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16.騒ぐ学生


 昨日あんなことがなければ、もっと楽しめていたに違いない。

 須崎乃依はウーロン茶をちびちび飲みながら、盛り上がる一角をただ眺めた。


 新歓には、研究室に所属している人間の九割近くが参加していた。毎年、年度末の追い出しコンパと同じレベルで出席率の高い飲み会となる。会場には、普段ほとんど飲み会への出席を断る高階や志水の姿もあった。


「先輩、何か取りましょうか」


 新しく四年生になった後輩(彼はバリバリの体育会系で、必ず「さん」付けではなく「先輩」と呼ぶ)が、暇そうな乃依を見て気を利かせる。料理は一旦取り分けられており、あとは個人が箸を伸ばすようになっているのだが、乃依の箸は止まったままだったからだ。


「あ、ううん。大丈夫。もう食べられそうにないから」

「へぇ。小食なんですね」


 後輩の言葉に「そうなのかな」と当たり障りのない言葉を返し、乃依は全く盛り上がらない自分の周囲を見回した。


 ――いや。盛り上がっていないわけではない。一部は会話が弾んでいる。


(けど、この中に入るのは無理……!)


 隣で会話を弾ませる戸田・高階・佐合と、修論について話をしている大能・板倉。その、どちらのグループにも入れない乃依は、完全に孤立状態だった。

しかも、少し離れた場所からは、都甲ゼミの面々が騒ぐ声が聞こえる。あのゼミは何だかんだで全員仲が良いのだ。


(こういうのが、一番嫌なのに)


 グラスをくるりと回すと、溶けかかった氷が小さく音を立てた。長い間握りしめていたせいで、ウーロン茶も随分生温くなっている。

 乃依はおしぼりで手を拭くと、痺れそうになっている足を小さく崩した。普段こたつで正座していることが多いので慣れてはいるが、あまり長時間そうしているのは得意ではない。

 早く終わらないかな、と周りの状況を窺っていると、


「須崎、須崎」


 あまり大きくはない声で、しかしはっきりと、自分の名を呼ぶが聞こえた。

 見れば、都甲ゼミの中から蓬田が手まねきをしている。「こっちへ来い」との指示に、乃依は戸惑いながらも膝立ちする。


「何?」


 喧騒に掻き消されて、乃依の声は蓬田には届かなかっただろう。それでも、口パクで十分に通じたらしい。蓬田は「いいから来いって」と言って、さらに手招きを強めた。


(凄く行きたくない……)


 それが本心だ。蓬田一人でも戦々恐々なのに、そこに厚東や辻原も加わってみろ。敵地に単身乗り込んでいくようなものである。志水がいるのが唯一の救いだが、常に味方になってくれるとは限らない。あまり当てにはできないだろう。

 しかしながら、ここで「ノー」と言える乃依ではない。結局、嫌々ながらも立ち上がった。


「暇そうじゃん」


 いつから乃依のことを見ていたのか、極めて的確な指摘だった。

 否定する余地もないくらいの事実だったので、乃依はうっと詰まった後、「まあ……」と適当な返事をした。


「こっち来いよ」

「え?」

「向こういてもつまんねーだろ。グラスと箸持って来いって」


 蓬田は本心からそう思ってくれているのだろうか、と乃依は思った。しかしよくよく見てみると、酔っぱらって絡んでいる風でもなく、どうやら親切心からの誘いのようだった。

 とはいえ、それが乃依にとっての親切になるかといえば、別問題だ。


「そんなことないよ。今はちょっと話に入ってないだけで」

「ふぅん。にしては、結構前から退屈そうだったよな」

「そ、そうだっけ!? そんなことないと思うんだけど……」


 わたわたと慌てる乃依をどう思ったのか、蓬田はそれ以上追及してはこなかった。その代わり、


「ま、どっちでもいいや。とりあえず、俺戸田先生と話したいから、席替わってしてくれよ」


 それが狙いか! と乃依は心の中で叫んだ。

 蓬田が気を利かせるなど、おかしいと思ったのだ。一瞬だけでも蓬田のことを親切だと思った自分が馬鹿らしい。


「でも、私も戸田先生と話したいことあるし……」

「話せてねーじゃん」

「うっ」

「それに、いつもゼミで話してんだからいいだろ。なんだってこんな時まで身内で固まるんだよ」


(そんなこと私に言われても……)


 何やら面倒なことになりそうだ、と乃依は瞬時に判断した。このまま蓬田と話し続けていたら、聞きたくもない不平不満まで聞かされそうである。

 仕方なくグラスと箸を持って来ると、蓬田は「悪いな」と申し訳程度に言ってから、自分も席を移動した。


(それで、私はどこに座れば……)


