屋を出ようとした乃依に、厚東の声が掛かる。
志水にも言われたような、と乃依が依思っていると、
「送ってやろうか?」
「え!?」
なんの天変地異だと思わせるような発言に、乃依は思わず声を上げる。
すると、今度は辻原が、
「俺が送ってってもいいけど。どうせ、この後暇だし」
などと言い、蓬田までも、
「いや、俺が行きますよ。こいつの家、知ってるし」
と言うものだから、それだけで乃依の脳内はキャパオーバーである。
「で、どうする? 誰が行く?」
全くついていけない展開に呆然とする乃依を置いてけぼりにして、誰が彼女を送っていくかを話し合う三人。
その横で、それまで事態を見守っていた志水が、硬直状態にある後輩に向かって口を開いた。
「どうする? どれでもいいよ」
「どれでも……って!」
志水の声に、乃依は意識を呼び戻す。
「今なら、選り取り見取りだよ。――どれも、似たようなものかもしれないけど」
「いえいえいえいえ!」
そんな、返答に困るようなことを言わないでほしい。
乃依は首と両手を左右に振りながら、慌てて否定した。
「遠慮せずに使っちゃって」
「そんな、使うなんて……! あの、本当に大丈夫です。一人で帰れますから」
むしろ、彼らのうち誰かと帰ることで、余計に具合が悪くなりそうだ。
そんな心の声を仕舞い込んで、乃依は元気です、大丈夫です、ぴんぴんしてます、をアピールする。
実際に、自転車で三十分もかからない距離である。帰りにスーパーに寄るとしても、一時間後には布団に入れる。
「本当に大丈夫か?」
「うん、大丈夫。自転車だし、すぐに帰れるよ」
「帰りにぶっ倒れるなよ」
「う、うん」
悪気はないのだろうが、余計なひと言をくっ付けるのが蓬田の特徴である。
それでも、なんだかんだで心配してくれるのは、同期だからだろうか。意外と良いところもあるんじゃないかと、乃依は思った。
四人分のプレッシャーに見送られながらそそくさと部屋を出ると、乃依は携帯電話をチェックする。彼女は時計をつけるタイプだが、最近はすっかり携帯電話で時間を確認するようになってしまった。
メールも電話の着信も、当たり前のように来ていなかった。彼女に用事があるのはたいてい研究室の人間で、彼らとはこんな風に直接会うのだから、わざわざ通信機器を使う必要がないというわけだ。
そういえば最後にメールを受信したのはいつだったっけ、と乃依はなんとはなしに受信ボックスを開く。
「あ……」
並んでいたのは、「次回のゼミについて」という件名で、ゼミ生全員に一斉送信されたメール。送信者は、全て高階孝司となっている。
学部と院のゼミの日程を調整するのは、数年前から高階の役割である。
本来ならば大能の役割なのだが、性格的に高階の方が向いていると判断されたのか、いつの間にか彼女はその役目を後輩に譲っていた。
(高階さんからのメールばっかり)
それが個人的なものではなく、ゼミ関係なのが悲しいところだが、それでも送信者に彼の名前が並んでいるのは悪くない。
なんとはなしに、ぽちりとボタンを押すと、本文が開かれた。そこには、
了解
とだけ書いてある。
何の話だっけ、と思って送信ボックスを開いて、乃依は「ああ」と思い出した。
一斉送信で研究報告の希望日を聞かれたので、この日がいいです、と返信したときのものだ。
相変わらず簡潔な文章だな、と思う。
(そういえば、最近こういうのばっかりだなぁ)
こういうの、とは事務メールのことだ。
ここ最近個人的なやり取りが減ってきているとは思っていたが、メールボックスを見れば、それは一目瞭然だった。
彼との距離に、明確な証拠を突きつけられた気がして、乃依はもやもやとした気分で携帯電話を鞄の中にしまった。
帰宅した乃依は、買ってきた市販薬を飲み、さっとシャワーを浴びてから布団に入った。
外が明るいうちに眠るなんて、いつ以来だろうと思いながら、重い身体を布団に沈める。ここ数日は報告の準備で寝不足が続いていただけに、なんだか幸せな気分だ。
今日は西家にお礼を言えなかったから(あの日以来、彼は研究室から姿を消している)、明日ちゃんと言おう、と決めて、彼女は目を閉じる。疲れていたのか、直ぐに眠りに落ち、そして夜中に目を覚ますこともなかった。
だから、その日の夜に来たメールに気付いたのは、日が昇ってからのことだった。




