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22.焦る三番手


 志水から貸してもらったレジュメの効力は抜群だった。

 丁寧にメモが取られているので、演習でどのような意見が出たか、流れがどうだったのかがひと目でわかる。しかも、難解な用語はなく、普段使われているような簡単な言葉で書かれていることにも助けられた。

 ちなみに、メモの取り方が斬新で(なぜか口語体で書かれている)、その点が読んでいて楽しめた要因でもある。「←これ違う」「そんなわけない」「いやいや……」などというツッコミを初めて見た時には、「志水さんってこんな人だったんだ」と驚いたりもしたが。

 おかげで、初めて参加するはずの演習でも、それほど抵抗なく入れたのである。

 ただ、想定外だったのは――。


「で、須崎さんの意見は?」


 受講者には、必ず意見を求められるということだった。


「それは――」


 反射的に口を開いてみたものの、それ以上続ける言葉は出てこない。

 本文については、一応翻訳を完了した状態で臨んでいる。しかも、厚東の要約を読む限り、自分の訳とそう大差はないようだった。

 しかし肝心の考察部分となると、これと言って自分の意見が持てていないのだ。筆者の意見そのままでいいんじゃないか、と思ったりもする。要は完全に筆者の意見に引きずられてしまっているわけなのだが――。


「ちゃんと読んできたのか?」


 厚東の声が鋭い。

 乃依は消え入りそうな声で「一応……」と言った。


「じゃあ、なんかあるだろ? まさか、何も考えずに訳しただけじゃないだろうな? そういうのは、「読んだ」って言わないんだぞ」


 もっともな正論である。そして、言われるだろうな、と思っていたことでもある。

 乃依は、俯いて厚東のレジュメを読み直してみたが、やはりまともなコメントはできそうになかった。


「おい、本当に何もないのか?」


 一向に答えようとしない後輩に時間をかけるのも馬鹿らしいと思ったのか、厚東は確認するように尋ねた。

 呆れたような声色のなかにも、わずかに期待と願望が見え隠れする。本当は、乃依に何かを言わせたいのだろうということに、その場にいる誰もが気が付いた。

 しかし、


「すみません……」


 思いつかないものは仕方がない。絞り出そうとしても、それ以外の言葉は思い浮かばなかった。

 厚東はわざと大きな溜息を吐いて、乃依から露骨に視線を逸らした。


「なら、いい」


 声のトーンから、明らかに不機嫌さが滲み出ているが、それ以上乃依を攻撃する気はないようだ。

 この場で槍玉に挙げられることも覚悟していた乃依は、少しだけほっとした。


「じゃ、佐合さんは?」


 乃依の次に意見を求められたのは、佐合絢子だった。彼女もまた、一度も発言をしていない。

 佐合はレジュメに書き込んだコメントを見ながら、「初歩的な質問なんですが」と前置きした上で、自分が理解できていない部分の説明を頼んだ。それはキレのある意見でも何でもなく、本当に単なる「質問」といったものだったが、意外にも厚東の対応は優しかった。


(こういうのでも、いいんだ)


 佐合が質問した部分は、乃依も理解できていなかった箇所である。レベルの高い発言をしなければ、というのが頭を占めていたが、必ずしもその必要はなかったのだと痛感する。


「そろそろ、いいですか?」


 佐合の質問も終わり、全体での共有が済んだのを見計らって、志水がそう口にした。五秒ほど沈黙が訪れていたタイミングだったので、彼女のやや高めの声は、狭い部屋によく響いた。

 途端、厚東は真剣な面持ちで赤ペンを手に取り、構えの姿勢を取る。只ならぬ雰囲気を感じ取った乃依も、全く関係ない人間ながら、すっと姿勢を正した。

 厚東の動作を合図と受け取ったのか、志水は「六点あります」と言って、淡々とした口調で述べ始める。

 しかし今の乃依には、彼女が何を言っているのか、何を問題としているのか、全く理解できなかった。





「志水さん、今日もキレてるなぁ」

「辻原さんは静かでしたね」

「いや、あのさ、俺も結構発言した方だと思うんだけど」

「そうでしたっけ」


 惚けた返事をしてはいるが、勿論、辻原の発言は全て覚えている。それどころか、この場で先ほどの演習を再現せよと言われても、彼女にはそれが出来る自信があった。


「やっぱ演習はこうでないとなぁ。俺、学部の演習にも出てるんだけどさ――ほら、都甲さんに頼まれて。それがもう、レベルが低いのなんのって。それくらい調べて来いよ、みたいなこと質問するし、肝心の内容に入る前にタイムオーバー。あれ、ほんと苦痛なんだよなぁ」

