11.帰って来た先輩
「一昨日はありがと。助かった」
作業着男が言うと、辻原と蓬田がそれぞれ「いえ」と答える。
その後話している内容から、どうやら二人が作業着男の引っ越し作業を手伝ったことを、乃依は知った。やっぱりこの二人の先輩で間違いない。
「あれ? チカちゃんは?」
「さあ? まだ見てないですけど。ぎりぎりに来るんじゃないっすかね」
辻原の返答に、作業着男は「先輩を待たせるとは」などと、ぶつぶつ呟く。辻原は律儀に「向こうにその意識はないと思いますけど」とツッコんだ。
「しばらく始まりそうにないな」
「まぁ例年のことっすから」
諦めたように言う辻原の手には、新書が乗せられていた。こうなることを見越して、暇つぶし用に持って来ていたようだ。
見れば、彼だけでなく他の面々も好きなことをしている。乃依はぼうっと作業着男を観察していたので気付かなかったが、高階は真っ先に本を広げ、自分の世界に入りこんでいた。
「じゃあ俺、ちょっと院生室の方行っとくわ。始まりそうになったら呼びに来て」
「了解っす」
辻原と蓬田が頷くと、作業着男は教室を出て行った。同じ階にあるのだから、行き来に時間はかからない。教員も一斉にやってくるわけではないから、頃合いを見て呼びにいけば問題ないはずだ。
時間潰しの道具を何一つ持ってこなかった乃依は、思わず「いいなぁ」と思う。自分も出来ることなら、研究室で有意義に時間を過ごしたかった。この、何もしない時間が勿体なさすぎる。待ち時間に高階と喋れるならまだしも、この状況では不可能に決まっているし……。
とは言っても、小心者の乃依には、「集合時間を過ぎてから単独行動を起こす」などという大胆な行動を取れるはずもなく――隣で同じくぼけっとしていた板倉に、「同類」認定されてしまった。
全員の院生が集合したのは、ガイダンスの予定開始時刻を三十分ほど過ぎた頃のことだった。
最後の登場となったのは、志水周子。急いだ様子もなく部屋に入ってきた彼女を見て、辻原が呆れたように言う。
「志水さん、大遅刻だよ」
「始まってないじゃないですか。例年予定通りに始まることがないんですから、いいんです。待ち時間、勿体ないし」
「……そういうとこ、凄いよなぁ」
自分が遅れたのではなく、「遅れる予定の時間に合わせて来た」と主張する志水に、辻原だけでなく誰もが「ツワモノだ」と思った。
「でも、そろそろ始まりますよ。さっき、下で四年生のガイダンスが終わったのを見ましたので」
「おおっ、ナイス情報!」
「呼びに行ってきます」
蓬田がさっと席を立つ。こういうところは、「よく動く後輩」として評価が高い。
教室を出て行った蓬田を見て、志水は「ああ」というように頷いた。
「院生室ですね」
「お、さすがは志水さん」
「わかりますよ、それくらい」
志水は呆れたように言うと、一人一人に挨拶をしながら、空いている席についた。こういうところは丁寧な人だな、と乃依は思う。先輩だけでなく後輩にもこんな感じなのだから、彼女を慕っている後輩も多いだろう。
かくいう乃依も、博物館バイトの折に話をしたことがきっかけで、ちょいちょい話をする仲になっている。いまだに自分から話しかけることが躊躇われることが多いものの(たいてい志水は何かに集中しており、近づきがたいオーラを放っている)、今ではなんとなく「いい人」だと思っていた。
ぼんやりと二人のやり取りを見ていた乃依は、急に開かれたドアにびくっとした。
何度見ても、この作業着だけは違和感が半端ない。
作業着男は登山用リュックを置いていた席に腰掛ける前に、乃依の方――いや、乃依の隣に目を向け、機嫌の良さそうな声を出した。
「チカちゃん、久しぶり」
――チカちゃん!?
