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診断書を拝見? 『私は子をなせぬ病だ』と仰る旦那様、その紙一枚で家門ごと――

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/26

「ヴェアトリス、君に話がある」


 夫であるヴェルナー伯爵フェルディナント様が、書斎で私と差し向かいに座られた。婚姻3年目の朝食後である。


 夫の顔は青ざめていた。


 これは、もう何度目だろう。


 3年の間に、フェルディナント様の顔色が悪い朝は数え切れぬほどあった。


 最初は心配した。次は呆れた。今は、紅茶の温度を確かめるくらいの感慨しか湧かない。


「私は、子をなせぬ病である」


 私はティーカップを、そっと受け皿の上に戻した。


「左様でございますか」


「医師の診断だ」


「では、その診断書を拝見させていただいてもよろしいですか」


 夫の目が、ほんの一瞬泳いだ。


「……書類は、医師の元に保管されている」


「お医者様のお名前を伺っても」


「な、なぜそんなことを聞く」


「夫の健康に関わる重大事ですもの。妻として、当然の関心ですわ」


 私は微笑んだ。


 喉の奥が、紙のように平たく乾いていた。


 フェルディナント様は咳払いをし、お茶を一口飲み、また咳払いをした。


 それから、ようやく本題を切り出された。


「ヴェアトリス。家門の血を絶やすわけにはいかぬ」


「ええ」


「そこで――」


「そこで」


「弟のルカスに、世継ぎを成してもらおうと思う」


 紅茶のカップが、ことりと音を立てた。


 私が立てた音ではなかった。


 隣の控え部屋で、給仕の少女が皿を取り落としたのだろう。


 夫は気づかぬ顔で続けた。


「ルカスとお前の間に子を作れ。生まれた子は私の嫡子として届け出る。これは家門のための、合理的な解決だ」


 合理的、という単語を、私は口の中で転がしてみた。


 合理という2文字が、こんなに醜く響いたのは初めてである。


「フェルディナント様」


「うむ」


「ひとつだけお尋ねしてもよろしいですか」


「申してみよ」


「ルカス様は、この件をご承知なのでしょうか」


「これから話す」


「左様でございますか」


「ヴェアトリス。お前は嫁いだ身だ。家門に従う義務がある」


「ええ。義務、ですわね」


 私は、書斎の壁にかけられた、ヴェルナー家の家門法の写しを、ふと見上げた。


 額装されたその一枚は、嫁いだ夜に夫自身が誇らしげに私に見せたものだった。


 家門の誇りである、と。9世代続く誓いである、と。


 私は、その第37条を、そらんじることができた。


「――承知いたしました」


 私は静かに立ち上がった。


「少々、考えるお時間をいただいても?」


「明日の朝までだ」


「ありがたく存じます」


 書斎を出ると、廊下に家令のハインリッヒが立っていた。


 長年ヴェルナー家に仕える、痩せた老人である。


 眼鏡の奥の目で、私を見た。


「奥様」


「ハインリッヒ。書庫を借ります」


「……家門法と、婚姻誓約書を、でございますか」


「ええ」


 老家令は、深く頭を下げた。


「鍵は、いつでもお使いいただけます」


 眼鏡の奥に、ほんの一筋、火が見えた気がした。


 ◇◆◇


 書庫は、ヴェルナー家の北翼、最も日の差さぬ部屋にある。


 革と埃と、わずかな黴の匂い。9世代分の家門記録が、天井までの棚に整然と並ぶ。


 私が腰を下ろしたのは、中央の硬い樫の机である。


 ハインリッヒが、求めずとも3冊の書を運んできた。


『ヴェルナー家門法・原本写し』


『婚姻誓約書・正室分・封蝋済み』


 そしてもう1冊、表紙に何も書かれていない、黒革の手帳。


「ハインリッヒ、これは」


「先代様より、奥様にお渡しせよと言付かっております」


「先代様? お亡くなりになった先代の」


「左様でございます。お嫁入りの折、もしものことがあれば、と」


 私は、その黒革を、そっと開いた。


 中には、フェルディナント様の幼少期からの素行が、几帳面な筆致で記録されていた。


 愛人の名前。送金の額。賭博の負け。領地金の流用先。


 そして最後の1頁に、ただ1行。


『嫡男にふさわしからず。次男ルカスを観よ』


 ――先代様。


 私は、もう亡き義父の筆跡に向かって、頭を下げた。


 ハインリッヒは、何も言わずに茶を淹れ直し、書庫の隅で控えた。


 私は、まず家門法を開いた。


 第37条。


『夫が虚偽の理由により正室の貞節を弟または親族に委ねた場合、嫡男の地位は当該夫より剥奪され、最も近き直系男子へ移譲される。剥奪は親族会議の議決を要さず、書面と証人をもって自動的に成立する』