「それはつまり、実りのある議論に持っていけない辻原さんに責任があるってことですよね」

「う、」

「そんな、自分の至らなさを露呈しなくても」

「志水さんがいつになくキツい……」


 舌戦で彼女に勝とうとした自分が間違っていました、と辻原は早くも白旗を挙げた。なんだか色々と、彼女に勝てる気がしない。


「そんなことないですよ。そういえば、来週の報告者は辻原さんでしたよね」

「え、今このタイミングでそれ言う!?」


 もはや叩かれる未来しか思い浮かばない。

 今日の演習でのやり取りを見る限り、彼女は先輩だからといって遠慮もしなければ容赦もしないだろう。

「明日は我が身」的な状況に、辻原はぞっとした。


「楽しみにしてますから」

「怖い、志水さんが怖い……!」

「失礼な――っと、須崎さん!」


 大げさに怖がる先輩を軽く睨んでいた志水は、院生室から廊下に出てきた後輩の姿を認め、声を掛けた。


「は、はいっ」


 振り返り、緊張した面持ちで返事をする後輩。

 志水は困ったように笑いながら、ゆっくりと近付いた。


「レジュメ、読んでみた?」

「え、あ、はい。読んでおいたんですけど……」


 言いにくそうなのは、今日の失敗を思い出してのことだろう。志水からレジュメを借りておきながら、全く成果が出なかったことに対し、罪悪感を抱いているのかもしれない。

 それが察せられたからこそ、志水は彼女に声を掛けたのだった。


「実際にやってみないと、分からないよね。来週も今日みたいな流れで進むから、疑問点なんかを挙げておくと良いよ」

「は、はい」


 意外にも優しい言葉に、乃依はほろりとなる。


「今度はしっかりやって来いよ。他人の報告聞いといて、それにコメントしないってのはルール違反だからさ、何か言えよ」


 横から割り込んできた辻原の言葉からも、そこまでの非難は感じられない。後でダメだし――というか、反省会みたいなことになるのではと怯えていた乃依は、ほっと胸を撫で下ろした。

 志水はどうやら乃依を待っていたようで、それだけ言うと、もう用は済んだとばかりに帰っていった。やはり、大学に残って勉強するという選択肢はないらしい。

 残された乃依は、同じく隣で志水を見送った辻原を見上げる。


「志水さんって――」

「ん?」

「あ、いえ……」


 凄い人ですね、と言おうとして止めた。あまりにも陳腐な言葉だということに気付いたからだ。

 しかし辻原は、そんな乃依の心情を察したのか、「さすがだよなぁ」と言った。


「頭いいよ、ほんと」


 返事をする代わりに、乃依は小さく頷く。


「ま、うちでは一番かな」

「そうなんですか?」


「一番」の定義がはっきりしないとはいえ、てっきり高階や厚東が該当すると思っていた乃依は、彼らよりも年下である志水の名が挙げられたことに驚いた。


「だって、今いるメンバーの中じゃ、唯一文学部の最優秀論文に選ばれてるし。あの厚東さんや高階さんを抑えて、ウチの優秀論文に選ばれた人がいたんだけど、その人だって外したのにさ」

「え……」


 初耳だった。志水が受賞したのも驚きだが、厚東や高階が地理学研究室の優秀論文にすら選ばれていなかったことも衝撃だ。どれだけレベルが高いんだ、あの代――と、乃依は思った。


「ちなみに、今、その人は……?」

「ああ、マスターから外に出たよ。自然地理の人だったからさ、ウチよりかは別んとこ行った方がいいだろ? けど今、日本にいるのかな」


 この大学の地理学研究室は、どちらかというと人文地理の方が強い。人文地理の教員が二人いるのに対し、自然地理は一人しかいないことにも、はっきりと表れている。


「よし、俺もやるか!」


 突如、辻原が大きな声を上げる。そういえば、次の報告者は辻原だった、と乃依は思い出した。

 そしてその次、三番手が彼女なのだが――。


(確実に、私の回でレベルが下がる予感が……)


 お願いですから、そんなに気合を入れないで下さい……という乃依の願いは、誰にも届くことなく、ひっそりと消えていった。



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