18.後悔する新入生
乃依が院生室に戻った時、真っ先に声を掛けたのは、隣の席の住人だった。
「授業、どうだった?」
「ええと……面白そうな感じでした」
ガイダンスだったこともあり、こんな感想しか出てこない。もう少しアカデミックな内容が盛り込めれば良いのだが、今の彼女には無理な話だった。
「あの授業はレポート書いときゃ単位もらえるからな」
「そうなんですか」
「そ。だからそっちは適当にやっといて、修論に専念しろよ」
「あ、はい」
言いながら、乃依は机に荷物を下ろした。
自分の机があるというのはなかなか良いもので、使い古されたボロ机にも特に不満はない。引き出しを開閉する際にきぃきぃと鳴るのが若干耳障りだが、それもすぐに慣れてしまった。
肝心の座席配置に関してだが、厚東には顔を合わせるたびに何かしら話しかけられる。たいていは世間話的な内容だが、研究の話になることもあった。
乃依からしてみれば、あまり話しかけないでもらえると助かるというのが本音だ。とはいえ、迷惑そうな顔をするわけにもいかない。いつも「怒られないように」気を付けながら、当たり障りのない返事をするしかなかった。
ただ――。
(こういうところは、高階さんと違うんだよね)
別に相手が乃依だから、というわけではなく、厚東は頻繁に後輩に声を掛けている。たぶん面倒見の良い人なんだろうな、というのが乃依の抱く印象だ。こういう面は、さすが辻原の兄弟子といったところか。
それに比べて……といっては失礼だが、高階の無関心なことといったら。
乃依はちらりと高階の様子を窺う。
彼は相変わらず、黙々とキーボードを打っていた。頻繁に佐合と会話している現場でも目撃していれば、相当なダメージを受けていただろうが、幸いにもそんなことはなかった。
ただし、それは乃依に対しても同じことで、二人の間に世間話的なものはほとんどない。せっかく同じ空間にいる時間が長くなったのに、と寂しさを感じてしまうのが正直な気持ちだった。
しかし、そこは性格の問題でもあるので、高階に不満を持つのは筋違いというものである。下手に比較対象が現れた所為で、考えなくて良いことを考えるようになってしまったようだと、乃依は自分に言い聞かせることにした。
(今日はもう、帰ろうかな)
時計は既に十八時を回っている。
最後のコマに出たのは学部三年以来で、思いのほか疲れてしまった。今となっては、一日フルで授業を取っていた一年次が懐かしい。あの頃はよくやってたなぁ、と乃依はしみじみと思った。
帰る前にメールをチェックしておこうと、スリープ状態のパソコンを起こす。それからウェブメールを開くと、一通のメールが来ていた。差出人の欄には、高階の名。
(……あ!)
慌てて受信ボックスをクリックする。
が、用件はゼミの連絡という極めて事務的なものだった。
しかも、
(一斉送信……)
乃依だけではない。戸田研全員に送られている。勿論、佐合にもだ。
(いいんだけど! 別にいいんだけど!)
期待しては駄目だ、と乃依は再び自分に言い聞かせる。
それに、よくよく考えると、ウェブメールの方に個人的な内容のメールが送られてくることは少ない。最近は携帯の方でやり取りすることが多いので、パソコン上でのやり取りは減っていた。
(もういいや、帰ろ)
乃依はパソコンの電源を落として、立ち上がった。きぃという椅子の音に、隣の厚東が顔を上げる。
「もう帰るのか?」
「あ、はい。お先に失礼します」
彼女の挨拶に、口ぐちに「お疲れさま」の声が掛けられる。そのなかには勿論高階も含まれていたが、なんとなく事務的な口調に感じられて、乃依はあまり嬉しくなかった。
乃依らの通う文学部では、院を修了するためには、いくつかの教養系科目と専門科目の単位取得、それから修士論文の提出が必須条件になる。
教養系科目については、昨日厚東が言ったように、レポートさえ提出すれば単位を落とされることはまずない。要は優先順位の問題で、こちらに時間と労力をかけるくらいなら、自分の研究に専念しなさい、ということらしい。
そして専門科目は、地理学研究室の中で開講される演習を履修する決まりになっている。自分のゼミだけではなく、他のゼミの授業も取らなければいけないので、結構キツいとの噂だ。
「選択必修」の皮を被った「強制選択必修」の授業は、まず都甲の演習から始まった。
「…………え?」
渡されたレジュメと論文のコピーを見た途端、乃依の目は点になった。聞き間違いでなければ、来週までにこれを読み込んでこいとのことだが――。
(英文? 英文!? なんで英文っ!?)