その珍妙な呼び方に、乃依は思わず隣を見る。
そういえば、さっきもそんな単語が聞こえた気がする。が、それがまさか自分の隣に座る志水周子のことを指しているとは思わなかった。
志水のことを「チカちゃん」と呼ぶこともそうだが、作業着男が「チカちゃん」という呼び方をすることにも違和感があり過ぎる。辻原が言うのなら何となくわかるのだが(イメージ的に)、あなたがそれを言っちゃいますか、的な感じだ。
なんというか、色々とミスマッチ過ぎる。
極力動揺しないようにする乃依の横で、志水は静かに「ご無沙汰してます」と口にした。
フレンドリーな笑顔を浮かべる作業着男とは反対に、彼女はほとんど表情を変えない。呼び方のことを怒っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしいことは、その後のやり取りでわかった。
「ちょっ、反応薄くない? 一年ぶりだってのに。もっとこう、会えて嬉しい、とかさ。帰ってきた先輩を労おうとか、そういう気持ちはないわけ? 敬う気持ちはあるの?」
「尊敬できる人は、自分からそんなこと言いませんよ」
相変わらず静かにツッコむ志水の口調は、しかしどこか楽しげだ。
「辻原ぁー、聞いた? 今の」
「聞きました」
「なんでこんなになってんだよ、この子」
「前からこんなんでしたよ」
「それもそっか」
けらけらと笑う都甲研の面々は、乃依の目にはとても仲が良さそうに見えた。
ガイダンスは、ほとんどが自己紹介という形に終わった。と言っても既に見知った者ばかりなので、「何を今さら」感が強く、休暇中の出来事をネタに笑いを取る者もいた。
乃依にはそんな器用なことは出来ないので、極めて無難な自己紹介――名前と研究テーマと今年の抱負に留まった。面白くもなんともない自己紹介だが、変に笑いを取ろうとしてコケるのだけは絶対に嫌だったので、正しい選択だっただろう。ちなみに高階も似たような自己紹介だった。
「今日ここに来ていない人もいますから、後はそれぞれのゼミでやりましょうか」
全員の自己紹介が終わった後、乃依らの指導教員である戸田がそう提案した。
確かに聞いていたよりも人数が少ないし、いるはずの人が来ていないことに、乃依も気付いていた。
戸田の提案に他の教員も賛同し、「じゃあとっとと解散」という流れになる。朝から学部のガイダンス続きで、教員側も疲れ切っているのだろう。早く帰らせてくれというオーラがびしびしと伝わってくる。
「よし、じゃあ行くか!」
そんな中でも元気なのは、あの作業着男改め厚東忠徳という、これまた抜群のインパクトを持つ名前の先輩だけだった。
乃依は密かに「とごう」と「ことう」……と、何らかの運命めいたものを感じたが、非常にどうでもいいことだと思い直した。
「どこ行きますか」
「あーなんか肉食いたいよなぁ。魚介は上海で食いまくったし」
「じゃ、サトウで決まりっすね」
「サトウ」というのは、大学の近くにある「肉のサトウ」という焼肉屋のことである。精肉店だからこそ提供できる価格とクオリティで絶大な支持を集めており、新歓や打ち上げなどによく使われる。
この流れは、どうも「厚東先輩お帰りなさい会」になりそうだと、乃依は予想した。
「チカちゃんは――」
「私、これからバイトなので」
「休めば?」
「そんな無責任なことできません」
それでも都甲研三人衆は食い下がっていたが、志水の「明後日の新歓には出ますから」との言葉に、ようやく彼女を解放した。
乃依はかなりハラハラしながら成り行きを見守っていたのだが、その後のあっさりとした四人のやり取りに、ほっと胸を撫で下ろす。気まずくなってないようだし、結構、日常茶飯事だったりするのだろうか。
この四人の関係もよく分からない。今日初めて目の当たりにしたのでは、それも当然だろうが。
乃依も帰ろうと部屋を出ようとしたとき、ドアの前にいた志水が急に振り返った。
(な、なに!?)
じっと見つめられると、何だか落ち着かない。彼女の視線には、そういう力があった。
「さっきの人。一応私の先輩で、高階さんの同期」
何を思ったが、急に彼女は説明し始める。
反応に困る乃依だが、頭の片隅で「あれ?」と思う。「さっきの人」というのは厚東のことで、彼が高階と同期だという。そのわりに、会話どころか挨拶すら見られなかったのはどういうことだろう、と。一言も会話をしていなかったではないか。
首を傾げる乃依に、志水はその考えを見透かしたかのように続けた。
「あの二人、すっごく仲悪いから」




