21.知ってしまった後輩
プラスチック容器に詰められた白米をまじまじと見る後輩に、高階は苦笑いをしながら「普通の米だよ?」と言った。
「いえそんなっ、凄く美味しそうです!」
「ええと……どうも、ありがとう」
どう見ても「凄く美味しそう」には見えないが、気を遣ってそう言ってくれた後輩の言葉を無駄にするわけにもいかず、高階は素直に礼を言う。それに、自分の家の米が褒められて、素直に嬉しかったのは事実だ。
「ご実家が農家だって、初めて知りました」
「そっか、言ってなかったっけ」
そういえば、彼女に実家の話をするのは初めてかもしれない、と高階は思った。
「って言っても、兼業農家だけど。農協にしか出してないしね」
「お米を育てられてるんですか?」
「米と、あとは野菜を適当に」
一応毎年決まった作物を育てているが、年によって別のものに変えることもある。基本的に、収穫できたものを近所の生協に卸しているのだ。
高階が説明すると、乃依は「そうなんですか」と言った後で、「実は」と続けた。
「うちも色々育ててるんですよ。農家じゃないんですけど、畑でちょこちょこと」
今度は、高階が「そうなんだ」と言う番である。しかし、以前に山間部の出身と聞いたことがあったので、さして驚きはなかった。
それから、どんなものを育てているだとか、実家に帰った時には手伝いをさせられるだとか、そういった話になった。
高階は農業トークが好きなのか、いつもより口数が多く、乃依は思わぬ収穫を得た。そして、農業形態に関して地域性を交えて話してくるのを聞いて、やはり地理学を専攻する人間だな、としみじみと思った。
「――ああ、もうこんな時間か」
微妙な盛り上がりをみせていた農業トークだったが、隣の席が空き、近くのテーブルから次々と人が去って行くと、高階は思い出したように腕時計を見た。
気付けば、三限目の授業はとっくに始まっている。彼らが時間を気にせずにいられたのは、ひとえに授業の少ない院生という身分のおかげである。
高階は白米を入れていた容器を仕舞い、乃依も椅子に掛けていたコートを羽織った。
四月も終わりだというのに、相変わらず外は冷える。学食の入っている建物――学生会館を出ると、びゅうっと風が吹き付けてきて、乃依は身震いした。
「僕は、図書館に寄って帰るから」
文学部棟に戻ろうとしていた乃依は、高階の言葉に足を止めた。
総合図書館という、これまた何故「総合」なんて名前をくっ付けるのか不明な図書館は、文学部棟とは別方向にある。つまり、ここで彼とは別れないといけないわけだ。
乃依はそれを残念に思いながらも、「はい」と言って、軽く頭を下げた。
(私も散歩して帰ろっかなー)
高階の後ろ姿を見送りながら、乃依は文学部棟へと向かいかけていた足を止めた。
このまま院生室に戻るのは、なんだか勿体ない気がする。何が、と言われると上手く答えられないのだが、とにかく「そういう」気分だった。
よし、と心の中で言って、乃依は反対方向へと方向転換した。普段は行くことがほとんどない、農学部方面に向けて。
農学部へは、学生会館から歩いて十分ほどかかる。キャンパスの端に位置しており、関係者以外の人通りは少ない。乃依は火照った身体を冷ますように歩くスピードを緩めながら、周りの景色を眺めた。
農学部を抜けると、キャンパスの裏門にあたる場所に行き着いた。ここから農学部とは逆方向に続く道は、「並木通り」と呼ばれていて、暇な学生達の憩いの場となっている。文学部からは距離があるため、乃依はあまり来ることがなかったが、辻原はよく散歩しに来るらしい。
聞いてもないのに本人が勝手に喋った内容によれば、「煮詰まった時に、ここに来ると落ち着く」とのこと。なお、来るときはたいてい夜中で、しかも一人で来るらしい。なんと迷惑な、と乃依は、ベンチに並ぶカップルを見ながら思った。
と、その時、彼女の耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「いやだから! ――え、いや、なんで。んなわけないじゃん。ちゃんと覚えてるって。――はぁ? 違うって。研究が忙しいだけなんだって、ほんとに。今、投稿用の論文書いてて、それが一段落しないと――え、いや、そういうんじゃ……俺はただ――」
辻原だ。
昼間なのに、何故こんなところに? 聞いていた話と違う。
乃依は激しく動揺した。
「あ、ちょっ、待っ――」
辻原の叫びは、爽やかな青空に吸い込まれていく。それ以上続けられないのは、彼の言葉を受け入れてくれる人間が、もはやいなくなってしまったためだろう。
やがて彼は、ふぅと大きな息を吐いて、手に持っていた携帯電話をポケットに仕舞った。
(これは、見てはいけないものを見てしまったような……?)
そろり、と乃依は足を動かす。幸い、まだ気付かれてはいない。このまま静かに立ち去れば、何事もなく終わるはずだ。
出来る限り気配を消し、乃依は辻原の視覚から逃れようとする。じりじりと後ずさりするように足を動かせば、だんだんと先輩の姿は遠ざかっていった。
(よし、いい感じ!)
このまま逃げよう、と考えた、その瞬間だった。
ギャッ、と小さな声がして、そして右足に当たった感覚に気付き、乃依は思わず「わっ」と声上げた。
何事か、と思って足元を見れば、一匹の猫が猛ダッシュで乃依の傍から離れていくところだった。
(ね、猫……?)
