20.招かれざる客、もしくは邪魔者
不味い現場に足を踏み入れてしまった。
志水周子が院生室の扉を開け放った時、真っ先に思ったのがそれだった。
「こんにちは」
ばっちり二人分の視線を同方向から受けてしまったため、仕方なく挨拶をする。すると二人は、ごく自然な様子で挨拶を返した。
ぱっと見では、全く不自然さを感じさせない光景である。動揺している様子も見受けられない。
この二人は、考えていることが顔に出やすいタイプで、しかも根が正直だから、とっさに表情を作るなんて器用な芸当はできないはずだ。とすると、それほど「不味い現場」ではなかったらしい。
と、志水は、冷静に状況を分析した。
が、内心どう思っているのだろう。志水は二人の様子を観察しながら、早くも部屋を出るタイミングを計り始める。
そもそも、院生室にどうしても用事があったわけではない。ゼミが終わって、煩い三人衆が学食へと繰り出していったため、院生室に顔を出してみるかと思っただけである。読みたい雑誌もあったし、何より高階がいるだろうから、偵察――もとい様子を窺ってみようかと思ったまでのことだ。
それが、とんだ誤算だ。
ふらりと出て行くか――志水がそう考えた瞬間、
「そういえば、志水さん」
高階に呼び止められた。
志水は「何ですか?」と言って、入口に向かいかけていた足を止める。
「去年の、都甲先生の演習のレジュメある?」
「ありますけど」
「須崎さんに見せてあげてくれないかな。彼女、進め方が分からなくて、困ってるみたいだから」
「自分のがあるじゃないですか」
彼だって、数年前に同じ授業を受けていたはずだ。あの、厚東と一緒に。
「僕のは、結構前のだし……」
言いにくそうにそう答えた高階を見て、志水は「ああ」と冷めた声を出した。
「捨てたんですね」
「え、いや、そんなことは……」
途端に焦りをみせる先輩に、志水はやはり、と思った。
自分だって、学部時代のもので、不要と判断したものは捨てている。演習での下手な報告レジュメなど、持っていたところでただのゴミだ。
――なんてことをさらりと言ったところ、辻原には「怖ぇ」と言われてしまった。
失礼な、と志水は思う。自分だって、同じことを思っているくせに。
「捨てたんですよね」
念を押すように言うと、高階は困った顔をしながら、「そんなことは、ないと思うんだけど……」と口をもごもごさせた。
(まったく)
往生際の悪いこと、この上ない。――いや、あっさりと「捨てました」と開き直られても困るのだが。
「家に帰って探したら、あるかもしれないし……」
「それ、絶対見つかりませんよ」
「……ああ、うん……まあ、そうかも……」
高階は目を泳がせながら、言いにくそうに肯定した。
彼の隣では、須崎乃依がおろおろとしながら、状況を見守っている。
志水と高階の間ではよくある光景なのだが、彼女が目にするのは初めてだったようだ。どうしたらいいのか分からない、といった風に手を上下させる様はなかなか面白いが、これ以上続けるのも可哀想なので、志水はようやく「いいですよ」と言った。
「家にあるので、明日持ってきます。――須崎さん、明日来る?」
志水が急に話を振ると、乃依はびくっとして、直立不動の姿勢を取った。
「え、あ、はい! 来ます!」
「朝、いる? 私、明日は九時からバイトなんだけど」
「それまでには来ます!」
どこの軍隊だ、と思いながら、志水は明日持って来る旨を伝えた。努めて優しい口調をとったつもりだったのだが、後輩の態度は変わらず硬いままだった。
「よろしくお願いします!」
「あぁ、うん。それじゃ……」
床に張り巡らされたコードやケーブルに引っ掛からないようにしながら、足の向きを変える。
「あれ? 志水さん――」
「帰ります」
「え、なんで。来たばかりなんじゃ――」
「帰りたくなったので」
「ええっ?」
高階の驚いた声を背中に受けるも、気にしない。志水は律儀に挨拶をしてから、院生室を退出した。
志水が出て行った後、院生室には何とも言えない空気が訪れた。嵐というほどのものではないが、確実に何かが過ぎ去っていった跡が残る空間だった。
高階は意識を廊下に集中させ、その可能性がないと判断すると、ゆっくりと口を開いた。
「とりあえず、レジュメの件は解決したね」
「あ、はい。ありがとうございました」
「彼女はちゃんと整理してるし、書き込みも多いだろうから、参考になると思うよ」
自分がレジュメを捨てていた云々に関しては、触れるつもりはないらしい。高階は、あとは志水に任せるとばかりにそう言った。
「志水さんって、結構話される方なんですね」
「え?」
「いえ、あの、なんか物静かなイメージだったので」
博物館バイトの時に、辻原や蓬田をこき使っていた姿を除けば、普段は一人でいるイメージが強い。そしてたいていは本を読んでいるか、仕事をしているので、こんな風に誰かと雑談をしている姿は、乃依にはやや意外だった。
というか、志水の突飛な言動には内心驚いている。高階とて、一応は彼女の先輩にあたるのではないだろうか。
乃依がそんなことを思っていると、
「そうかな。いつもあんな感じだけど」
「そうなんですか?」
「うん。……まあ、ちょっと変わってるよね」
その言葉には何と返事をしたら良いか分からず、乃依は曖昧に笑う。
「昔はあんな感じじゃなかったんだけどなぁ」
「え?」
「学部の頃はもっとこう、普通だったというか……あー、普通って言うと怒られそうだけど」
と、高階は苦笑した。
