23.丑三つ時の救世主
時刻は十一時にさしかかろうとしている。
文学部棟の明かりもまばらで、いくつかの階は完全に電気が消えている状態である。一部の授業は、ゴールデンウィークの中日ということで、休講にしてしまっているから、長期休暇を利用して帰省している学生も多いのだ。
そんななか、地理学研究室の院生室だけでは、煌々と電気が灯っていた。
(もう、駄目かも)
机に突っ伏して悲観モードに入っているのは、先日の演習で大変な目にあった須崎乃依である。
今日も彼女は、誰もいない時間帯を見計らって、院生室へとやって来ていた。
何故こそこそとした真似をしなければならないかというと、ずばり都甲研の三人を避けるためである。彼らに見つかったが最後、何を言われるか分かったものではない。今日は、三人で飲みに行くと言っていたので(あの三人は常に飲んでいる印象だ)、これ幸いと院生室を独占しているというわけだ。
(あー眠い……)
本来の活動時間ではないため、眠気を覚えるのは自然なことだ。それでも、乃依はぶんぶんと頭を振って、目の前の作業を再開した。
英文との格闘は、既に終わっている。細かい部分はやや自信がないが、まあ大意は合っているだろう――そう考え、次なる考察の作業に入っている段階だ。
乃依はマーカーを持って、農学系の論文に線を引いていく。
学部生の頃に比べ、論文を読むスピードは上がったような気がする。読んでいる量も違うのだから、当然といえば当然なのだが、彼女にとっては成長を感じられる唯一の部分であり、些細な事でも嬉しかった。
(やっぱり難しいなぁ)
普段読み慣れない分野だから、猶更だ。しかし、演習で使う課題論文の考察には必要だと、彼女は考えていた。
三本の論文を立て続けに読むと、鞄の中に忍ばせておいたチョコレートを口に含む。今日は徹夜する覚悟で、近所のコンビニで買ってきたのだ。
気付けば、丑三つ時と呼ばれる時間帯に突入している。窓から入ってくる外気が冷たく感じる頃だ。
何だか寒気がしてきたような、と思っていると、急にドアノブに手がかかる音がした。
「ひぃ!」
突然開かれた扉に、反射的に身体がびくっとなる。夜間は警備がかけられているので、不審者が侵入してくる可能性は低いが、そんなことを冷静に考えている余裕はなかった。
どこの誰かも知らぬ来訪者を確かめるために、乃依は恐る恐る扉の方を向く。心臓が自分でも分かるほど、ばくばくと鳴っていた。
果たして、彼女が振り返った先にいたのは――。
「西家君!?」
あまりに存在感がなさ過ぎて顔を忘れつつある、同期の姿だった。
不審者といえば不審者のような風体に、失礼だと分かっていても、一瞬どきりとする。顔見知りでなければ、この場で逃げ出していたことだろう。
「こんな時間に、どうしたの?」
夜通し院生室に籠っていたのならまだしも、こんな時間にやって来るのは普通ではない。何が彼をそうさせたのだろうか、と乃依は不審に思いながら問いかけた。
すると彼は、風の音に掻き消されそうなくらいの声で、「気になることがあって」とだけ言って、そそくさと自分の椅子に腰を下ろした。
「そ、そうなんだ」
顔を隠すように机についた西家は、もう乃依の方は見ていない。彼女と会話をする気もないようだ。
なるほど、と乃依は納得する。
彼の顔が印象に残らないのは、いつも俯いているからだ。自分の存在を隠そうとしている――かどうかは不明だが、少なくとも目立ちたくないです、という意図が感じられた。
(よく分からない人だなぁ)
西家とは学部一年生の時から顔見知りなはずだが、同じ専攻になっても、喋ったことは数えるほどしかない。というか、彼が誰かと話しているのを見たことがない。
乃依にとっては、なんとも言い表しようのない、不思議な人だった。
空の色がうっすらと明るくなってきても、相変わらず院生室は無言が続いていた。