そういえば、並木通りには猫が集まっている、と聞いたことがあった。多くはキャンパスに棲みついて、学生や教職員に可愛がってもらっているらしい。人間にも慣れているので、近寄っても逃げないどころか、逆に寄ってくるのだとか。
そこで、乃依はどうやら近寄ってきた猫に足が当たってしまったことを自覚した。ごめんなさい、と心の中で謝罪する。
嫌われてしまったらどうしよう、と心配し始めた彼女だったが、肝心なことを失念していた。
「須崎さん!?」
「ひぃっ!」
いかにも「びびってます」というような声を上げる乃依。猫にぶつかった時よりも、大きな衝撃が彼女を襲う。
「え、いつからいたの? もしかして、さっきの電話聞いてた? マジ? そーれは、ちょっと恥ずかしいんだけど。え、どこから聞いてた? てか、内容わかった? ねえ」
「あ、いえ、その……」
乃依は、後ずさりしそうな足を必死でその地に縫いつけて、なんとか言葉を絞り出した。
聞いたかと問われれば聞こえたが、それはほんのわずかな間だけで、勿論内容なんて分からない。
しかし、これは単なる勘というやつなのだが――相手は、女性のような気がした。それも、相当に親しい間柄の女性。つまるところ、彼女さんなのではないか、と。
が、それを口にするほど馬鹿ではない。ここは知らぬ存ぜぬを貫き通し、「なかったこと」にした方が、ずっと楽だということを、彼女は知っていた。
「どう? 須崎さん」
「あの……さっき来たばかりなので、全然……」
「マジで? 信じるよ? 信じていい?」
「う、あ、はい……」
辻原の真剣な眼差しが痛い。
乃依はほんの少しの罪悪感を抱きながら、こくこくと頷く。
「そっか、なら良かった」
単純な彼は、すっかり後輩の言葉を信じてしまったようだ。もしくは、信じたいものを信じた、という原理なのかもしれないが。
「あ、何があったかは気にしないで。てか、出来れば忘れてくれると助かる」
「あ、はい」
言われなくても、そのつもりだ。今度はしっかりと頷いた。
「ところで、何でこんなところに?」
「あ……ちょっと、散歩に……」
「ふーん。一人で?」
「……はい」
周りに散らばるカップルを尻目に、乃依は若干低い声で答える。彼に悪意がないのは理解しているが、あまり詮索しないでほしい。
乃依のトーンに異変を感じたのか、辻原はそれきり突っ込んで聞いてこようとはしなかった。その代わりに、
「なあ、研究ばっかしてる奴って、どう思う?」
「……はい?」
「だから、女子的に。研究ばっかしてる男って、やっぱつまんねーかな」
(ええええええーっ!?)
聞く? それ聞いちゃう? 今、この場で。
――と、乃依は信じられないものを見る目で、辻原を見た。辻原に対して、初めて「この人、大丈夫だろうか」と思ってしまった瞬間である。
しかし、それも無理のないことだ。あろうことか、自分からさっきの会話の内容を暴露しているのだから。
「ええと……あの、」
「あ、ちょっと聞いてみただけだからさ、深く考えないでよ。軽ーく答えてくれればいいからさ」
いやいや、軽く答えられるようなことじゃないでしょ、と事情を察している乃依はツッコむ。
仮に、ここで彼女が考えのない発言をしてしまえば、辻原と「彼女」の仲がこじれる場合もある。そんな責任重大なことを「軽く」考えられるはずもなかった。
「そうですね……」
考える素振りをするが、実は全く考えていない。彼女が考えていることと言えば、この場から離脱する算段だけだ。
なかなか回答をもたらさない後輩に痺れを切らしたのか、辻原は「じゃあさ」と言った。
「そういう奴と、敢えて付き合いたいと思う?」
「え、ええと……」
ますます核心に迫る発言に、乃依の焦りは増すばかりだ。この人、なりふり構わなくなってるんじゃないだろうか、と思うも、それを指摘することはできない。
なおもはっきりとした答えを示さない乃依に、辻原は少しイライラしたように言う。
「例えばさ、高階さんとかと、付き合いたいとか思うか?」
え、と思ったのも一瞬。
「なんで高階さんなんですか!」
これまでとは打って変わって、急に溌剌とした態度を見せる後輩に、辻原は目を丸くした。
「え、いや……その、別に俺でもいいけど。――あ、いや、俺は駄目か。じゃあ、厚東さんとか。誰でも」
いくらか態度を軟化させた辻原は、さきほどの発言に深い意味はないことを伝えようとした。
たまたま乃依の近くにいる異性を例に挙げただけで、特に高階である必要性はない。要は、良くも悪くも研究一筋な人間と付き合う気はあるのか、ということを聞きたかっただけだ。
それを聞いた乃依は、ほっとした表情で息を吐いた。ややあって、静かに口を開く。
「そんなこと、考えたこともないです」
「何、俺ら対象外? 相手は外で見つけるって?」
「あ、いえ、そういう意味ではなくて!」
何と言えば良いのだろう、と乃依は考える。
「そういう基準で考えたことがないです。研究熱心なことって、マイナスポイントだとは思わないですし……。だから、敢えて、かどうかはわかりませんけど……それが理由で、付き合えないってことはないと思います」
たぶん、と乃依は心の中で付け加える。
自分の場合はそうだが、他人まで同じだとは限らない。特に研究室のことを知らない人間からすると、違和感を持つこともあるだろう。たとえば、全く別の業種で働いている人なんかは。
とはいえ、それをわざわざ指摘するなんてことはしない。
「つまらないってことは、ないですよ。私は凄いなって思ってます」
とどめとばかりにそう言うと、辻原は「ふーん」と言った後、何度か頷いた。
「あの、」
「ん、参考になった。ありがと」
それだけ言って、彼は軽く手を挙げた。
こんな感じで良かったのだろうかと、乃依は不安になったが――文学部棟へと戻る彼の足取りがなんとなく軽いように思われて、彼女の心も少しだけ軽くなった。
21話に登場する猫は、「猫が叶えた~」の猫とは別人ならぬ別猫です。念のため。