「高階さんは、よくお話されるんですか?」
「ああ……うん。そうだな。会えば、話すことが多いかな」
思い出すように、高階は視線を上に向けた。
(そっか……)
乃依は、以前に辻原が言っていたことを思い出した。高階と普通に話して盛り上がっている人間がいる、と。
おそらく、志水周子だろう。先ほどの会話から、なんとなくそれが窺い知れた。
だからと言って、志水に対して不快な感情が生まれたかといえば、そういうわけでもない。それは、彼女が高階だけではなく、厚東や辻原に対しても、同じように接しているからなのかもしれない。
(誰に対しても、あんな感じっぽいしなぁ)
とっさに浮かんだ感情を一言で表現しようとすると、羨ましい、だ。
言いたいことが言えず、もやもやした思いを抱えてしまう自分とは大違いだと、乃依は思った。もし彼女のように振る舞うことができたなら、高階との関係も違っていたのだろうか。
「――ああ、もうこんな時間か」
ぼうっとしていた乃依は、高階の一言にぱっと顔を上げた。気付かないうちに、項垂れつつあったようだ。
「あ、すみません。付き合っていただいて」
「いいよ、そんなの。それより須崎さん、しばらくここにいる?」
「え? あ、はい……そうですね。あんまり、考えてなかったんですけど……何か?」
乃依の一日の行動はスケジュール化されていない。唯一決まっているのが授業で、それ以外は自転車操業で行動するという、至って計画性のない日々を過ごしている。学部時代にアルバイトをしていた時には、それなりに決まった時間に決まったことをしていたのだが、卒論のバタバタ以来、すっかり不規則な生活が身に付いてしまったというわけだ。その反省もあって、そろそろアルバイトを再開させようかな、と思っている今日この頃である。
「いや、昼を食べに出ようかと思っただけなんだけど……。もし須崎さんも出るなら鍵を閉めるし、残るんなら、鍵の管理をお願いしておこうかと思って」
「あ……お昼ですか」
時計を見ると、あと十分ほどで一時になる時間だった。言われてみると、お腹が空いてくる頃だ。
どうしようかな、とぼんやりと考えていた乃依だったが、あっと閃くことがあった。
「どうする?」
「あの、それだったら、私も……お昼食べに行きます」
乃依は恐る恐る口にする。
もしかしたら、という期待と、どうか、という希望を混ぜて。
「すぐに出る?」
「あ、はい」
返事が返ってくると、高階は素早くデータを保存し、パソコンをシャットダウンさせた。
プリンターとコピー機の電源はそのままにして、デスクライトだけを切る。机の上を簡単に整理してから、彼は入口近くに掛けてある鍵を手に取った。
「すみませんっ」
鍵のかちゃかちゃという音を聞き、乃依は慌てて彼に続く。
「そんなに急がなくていいよ。忘れ物ない?」
「はい、大丈夫です」
言いながら、そっと鞄の中に手を突っ込む。……大丈夫だ。ちゃんと、財布は持って来ている。
「まだ説明してなかったけど、部屋を空ける時は鍵をかけて、この鍵を研究室のボックスの中に戻しておくんだ。ボックスの場所は知ってる?」
「はい」
「じゃあ、僕はこれ、戻してくるから」
エレベーターと別の方向へ歩き始めた彼を、乃依ははっとして追いかける。このままでは駄目だ。意味がない。
「わ、私も行きます」
「え、いいよ。僕一人で――」
「いえ! 一応場所を確認しておこうと思って!」
廊下を小走りに研究室まで行くと、高階と二人、狭い研究室の入口近くに立ち、キーボックスに鍵を収納した。
「あの……高階さんは、食堂に行かれるんですか?」
研究室を出てエレベーターに向かいながら、乃依は意を決してそう尋ねた。
「そうだけど、どうして?」
「あ、いえ。特には……」
「特には」ってなんだ、とツッコみつつも、それ以上は口に出せない乃依である。志水を見習って積極性を出してみたものの、やはり自分にはこれが限界のようだ。
乃依は、階数の表示が徐々に近付いてくるのを視界に収めながら、これに乗って降りてしまうと、そこで終わってしまうのかと考えた。
(結局、いつものパターンかぁ)
一緒にいる時間は増えたはずなのに、結局のところ一年前から劇的な変化を見せてはいない。メールのやり取りをする権利を得たとはいえ、そこから進展がないので、何とも言えない状況なのだ。
近付いているようで、何も変わっていないような。
(はぁ)
しかし、ふと視線を感じて横を向くと、高階が思いのほか近くにあった。
「え、と」
単純にエレベーターの入口を考えると、あまりに離れているのも変な話だ。もう直ぐこの階にやって来ようというのだから、入口に近い位置にいるのは自然なことと言える。
それでも、乃依は動悸がするのを抑えられなかった。
「須崎さんも、食堂?」
「ぅえ!? あ、はい」
声が裏返ったような気がするが、今は気にするまい。
乃依はこくこくと首を動かす。
「じゃあ、一緒にどう? その、誰かと約束がなければ」
「え、あ……」
上手く言葉を紡ぎだせないまま、乃依は言われた言葉を脳内でリピートした。
一緒にどうか、というのは、勘違いでなければ「昼食を一緒に取らないか」ということだと解釈できる。
今の今まで言いたかった台詞――それが、相手の口からもたらされたのである。
約束? そんなもの、あるはずがない。あってもキャンセル――は無理だから、相手がキャンセルしてくれる数万分の一の奇跡にかけて祈ってやる。
エレベーターの扉が開くと同時に、乃依は大きく首を縦に振った。
「はい、ぜひ!」




