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2.窓辺の先輩


 辻原脩佑(つじはらしゅうすけ)が院生室を訪れたのは、昼を過ぎてからのことだった。

 彼は完全なる夜型人間で、昨日――というか今日も、午前四時まで院生室に籠っていた。その後、一旦下宿先に帰ってシャワーを浴び、布団に潜ったのだ。そんなわけで、彼は十一時前に起床し、学食で朝食兼昼食を取ってから、この院生室にやって来たのだった。


「あれ、高階(たかしな)さん? まだおられたんですか?」


 扉を開けて真っ先に目に入ったのは、窓際の席に座っている高階孝司(こうじ)だった。

 D2(ドクター二年)、つまり博士課程後期二年目の高階は、院生室に自分の机を持っている。彼の席は入口付近であるため、入室してきた人間は、まず高階の姿を目にする。

 ところがこの日、珍しく彼は窓際の席――現在は院生室の住人が少ないので、共有スペースと化している――に座っていた。何でまた、と不思議に思った辻原が窓に近付くと、高階は不意に席を立った。


「ああうん、これから出るところ」

「時間、大丈夫なんすか?」

「急げば、何とか」


 言いながら、高階は自分の机へと戻っていく。


「珍しいっすね。時間に正確な高階さんが。いつも十分前行動、五分前集合なのかと思ってましたよ」

「……ちょっと、色々やってて」


 妙に歯切れが悪い。その様子に辻原は「何か」を感じたものの、敢えて追及はしなかった。


 高階は鞄の中身を確認しながら、自分の机へと向かおうとする辻原に声を掛ける。


「それより――」


 くるりと辻原が振り返る。


「合格おめでとう」

「ありがとうございます――って、なんで知ってるんですか?」

都甲(とごう)先生に聞いた。しかも、今朝」

「……それ、いいんすかね?」

「いいんじゃない?」


 機密漏えい、という言葉は当てはまらない。学部の入試でもあるまいし、そんなことは日常茶飯事だ。辻原も分かっていてツッコミを入れたらしく、仕方ないなあと、苦笑いを浮かべた。


 M2(マスター二年)の辻原が、さきほど博士課程後期、つまりドクターに合格したとの知らせは、こうして高階の耳に届いていた。もっとも、彼が合格することは疑いようのないことではあったが。


「他の連中は? どうせ全員合格でしょう?」

「だぶんね」

「あれ、そっちは聞いてないんですか?」

「全員は知らない。ちなみに、都甲研はドクター二人、マスター一人らしいよ」


 高階のもたらした情報に、辻原は一瞬動きを止める。


「ドクター……やっぱ二人かー」


 何とも言えない溜息とともに、辻原は遠くを見つめる仕草をした。そしてそのまま、大げさな動作で壁にもたれかかる。「精神的なダメージを受けました」ということを、全身で表現したような感じだ。


志水(しみず)さんと二人なのは嫌?」


 高階が何気なく口にした言葉――しかし、それを聞いた辻原は顔色を変えた。


「ちょ、やめてくださいよ! 違いますって」


 室内を素早く見渡した辻原は、わざわざ廊下まで出て行って、その存在を確認する。そして十秒後、部屋に戻って来た時には、明らかにほっとした表情をしていた。


「彼女なら、今バイト中だよ」

「高階さん、いい性格してますよね」


 言われた意味が分からず、首を傾げる高階。辻原は再び溜息を吐いて、よろよろと自分の席へと向かった。


 鞄の中身を確認した高階は、全ての荷物を持って入口へと向かう。


「じゃあ、僕はこれで」

「あ、はい。お気をつけて」


 律儀に頭を下げてくれた後輩に見送られ、高階は院生室を出る。

 ドアに貼りつけているマグネットを移動させ、所在を明らかに。あまり自分を探す人間がいるとも思えないが、一応はルールに従っておく。


(十五分発だから……)


 時計を確認すると、バスの出発時刻まで、もう時間がなかった。やはり辻原の懸念の通り、早く行かないと不味いかもしれない。

 急ぎ足でエレベーターまで向かう。大学は春休みに入っているので、全体的に人は少ない。文学部棟も閑散としており、階によってはゴーストタウンのようになっているところもある。地理学研究室が入っている四階も、調査で不在にしている人が多かった。


 エレベーターは、ちょうど八階から降りてくるところだった。勿論、今ボタンを押せば、十分に間に合う。だが――高階は少し迷った後、人差し指を伸ばすことを止めた。そして、四階を通過したことを確認してボタンを押す。

 廊下には、高階以外に人はいない。彼の不自然な行動に疑問を抱く人間も、当然いなかった。


(次で降りないと不味いだろうな)


 手首を上げて、時間を確認。

 長針は、先ほど見た時とほとんど変わっていない。一つ分進んだだけだ。

 ソーラー電池で、しかも一か月に一回は針を合わせているので、間違いはない。こういうところから、彼は時間に正確だという評価をもらっていた。

 ちなみに、時計をしっかり合わせているのは、彼が附属校で非常勤講師をしているからだ。だから、「どこの」時計と合わせているのかといえば、それは附属校の時計だった。


 エレベーターは一階でしばらく止まっていた。乗った人数が多いのか、荷物の搬入でもしているのか。

 高階は再び時計に目をやり、次いで階段のある方向に視線を移す。どうやら数秒前の判断を誤ったようだと後悔していると、


「高階さん!」


 ひょこっという言葉がふさわしい動作で、後輩が現れた。視線の先――階段から。


(須崎さん?)