 私は、その一文を、3度読んだ。


 3度目に、少しだけ口角が上がった。


 ――フェルディナント様。


 あなたは、この条文を覚えておられるのでしょうか。


 嫁いだ夜に、私に誇らしげに見せて下さった、その9世代の誇りの中身を。


 私は、次に婚姻誓約書を開いた。


 封蝋は、嫁入りの夜に夫自身が押したものだ。


 その内側に、私とフェルディナント様、双方の署名がある。


 そして、末尾の脚注に、こう書かれている。


『本誓約書は家門法に従属し、家門法第37条の発動時、本誓約は当該夫の側より無効となる』


 つまり――


 夫が私を弟に委ねた瞬間、私の側からは、この婚姻はまだ生きている。


 しかし夫の側からは、もう、何も主張できない。


 喉の奥の、紙のように乾いていたものが、わずかに湿った。


 それは涙ではなく、笑いの予兆であった。


「ハインリッヒ」


「はい、奥様」


「お医者様を、おひとりご紹介いただけますか」


「どのような」


「フェルディナント様の、本物の健康診断を下さる方を」


 老家令は、眼鏡を直した。


「先代様の主治医でいらした、シュヴァルツ先生がご健在でございます」


「ご紹介を」


「明朝、屋敷へお呼びいたしましょう。フェルディナント様には、奥様の体調不良とお伝えします」


「ありがとう」


「奥様」


「はい」


「お礼は、まだ早うございます」


 ハインリッヒの眼鏡の奥で、火が1段、強くなった。


 ◇◆◇


 翌朝、シュヴァルツ医師が屋敷に到着した。


 白髭の、品の良い老紳士である。


 私は廊下で、フェルディナント様にこう申し上げた。


「昨夜から少し胸の痛みが。念のため、診ていただきたく」


「うむ。大事ないか」


「ご心配には及びません。ただ、家門の血を絶やさぬためにも、私の体は健やかでなければなりませんもの」


 フェルディナント様は、満足げに頷かれた。


「賢明だ。診てもらいなさい」


「ありがとうございます。ついでと申しては失礼ですが、フェルディナント様も診ていただいては? お顔の色が、近頃すぐれませんでしょう」


「い、いや、私は別の医師にかかっているゆえ」


「では、念のため、もうひと方の所見もお取りになっては。シュヴァルツ先生は、先代様の主治医でいらしたとか」


「……父の」


「ええ」


 フェルディナント様の顔色が、また1段、悪くなった。


 しかし、ここで断れば、自分が嘘をついていると認めるに等しい。


 夫は、しぶしぶ頷かれた。


「……分かった。短時間ならば」


 診察は、午前のうちに終わった。


 シュヴァルツ先生は、私と、ハインリッヒと、もうひとりの証人――先代様時代から仕える執事頭――の前で、こう仰った。


「フェルディナント様は、極めてご健康であられます。生殖能力に関しても、何ら問題は見受けられません」


「では、子をなせぬということは」


「考えにくうございます」


「念のため、診断書を頂戴できますか」


「もちろんでございます。3通、お作りいたしましょう」


「3通?」


「ご本人様、奥様、そして家令殿に。後日のため」


 シュヴァルツ先生は、さらりと仰った。


 しかし眼の奥には、ハインリッヒと同じ火があった。


 ――先代様。


 あなたは、嫁ぐ娘のために、何重にも備えて下さっていたのですね。


 私は、心の中で、もう一度頭を下げた。


 ◇◆◇


 その日の昼、私は屋敷の庭で、ルカス様にお会いした。


 正確に言えば、ハインリッヒが「庭にルカス様がおいでです」と耳打ちし、私は散歩を装って参ったのである。


 ルカス・フォン・ヴェルナー。


