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19.助けを求め、彷徨う者



 これから、どうすべきか。


 乃依は課題論文に思いを巡らせながら、廊下をのろのろと歩いていた。

 昨日、帰宅してから自力で単語を調べてみたが、完璧に論文の主旨が取れているかどうかはかなり怪しい。たぶんこういうことが言いたいんだろうな、というのは分かるものの(これは日本語要旨のおかげである)、細部までは読めていないし、そこからさらに考察まで至るなんてのは不可能だ。参考文献だって、どれを読めばいいのか見当もつかない。まさか、挙げられている文献(ほとんどが英文である)を、全て読めというのか。


(それは、無理)


 そんなことをしていたら、時間がどれだけあっても足りない。死んでしまう。

 もっと効率の良いやり方を考えないと、と考えた時、ふと自分以外の人たちのことが気になった。

 都甲の演習には、都甲ゼミに所属する厚東、辻原、志水と四人の新M1が参加している。しかし、彼らのうちの誰とも、乃依は情報交換をしていなかった。したがって、彼らがどのような勉強をしているのか、さっぱり不明だった。


(けど、ここまで来たら誰かに頼るしかないかぁ……)


 一人で悩んでいても埒が明かない。

 このままいけば、確実に自滅。都甲には叱られ、厚東にけちょんけちょんにされる未来しか見えない。ついでに、辻原や蓬田あたりも参戦してくるだろう。

 

(それだけは――)


 嫌だ、と彼女は強く思った。想像しただけで身震いがする。

 とすると、やはり誰かに頼るのが得策だろう。

 乃依はさっそく、頼れそうな面々を思い浮かべてみた。


(やっぱり高階さん? でも、前に英語はあんまり得意じゃない、みたいなこと言ってた気がするしなぁ)


「うーん」と頭を悩ませる。わざわざ得意ではないと言っている人に頼るのは、いかがなものか。


(じゃあ、大能さん? でも、英語はあんまり、みたいだしなぁ。板倉さんは……どうだろ。得意って話は聞いたことないけど……)


 彼女にとっては不本意な話だろうが、板倉の低スペックっぷりは有名だ。ただ、本人の意欲は低くないため(むしろやる気はある)、研究室内での立場は悪くはない。能力は高くないが、一生懸命頑張っている人、という立ち位置だ。

 乃依は密かに、この板倉に親近感を抱いていた。別に板倉を低スペックだと思っているわけではないが、他のデキる人たちに比べて、「近い」存在であることは確かだ。


(あ、でも板倉さんも去年同じ授業を受けてるはずだから、やり方なら教えてもらえるかも)


 そうだ、と彼女は思い立った。

 直接的な指導をしてもらわなくても、やり方やコツを聞けば良いのだ。これなら聞きやすいし、最終的に自分でなんとか出来るかもしれない。

 そうと決まったら、板倉に声を掛けてみよう。そう考えていると、タイミング良く、後方から板倉の声がした。


「ごめん、今ちょっといい?」

「はい、大丈夫です」


 板倉は申し訳なさそうな態度で、乃依を見上げる。


「えっと、実は来週のゼミのことなんだけど……ちょっと報告間に合いそうになくて。それで、再来週に延ばしてもらってもいいかな? 戸田先生にはオッケーもらってるんだけど……」

「私は大丈夫です」

「ほんと? ありがと~。良かった、助かったぁ」


 心底ほっとしたというような表情で、板倉は手を胸にやる。安堵のあまり、そのままふらりと倒れ込みそうな勢いだ。

 感情がストレートに表れる人だなぁと、乃依が思っていると、廊下の向こうから大能が姿を現した。

 大能はこの春修了予定だったのだが、博論の提出が遅れた関係で、オーバードクターとして大学に残っていた。就職もまだ決まっていないので、今年は博論の提出と就職を目標に掲げている。本人曰く、「早く出たい」とのこと。


「あ、すみません。今、須崎さんに聞いてて……」

「須崎さんも、良いって?」

「はい」


 板倉が言うと同時に、乃依も頷いた。

 実のところ、演習や講義が詰まっていて、ゼミどころではなかったので、ゼミが延期になったのは非常にありがたかった。――板倉の前では絶対に言えないが。


「そう。じゃ、さっそくやる?」

「は、はい。よろしくお願いします!」


 この後、院生室では大能の指導が繰り広げられることだろう。

 乃依は大能から一対一で指導をしてもらったことはないが、板倉があれほど彼女を慕っているのなら、きっと丁寧にやってくれるのだろう、と思った。


(あ、でも演習……)


 二人が完全に見えなくなってしまってから、乃依ははっとした。自分の、当初の目的に。


(いやでも……うん。無理だよね)


 あれでは、大能も板倉も切羽詰っているに違いない。少なくとも、演習のアドバイスを聞けるような雰囲気ではなかった。


(他を当たろう)


 乃依はのろのろと、その場を後にした。





 乃依が院生室に向かっていると、中から都甲研三人衆が出てくる現場に出くわした。「うわぁ……」と思いながらも、出来るだけ表情に出さないように挨拶をすると、それぞれが短いながらも挨拶を返してくれた。

 三人は、全員同じ方向に向かって行く。しばらくそれを眺めていて、乃依はああと納得した。これから都甲のゼミなのだ。

 やはり志水は院生室にはいないようで、授業の前にふらりと現れ、授業が終わるとさっさと帰ってしまうらしい。

 彼らが出て行ったということは、院生室に乃依の苦手とする人物はいない。残っているのは、戸田研のメンバーか、あまり関わることのない自然地理学の人たちということになる。