 蓬田と席を交換したのだから、彼が元いた場所に座れば良い。本来ならば。


(いやいやいやいや)


 しかし、乃依はその席を見た瞬間、「ないな」と思った。

 都甲ゼミのグループなのだから、彼らがいるのは当たり前なのだが、それにしても。


(両サイドが厚東さんと辻原さんって……)


 色々と有り得ない。確率的には大いにあり得ることかもしれないが、乃依の中では「ない」。

 絶対に、ない。


(端っこの目立たないところにいよっかな)


 幸い、端の席には志水がいる。何とか頼み込んで、紛れ込ませてもらおう――乃依はそう考えた。が、


「あ、須崎さん。こっち来たんだ」

「おー須崎乃依(のい)!」


 目ざとく乃依の姿を発見した辻原は、同じテーブルの厚東にもしっかり聞こえる声で、乃依を呼ぶ。出来るだけ目立たないように、というか存在がバレないように移動するつもりだった彼女は、もはや逃げられない状況を察して絶望的な気分になった。

 乃依が、「蓬田君が戸田先生と話したいって言ったので」と事情を説明すると、二人は「ああ」と納得した表情をした。


「ところで、須崎さんってノイ? だったっけ」

「あ、いえ……その、ノエです」


 辻原の質問に、乃依は遠慮気味に答える。彼が勘違いした原因となった人物を、横目で窺いながら。

 すると、予想通りに厚東が驚きの声を上げた。


「え、これでノエ!?」

「あ、はい。ノエ……です。よく間違われるんですけど」


 乃依が申し訳なさそうに言うと、厚東は「ふぅん」と呟いた後、「悪い悪い。普通にノイだと思ってた」と言って謝罪した。


「厚東さん、そういうの多いっすね」

「そうかぁ?」

 厚東が辻原を軽く睨む。


「志水さんの時だって」

「いやだって、あれ、チカコなんて読めねーだろ。おまえ、読める?」

「え!? あ、はい。読め、ました……一応」


 急に話を振られた乃依は、慌てて答える。


「なんで? どうやって?」

「え……ええと……藤原伊周と同じですよね……」

「は? フジワラノコレチカ? 誰、それ」

「え、ええと――」


 どうやら高校で日本史をやっていないらしい厚東に、乃依は大学受験レベルの知識を披露する。受験なんてとっくの昔のことなのに、意外と覚えているものだな、と思った。


「てか、なんで日本史詳しいの?」

「え、あ、それは……」


 辻原のもっともな指摘に、乃依は内心「うっ」となった。隠し通すつもりはないが、敢えて自分から言うことでもない。出来れば知られたくなかったのだが――。


「あ、もしかして、日本史で受験したとか?」


「もしかして」と言いながらも、確信を持っているかのような口調。彼の鋭い分析力を前にしては、乃依は白状するしかなかった。


「高校の時、文系は日本史か世界史の選択だったので……」

「地理はやってないわけだ」

「そうです……」


 教育課程がそうなっていたのだから仕方がない――そういう言い訳は、一応は成り立つ。

 とはいえ、地理を選択できたとしても、それを選ぶことはなかっただろうな、と乃依は思う。もともと日本史の方に興味があったからだ。


「へぇ。じゃあ、なんでウチに? やっぱ大学入ってから?」

「あ、はい。授業取ってたら、地理も面白くなって」

「へー。ま、そういう人、ウチは結構多いけど」

「チカちゃんもそうだしな」

「あ、そうなんですか」


 志水と同じパターンだと分かって、乃依はほっとした。これは心強い。


「よし、じゃあ地理のどこにハマったのか、じっくり聞かせてもらおうか」

「え」

「ほらほら、須崎さん。グラスが空いてるよ」


 これからの展開を想像して固まる乃依の目の前で、ビールがなみなみと注がれる。辻原は残ったビールを自分のグラスに入れて瓶を空にした。


「すいませーん、瓶ビール追加で!」


 そんな声が、どこかで聞こえる。

 乃依は呆然としながら、じわじわと泡が消えていくグラスを見つめた。


「はいじゃあ、乾杯ー」

「乾杯」

「は……はい」


 三つ分のグラスが音を立てる。その乾いた音が、乃依には中間報告の折に聞いた「恐怖の卓上ベル」のように聞こえた。


(そうだ! 志水さん!)


 このままではマズい。助けを呼ぼう。さっと首を動かして、志水の方を向いて助けを求めるも――。


(駄目だ! 全然見てない!)


 黙々と箸を動かす志水は、乃依の窮地に気付くはずもなく。

 乃依は厚東と辻原に挟まれる羽目になった。



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