 夫の3つ年下の弟君で、24歳。


 騎士団史上最年少で隊長位を授けられ、フェルディナント様が領地経営を放擲なさっている間、3年にわたり実質の領主代行をなさっていた方である。


 東方語、古典語、現代語の通訳資格をお持ちで、しかし――


 しかし、無口でいらっしゃる。


 私が嫁いで3年、彼と交わした言葉は、両手の指で足りるほどだった。


 私のお茶の濃さも、好きな花も、ご存じない――そう、私はずっと思っていた。


 ルカス様は、薔薇園の入り口で、剣帯を外しておられた。


 軍服のままだった。


 私の足音に振り返り、軽く目を伏せた。


「義姉上」


「ルカス様。少しお話を、よろしいでしょうか」


「……はい」


 私たちは、四阿のベンチに、2人分の距離を置いて座った。


 風が、薔薇の花弁をいくつか散らした。


「ルカス様。フェルディナント様から、何かお聞きになりましたか」


「兄上から、ですか」


「ええ」


「……いいえ。何も」


「左様でございますか」


 私は、しばらく黙った。


 どう切り出すべきか、考えあぐねた。


 しかし、ルカス様の方が、先に口を開かれた。


「義姉上。兄上が、何か」


「ええ」


「私に、関わりのあることでしょうか」


「……ええ」


「お話しになれぬのなら、私からひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」


「どうぞ」


 ルカス様は、しばらく薔薇を見つめておられた。


 そして、極めて平坦な声で、こう仰った。


「兄上は、義姉上を、私に押し付けようとなさっておいでですか」


 私は、息を、半拍止めた。


「――何故、お分かりに」


「兄上の思考の癖です。3年、領地を代行しておりますと、兄上の逃げ方が読めるようになりました」


「逃げ方」


「ご自身の不備を、家門のせいにし、家門の重荷を、最も近い者に押し付ける。今回、最も近い者は、私です」


「左様でございますか」


「義姉上」


「はい」


「私は、お受けしません」


 ルカス様は、はっきりと、そう仰った。


 軍人の声であった。


「義姉上を、兄上の都合の道具になさることは、私が許しません。これは家門法上の問題ではなく、私個人の問題です」


「ルカス様」


「はい」


「お尋ねしても」


「どうぞ」


「……あなた様は、何故、そこまで」


 ルカス様は、しばらく答えになられなかった。


 風が、また薔薇を散らした。


 やがて、極めて平坦な声で、こう仰った。


「義姉上が嫁いでこられた日のことを、覚えております」


「はい」


「玄関ホールで、初めてお目にかかった。兄上の隣で、義姉上は雨に濡れた銀の薔薇のような色をしておられた。あの日、私は初めて、誰かを欲しいと思いました」


 私は、息ができなかった。


「兄上の妻でいらした。一生、黙るつもりでおりました」


「ルカス様」


「ですから今、兄上が自分から壊してくださったことを――私は、感謝してしまっております。そのことが、私には何より許せません」


 ルカス様は、初めて、私の目をご覧になった。


 静かな目だった。


 火ではなく、深い湖のような目。


「義姉上。私は、お受けしません。しかし、もし――」


「もし」


「兄上の家門法違反が、書面と証人によって証明されたなら、ヴェルナー家の嫡男位は、家門法第37条に従い、自動的に私に移ります。その時は」


 ルカス様は、軍人の声に戻られた。


「その時は、私から、改めて義姉上に、求婚いたします。兄上の道具としてではなく、私個人として」


 私は、しばらく黙った。