 口には出さず、しかし高階はしっかりと、脳内でその名を呼んだ。


 須崎乃依。

 高階の所属する地理学研究室の後輩で、しかも同じ戸田(とだ)研の四年生である。

 性格は真面目。卒論にしっかりと取り組んでいたことは、記憶に新しい。乃依がゼミに配属された当初はほとんど会話をしなかったものの、ここ半年くらいで、彼女の卒論指導を通じて話をするようになった。今では、わりと話をする仲である。

 と言ってもプライベートな話はしないので、いまだ彼女のことがよく分かっていないのだが。


 そんな乃依は、廊下の端からエレベーターホールまで猛ダッシュしていた。低めの音が発せられるのは、彼女がスニーカーを履いている所以である。


(会えた!)


 感激のあまり突進状態になっていた乃依だが、高階のきょとんとした顔を見て、自分の状態を知る。


(はっ、今絶対ヤバい!)


 自宅から大学まで自転車を走らせ、さらに自転車置き場から文学部の玄関まで全力疾走し、その上一階から四階まで階段を駆け上がって来たのだ。身だしなみが整えられているわけがない。

 取り敢えず、手櫛でセミロングの髪を梳かしてみる。なんだか色々と手遅れな気もしたが、そんなことを気にするのも、それこそ今更かもしれないと思い直す。これまで高階にかけた迷惑を考えれば、こんなこと一つでマイナス評価になるとも思えない。


「あ、いえ、その――――こんにちは」

「こんにちは」


 微妙な笑みを浮かべつつ挨拶をする後輩に、高階も律儀に返す。


「お出かけですか?」

「うん、調査」

「あ……そうなんですか」


 乃依は視線を上下左右に動かす。動きやすそうな上下に、丈夫なリュックサックを背負い、肩にはカメラケース――なるほど調査ルックだ。


「凄い走ってたね」

「あ、いえ、その」

「駐輪場から」

「……はいっ!?」


 高階の言葉に一拍置いてから、乃依は素っ頓狂な声を上げた。


「窓から見えたから」

「ぅえええええ!?」


 廊下中に、乃依の声が響き渡った。


 まさか見られていたとは。

 乃依は気まずげに眼を逸らす。確かに、院生室の窓からは、乃依がいつも利用している駐輪場がよく見える。

 が、だからと言って、自分の行動が目撃されていたとは夢にも思わなかった。しかも相手は高階だ。他にもっと見られてもマシな人はいるはずなのに、何故よりにもよって高階。


 がっくりと肩を下した乃依だったが、突然聞こえたエレベーターの稼働音により、がばっと顔を上げた。


「あ」


 開く扉。中は無人だ。

 エレベーターを呼んだ当人は、「ああ」とだけ呟いて、エレベーターに乗り込んでいく。素早く目的の階のボタンを押し、


「そうだ、須崎さん」

「あ、はい」

「合格おめでとう」


「え、」


 エレベーターのドアは静かに閉まっていく。それを、乃依は呆けた表情で見つめた。いつもはイライラするくらい遅い開閉が、この時ばかりはとても早く感じられた。


(えっと……「おめでとう」って……)


 下の階へと切り替わって行く表示を、ぼんやりと眺める。あっという間の出来事で、しかも全く予測していなかった展開なだけに、頭の方が追い付かない。何が何だか、という表現が一番合っているだろうか。


(って、そうだ!)


 エレベーターが一階に止まってからしばらくして、乃依は再起動した。


(それ報告しようと思って急いできたのに!)


 自宅から大学まで自転車をぶっ飛ばし、駐輪場から文学部棟まで全力でダッシュし、一階から四階まで駆け上がってきた、あの苦労はなんだったのか。諸般の事情で自宅を出るのが遅れてしまったのが全ての原因とはいえ、これではあんまりだ。

 乃依はぐたっと、壁に寄り掛かった。格好よく、「合格でした!」と報告したかったのに。高階の顔を見た瞬間、一番話したかった内容がすっぽりと抜けてしまったのである。


(あれ? でも、何で高階さんは知ってたんだろ?)


 高階が都甲から聞いてしまった事実を知るはずもなく――乃依は小首を傾げた。



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