 ちょっと羽が伸ばせそうだ、と乃依は軽い足取りで院生室の扉を開ける。すると、意外なことに――そして幸運なことに、中には高階しかいなかった。


「あの……こんにちは」


 扉を開けても視線一つ寄越さない彼に、乃依は遠慮がちに声を掛ける。

 院生室に入った瞬間、高階の存在を認めて、彼女はぴょんと心臓が跳ねるのが分かった。ほぼ毎日顔を合わせているとはいえ、周りに人がいるのといないのとでは、全然違う。

 しかし直後、高階の異変に気が付いた乃依は、すっとその感情が鎮まっていくのを感じた。

 上手く説明できないのだが、なんとなく彼の纏う空気が穏やかならざるものに感じられたのだ。もっと直接的な言い方をすると、機嫌が悪い。

 何かあったのだろうかと思いつつ挨拶をした乃依だったが、直ぐに顔を入口に向けて、普段と変わらない表情で挨拶を返した先輩の姿に、ほっと胸を撫で下ろした。


「寒いですね」


 部屋が北側にあるせいか、部屋に入ってもあまり暖かくはない。我慢できないほどの寒さではなかったが、室内でもコートを着用した方が良いような温度だ。


「暖房入れる?」

「あ、いえ! そこまでではないので、大丈夫です!」


 原則、四月に入ってからは暖房の使用は許可されていない。こっそりつける人は多いようだが、自分のために、高階にそれをさせてしまうのは気が引けた。

 乃依が速攻で断ると、高階は「そう」とだけ言って、視線を自分の机へと向ける。

 それきり、沈黙が続いた。


「あの、ええと……院の授業って、大変なんですね」


 乃依は恐る恐る自分の机――高階の机とは距離がある――に移動しながら、やはり恐る恐るそう口にする。

 今はこれ以上話しかけない方がいいのでは? とも思ったが、結局は気まずさに負けてしまった。


「具体的には?」

「と、都甲先生の授業とか」


 言いながら、やはり機嫌悪いのではないか、と乃依は思った。

 高階はあまり多く話すタイプではないものの、こうも素っ気ない物言いをするのは珍しい。ちょっと冷たいな、というのが乃依の抱いた印象だ。


「ああ」


 高階は納得したように頷く。


「英語の論文を講読する――」

「そうです、それです!」


 びしっと指差してみたものの、高階は静かにパソコンに向かっている。どうやら、調査の結果をデータベース化しているらしい。

 乃依はそっと手を下ろした。


「あの……あれって、大変、ですよね……?」

「読める人にとっては、大したことないんだろうけどね」

「…………う」


 それを言われると辛い。

 乃依は学部時代、英語の習得に力を入れてはいなかった。英語の授業も、単位が取れればいいか、くらいの安易な気持ちで受けていた。あの頃はまさか進学するなんて考えてもいなかったとはいえ、もう少し真面目にやっていれば……と、今になって思う。

 項垂れた乃依に、高階は「でもまあ、」と続ける。


「自分の時は、結構苦労したかな」

「高階さんでも、そうだったんですか?」

「うん。わざわざ英語で書かれた論文を選ばなくても、って思いながら読んでた」

「そうですよね!? 日本語ので十分ですよね!?」


 バン、という音とともに、乃依の主張が室内に響く。

 高階は思わず顔を上げ、首を伸ばして音がした方を見た。


「――あ、すみません。つい……」


 後輩は、恥ずかしそうに手を擦っている。


「大丈夫?」

「あ、はい! 大丈夫です。壊れてないです、たぶん」

「いや机じゃなくて、手が」

「え、あ、はい。こっちも大丈夫です。そんなに、痛くはないので……」


 ちょっとジンジンするけど、とは乃依の心の声である。

 勿論そんなことは言えないので、即座に擦る行為をやめ、「問題なし」をアピールした。


「そういえば、あの授業が終わった時は、ほっとしたな」

「え?」

「まあ、M2になったら取らなくていいから。あと一年の辛抱だと思えば……」

「たった今、始まったばかりなんですけど!」


 高階にしては珍しい、冗談を含んだ発言に、乃依は遠慮せずにツッコむ。

 言ってからあっと思ったが、彼女の心配とは裏腹に、彼は声を出して笑った。その瞬間、乃依はこれまで張りつめていた緊張が解け、雰囲気が和らいでいくのを感じた。

 ほんの少しだけ――もしくは、思い違いなのかもしれないが。


「大変だろうけど、勉強にはなるから」

「そうですよね。……きっと」

「『きっと』」


 乃依の言い方が可笑しかったのだろう。高階はその部分を強調するように言って、また笑った。

 なんかいいなあ、と乃依は思う。

 しばらくこういった会話をする機会がなかっただけに、貴重な時間だ。


「――って、すみません! なんか、お邪魔してしまって。……あの、ありがとうございました!」


 もっとこういう時間が増えればいいのに、と思っていた乃依だったが、よくよく考えてみると、彼の研究を中断させていた事実に思い当たった。機嫌が悪そうに感じたのは、忙しかったからかもしれない――そう考えて、慌てて謝ったが、意外にも高階の返事は明るかった。

 

「いや、いいよ。全然。こっちこそ、ありがとう」


 言ってから、再び机に向かい始める。

 なぜ彼がお礼を言うのだろうか――乃依は不思議に思ったが、


(まあ…………いっか)


 この余韻を壊したくなくて、聞かないままでいることにした。




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