 それから、ようやく――3年ぶりに、心からの笑みを、漏らした。


「ルカス様」


「はい」


「あなた様は、お茶の濃さは、お濃いめがお好みでしたかしら」


「……はい」


「では、後ほど、お持ちいたしますわ」


 ルカス様の耳が、ほんの少しだけ、赤くなった。


 ◇◆◇


 その夜、私は書斎で、フェルディナント様にお伺いを立てた。


「フェルディナント様」


「決心がついたか」


「ええ」


「賢明な判断だ」


「ただ、ひとつだけ、確認させていただきたく」


「申してみよ」


「ルカス様は、本件をご承諾なさったのでしょうか」


「無論だ。今朝、話を通した」


「左様でございますか」


「明後日には、書面に起こす。お前も署名するように」


「承知いたしました」


 私は、深く頭を下げた。


 下げた顔の角度の中で、口元だけが微笑んでいた。


 フェルディナント様は、この時、2度目の嘘をつかれた。


 ルカス様は、何も聞かされていない。それは庭で本人から確認した。


 しかし、夫はそれをご存じない。


 そして、夫が「弟を承諾させた」と私に告げたこの一言――これこそが、家門法第37条発動の、最後の証拠であった。


『夫が虚偽の理由により正室の貞節を弟または親族に委ねた場合』


 虚偽の理由――偽診断書。


 正室の貞節を弟に委ねた――今、まさに口頭で。


 私は、書斎の扉を閉める間際、振り返って申し上げた。


「フェルディナント様。本件、親族会議で正式に承認をいただきとう存じます」


「親族会議?」


「家門の血に関わる重大事ですもの。叔父様方、ご親族のお歴々にお集まりいただき、書面と証人をもって、決定いたしましょう」


「……それは、おおごとに過ぎぬか」


「いえ。家門のためですわ。フェルディナント様のご決断が、合理的であると、皆様にご理解いただかねば」


「うむ」


「明後日、お招きいたしましょう。よろしゅうございますか」


「……分かった。任せる」


「ありがたく存じます」


 扉を閉めた。


 廊下に、ハインリッヒが控えていた。


「奥様」


「ハインリッヒ。明後日の親族会議の招待状を」


「すでに、用意してございます」


「叔父様方の他に、もうひと方、お呼びすべき方が」


「シュヴァルツ先生でいらっしゃいますね」


「ええ」


「お声がけ済みでございます」


「あら」


「奥様。先代様のお言いつけは、こうでございました。『嫁いだ娘が3日笑わぬ日が続いたなら、書庫の鍵と、医師の名と、親族の連絡網を渡せ』と」


「先代様は」


「お見通しでいらっしゃいました」


 私は、廊下の窓から、夜空を見上げた。


 亡き先代様が、星のどれかでいらっしゃるならば――今、私は、あなた様にこそ嫁いだのだと、申し上げたい気持ちであった。


 ◇◆◇


 親族会議の朝。


 ヴェルナー家の大広間に、12人の親族が集まった。


 長老格の叔父様、伯母様方、傍系の従兄弟方。


 末席に、ルカス様。


 そして、ヴェルナー家の家令ハインリッヒと、シュヴァルツ医師、執事頭が証人として控えた。


 フェルディナント様は、上座でいくぶん落ち着かぬご様子であった。


 私が「親族会議」を提案した時には、御しやすい場で押し切るつもりでおられたのだろう。


 だが、集まった顔ぶれを見て、雲行きの違いを察しておられる。


 私は、夫の隣で、卓に3枚の紙を、静かに並べた。


 1枚目。


 フェルディナント様が「医師の元に保管されている」と仰った、偽の診断書。これはハインリッヒが昨日、夫の書斎の鍵のかかった引き出しから「お掃除のついでに」取り出してきたものである。