研究しに来ているのであって、お喋りをするために来ているわけではないが、それでもこの静けさは何なんだろう、と乃依は思う。物音一つ立ててはいけないような空気に、一挙一動を変に気にしてしまう。
(西家君は全然気にしてなさそうだけど)
こういうのを、マイペースというのだろうか。
乃依は、そういった人たち(この研究室には多く生息している)を羨ましく思うことがあった。他人の目を必要以上に気にしてしまう彼女にとって、自分のペースを確立している人は、素直に「凄いな」と思う対象である。
西家を観察しながら、関係ないことに頭を使っていた乃依だが、急に鳴り響いた内線電話に、身体をびくっとさせた。
「なんでこんな時間に……」
戸惑う乃依とは正反対に、西家はさっと席を立ち、躊躇なく受話器を取った。
「はい、地理学研究室です」
西家の声は相変わらず細く、ぼそぼそとした口調で話すものだから、近くにいる乃依でも聞き取りづらい。電話の相手はちゃんと聞き取れているのだろうかと、乃依は心配になった。
しかし意外にも会話は成立しているようで、二三分話した後、西家は静かに受話器を置いた。
「どこからだったの?」
電話を置くと、何事もなかったかのように席に戻った西家に、乃依は席を立って自分から訊いてみた。 こちらから問いかけなければ、彼は無言を貫くに違いない。
「三津木研」
「……え? どこ?」
聞き慣れない研究室名に、乃依は聞き返す。文学部の中には、そんな名前の教員はいないから、もしかしたら聞き間違いではないではないかと思ったからだ。
「理学部の」
「理学部って……ああ!」
付け足された言葉で、やっと理解した。
自然地理のゼミは、文学部に一つしかない。そこで、理学部にある地質学の研究室と、しばしば合同で研究を行うことがあるのだ。
その関係か、と納得する。
「いつもこんな時間までやってるの?」
乃依の質問に、西家は無言で首を振った。
「ええと……じゃあ、今日だけ?」
今度もまた、首を振る。
「あ……うん。そっか。そうなんだ」
これ以上続けるのもどうかと思い、乃依は静かに席についた。
(やっぱり謎な人だなぁ)
数少ない同期なのだし、もっとコミュニケーションを取れれば良いのだが、いかんせん彼がこれだ。以前、蓬田が西家と連絡を取ってくれたのが、奇跡のようだ。
(演習の時は、結構喋ってたのに)
都甲の授業では、指名される前に、自分から疑問点を出していた。話し方はともかく、内容は院の授業に相応しいものだったと記憶している。――もっとも、これは周囲の反応を見て感じたことだが。
そこで、乃依ははっとした。目下の課題を解決するのに、ちょうど良い人材がいるではないか。
西家は自然地理だから、英語は完璧だろう。しかも、先の演習でも一目置かれていた。
(西家君なら、何とかしてくれるかも)
乃依の中では、蓬田にアドバイスを求めるという選択肢は消えている。佐合に相談する手も考えたが、彼女とはまだ打ち解けていないので、何となく訊き辛い。厚東と辻原に教えを乞う度胸はないし、志水はそもそも院生室にいない。いよいよ一人で頑張るしかないのか、と思っていたところだが――。
(……よし)
今の今まで西家の存在を忘れていたが、彼の手を借りるのが、最もベストな気がしてきた。
乃依は覚悟を決めて、席を立つ。
近付いていく彼女を気にもしない同期は、パソコンに難しそうな計算式を打ちこんでいた。
「あの、」
話しかけると、西家は傍目にも分かるほどの動揺をみせた。
「ご、ごめん」
謝罪に対してだろうか。西家は俯いたまま、ふるふると首を振る。
何だか悪いことをしているような気になった乃依だが、ここまで来たからには、目的を全うしたい。心の中で「拒否られませんように」と願いながら、おずおずと口を開いた。
「西家君、お願いがあるんだけど……」




