12.都から来たお嬢様
志水から言われた言葉が頭から離れない。
乃依は危険な徐行運転をしながら、早朝のキャンパスを横断する。いつもなら「爆走自転車」の異名を取る愛車も、今はその威力を全く発揮できていない。
(仲悪いって……どんなレベルなんだろ)
一言も話さないくらいだから、相当だということは見当がつく。
しかし、あの高階にそこまで嫌悪する相手がいることが、乃依には意外だった。
(高階さんだって人間だし、そういうとこはあるだろうけど……)
別に彼を「いい人」として美化していたわけではない、と思う。誰とでも良好な人間関係を築けるような素晴らしい人格者とまでは思っていないし、性格的に合う・合わないくらいはあるだろう。
ただ――。
(あーっ! よく分かんないけど、もやもやするーっ!)
この、言葉では表現できないような息苦しさは何なのだろう。
急にペダルに力を入れた乃依の自転車は、坂道を駆け上がって行く。その姿が他の学生の注目を集めていることなど、今の彼女には気付けるはずもなかった。
「おはようございますー」
研究室には、やはり誰もいなかった。
事務員さんに挨拶をしてから、乃依は適当に椅子に座る。今日からは院生室に移らなければならないはずだが、肝心の座席が決まっていない。昨日は新しく入って来たマスターが全員揃わなかったので、結局決められなかったのだ。
ゼミ開始まで、あと十分ほど。
乃依は時間にうるさい方ではないが、高階にしろ指導教員の戸田にしろ、かなり時間には正確だ。遅刻でもしようものなら、冷たい視線が飛んでくるので(敢えて怒ったりはしない)、ゼミだけはちゃんと早めにくることにしているのである。
(高階さん遅いなー)
いつもなら、とっくに来ていても可笑しくないのに。
乃依はぼんやりと窓の外を見る。遠くに駐輪場が見えるが、高階は徒歩通学である。詳しい場所までは知らなかったが、大学からは比較的近い場所にアパートを借りていると聞いていた。
何をするでもなくぼうっとしていると、換気のため開け放たれている入口の音も、自然と耳に入ってくる。コツコツという静かな足音が、研究室の前で止まるのを、乃依は確かに聞いた。
「あ……」
入口から女性が顔を覗かせるのと、乃依が口を開けるのはほぼ同時だった。
女性も、乃依の存在に気付き、「あっ」と小さく声を漏らす。次いで、「失礼します」と言って遠慮がちに部屋に入ると、丁寧なお辞儀をした。
「おはようございます。あの……地理学研究室で、合ってますか?」
「あ、はい。合ってます」
反射的に答えながら、乃依は別のことを考える。
(この人……)
見慣れない顔だが、彼女が誰なのかは想像がつく。前日の板倉の言葉を思い出せば。
「あのっ」
勇気を出して声を掛けると、女性はぴくりと身体を反応させた。乃依の妙な気迫にたじろいだようにも見える。しかしそれには気付かず、乃依は乗り出すようにして、頭に浮かんだ可能性について問うた。
「佐合さん、ですか?」
「はい。そうです」
やっぱり、と乃依は思う。板倉の情報は正しかった。
「戸田先生のところの、須崎です。同じM1ですよね、たぶん」
「あ……はい! そうです。今年度からお世話になります、佐合です」
女性――佐合は名乗った後、ゆっくりと頭を下げた。乃依も慌ててそれに倣う。
「これからゼミですよね?」
「あ、はい。そうです。そろそろみんな来ると思うんですけど……なんか、今日は遅いみたいです」
「良かった。時間間違えたのかと思って」
ほっと安心した表情をみせる佐合。
乃依は思わず、彼女から目が離せなくなった。
柔らかな微笑みは、それだけで人を惹きつけることができる。作り物ではない自然の表情は、彼女の内面を表しているとも言える。
雰囲気のいい人だな、と直ぐに乃依は感じた。それとともに、自分にはこういった表情は出来ないだろうと思う。たぶん、一生かかったって無理だ。
自分との明らかな違いに、少なからずショックを受けていると、
「高階さん?」
上品な声は、急に廊下に向けられた。
え、と乃依が思った時には、既に佐合の姿は隣にはなかった。
廊下に出て行く後ろ姿。それを見ながら、乃依は彼女の弾んだ声を聞いた。
「ご無沙汰してます」
たぶん今、あの表情を浮かべたに違いない――。そんな考えが、ぼんやりと乃依の中に生まれた。
「東京の藤谷女子大から来ました、佐合絢子です。卒論では――」
上品が声が、小汚い教室に反響する。
こういったタイプに免疫のない戸田研一同は、ある種の緊張感をもって彼女の自己紹介を聞いていた。
(藤谷女子大って、確か物凄いお嬢様学校だったような……)
自分には縁のないところだと思っていたが、まさかこういう形で関わることになるとは。
乃依は、恐る恐る佐合を窺う。
全員の視線を浴びているのをものともせず、卒論の内容をしっかりと話している佐合は、なんだかとても頭が良さそうに見える。しかも美人でお嬢様。どれだけハイスペックなの!? という感じだ。
ついでに高階の様子をチラ見してみると、興味深そうに佐合の話を聴いており、その姿を見て乃依は我に返った。
(ちゃんと聞いとかないと)
上の空では彼女に失礼だ。
乃依は佐合の自己紹介に耳を傾けようとした。が、どうしても先ほどのやり取りが気になってしまい、集中できない。
(感動の再会……っていうのは、考え過ぎかなぁ)
高階と佐合の関係について詳しく知ることは出来なかったが、どうも学会で一度顔を合わせたことがあり、その後研究室訪問の際に、高階が佐合を案内したことがあるらしいということが分かった。もしかしたら、その学会とやらで出会ったことを切っ掛けに、佐合は高階のいる大学への進学を希望したのかもしれない。だとすると、感動の再会どころではなく――。
(追いかけて来た、って感じ……?)
そこまで考えて、乃依は再び高階の表情を観察した。
再会を喜んでいる風ではないが、内心どう思っているかは定かではない。これほどのハイスペック女性に「高階さんを追いかけて来ました」とでも言われれば、嬉しくないはずがないではないか。
(まさかこんな展開が待ち受けていようとは……)
大学院に進学して、気持ちも新たによしやるぞ! と思っていた矢先の、この状況。出来ることなら、半年前のあの頃に戻りたい、と乃依は切実に思った。
「――今、どうなってるんだっけ? 須崎さん」
「は、はいっ!?」
打ちのめされていた乃依は、たった今思考の中心にあった先輩の声にはっとした。
見れば、全員が佐合ではなく自分の方を向いている。
「院生室の座席。まだ決めてないんだっけ?」
「え、あ、はい! そうです。まだです」
頭悪そうな返事だ、と泣きそうになりながら、乃依は必死に答えた。
「そっか。今日は蓬田君も来るのかな」
「あ、はい。たぶん」
「じゃあ、あとは西家君だけか」
西家とは、自然地理の研究室に所属している、もう一人の新M1である。乃依とは同期ではあるものの、二年次からの授業がほとんど被らなかったため、あまり接点がない。顔すらおぼろげだった。
「四人揃ったら、院生室の座席、決めといて。出来れば今日中に」
「あ、はい」
自分が西家を捕まえるのは難儀だが、蓬田に聞けばなんとかなるだろう。
乃依は蓬田が西家の顔を把握していることを祈りながら、頷いた。