ずらずらと並ぶ文字は、明らかに母国語ではない。辛うじて要旨部分は日本語で書かれているものの、これだけ読んで「読み込んだ」ことにしては怒られるだろう。「読み込む」ためには、全文を翻訳しなければならないということだ。
「来週の報告者は厚東でいいな。手本を見せてやれ」
「はい」
「演習なんだからな、報告者以外も積極的に発言しろよ。授業に参加しない奴には単位を認めんぞ。わかったか?」
威圧感たっぷりにそう言うと、都甲はさっさと部屋を出ていってしまった。
残された面々で、再来週以降の報告者を決める。乃依は良いのか悪いのか、三番手となってしまった。
報告順でいうと、早ければ多少レベルが低くても許してもらえるが、後になればなるほどハードルも上がる。しかもそれまでの報告を踏まえた議論をしなくてはならないので、かなり厄介だ。それを考えると、最初の方というのは案外楽かもしれなかった。
しかし、厚東がレベルを上げてくるのは容易に想像できる。どちらにしろ、下手な報告はできそうにない。
(いやそれ以前に、これがまともに読めるのかっていう……)
広げた論文を前に、乃依は頭を抱える。
いっそ、wordに打ち込んで翻訳機に突っ込もうかとも考えたが、あまりに手間がかかり過ぎるだろうと判断して却下した。やはり、地道に辞書を片手に訳していくしかない。
乃依は常備している電子辞書の電源をオンにする。
とりあえず単語だけでも調べれば何とかなるだろう。文法は大学受験レベルの知識でも対応できるはずだ。
(あー……この単語何だっけ。ヤバい、見事に忘れてる)
見たことはあるし、数年前までは確実に覚えていたはずの英単語。それが、見事に忘れ去られている。
やっぱり使わないと駄目だなぁ……と思いながら、乃依は緩慢な動作で単語を打ちこむ。出てきた単語を見て、「そうだ、これだよ!」と妙に興奮していると、
「うわ、おまえ一から辞書引いてんの?」
「あ……」
見上げれば、隣の席の住人。
ただでさえ威圧感があるのに、こういう態勢で、こういう言い方をするのは止めてほしい。乃依は、最近心臓が酷使されすぎではないかと、密かに心配していた。
「へぇー、真面目にやってんだな」
「ええと、はい、一応……」
真面目というか、本気で単語が分からないだけなんです、とは言えない。せっかく厚東が、「意味は分かっているんだけど、辞書を引いて正しい解釈を得ようとしている真面目な学生像」をイメージしてくれているのに、わざわざそれを壊してやることはない。
「結構、結構」
その尊大な態度はどこから生まれてくるんだ、と聞きたくなるような仕草で、厚東は自分の席に座った。
「じゃ、しっかり発言しろよ。俺、おまえに振るから」
「え!?」
「なんだよ。演習なんてのはな、自分の意見言ってなんぼなんだよ。黙って座ってるだけじゃ駄目だって、都甲さん言ってたろ?」
「え、あ、はい」
「来週までにしっかり読み込んでくるように。――いいな?」
「は、はい……」
こんなことなら、変な見栄を張るんじゃなかった――そう思うも、後の祭り。隣で勢いよくキーボードを打ち始める厚東に、もはや「読み込むどころか、文意を取る自信すらありません」とは、とても言えない乃依だった。