 筆跡は、見覚えのない、粗い字であった。署名欄の医師名は、王都の医師名簿に存在しない名前であった。


 2枚目。


 シュヴァルツ医師による、フェルディナント様の本物の健康診断書。3通のうちの1通。フェルディナント様は、極めてご健康。生殖能力に問題なし。


 3枚目。


 私とフェルディナント様が嫁入りの夜に署名した、婚姻誓約書。封蝋済み。家門法第37条への従属条項を末尾に持つ。


 3枚は、互いを裁き合うように、静かに並んでいた。


 長老格の叔父――先代様の弟君に当たる方が、咳払いをなさった。


「ヴェアトリス。話を伺おう」


「叔父様。ありがとうございます」


 私は、立ち上がった。


 声を、わずかに張った。


 ただし、感情は乗せなかった。


「フェルディナント様は、先日私にこう仰せになりました。『私は子をなせぬ病である。家門のため、弟ルカスとの間に世継ぎを成せ』と」


 広間が、しんとした。


「私は、診断書の提示を求めました。フェルディナント様は、医師の元にあると仰り、医師のお名前を伏せられました」


「ふむ」


「念のため、こちらに先代様の主治医でいらしたシュヴァルツ先生をお招きし、フェルディナント様の本物の診断を取らせていただきました。シュヴァルツ先生」


 シュヴァルツ医師が、立ち上がった。


「フェルディナント様は、極めてご健康であらせられます。子をなすことに、何の障害もございません。これは、私の名誉と医師免許に懸けて、申し上げます」


 叔父の眉が、上がった。


 フェルディナント様の顔が、白くなった。


「お、お待ちを。それは、別の医師の所見と異なる――」


「フェルディナント様」


 私は、静かに申し上げた。


「お掛かりの『別の医師』のお名前を、この場で仰っていただけますか」


「そ、それは――」


「叔父様。1枚目の紙を、ご覧くださいませ」


 叔父が、偽の診断書を手に取った。


 しばらく眺めて、眉間に皺を寄せた。


「ヴェアトリス、この医師の名は、王都に存在せぬぞ」


「左様でございます。私も同じ確認をいたしました」


「フェルディナント。これは、何だ」


「い、いや、それは、その医師は、地方の――」


「地方のどこだ」


 フェルディナント様は、答えられなかった。


 私は、2歩、夫の方へ近づいた。


「フェルディナント様。あなた様が私に、ルカス様との間に子を成せと仰った時――『ルカスは承諾した』ともお伝え下さいましたわね」


「あ、ああ」


「ルカス様」


 私は、末席を見た。


 ルカス様が、立ち上がった。


「兄上から、当該の件について、いかなる相談も、説明も、承諾要請も、私は受けておりません。これは、私の名誉と騎士団入団時の宣誓に懸けて、申し上げます」


 広間に、低いどよめきが走った。


 フェルディナント様の手が、震え始めた。


「叔父様。3枚目の紙を、お開きくださいませ」


 叔父が、婚姻誓約書を開いた。


 末尾の脚注を、読み上げた。


「『本誓約書は家門法に従属し、家門法第37条の発動時、本誓約は当該夫の側より無効となる』」


 叔父は、顔を上げ、フェルディナント様を見た。


「フェルディナント。家門法第37条を、暗唱できるか」


「……は、はい」


「言ってみよ」


「『夫が、虚偽の、理由により――』」


 声が、続かなかった。


 叔父は、ご自身で続けられた。


「『正室の貞節を弟または親族に委ねた場合、嫡男の地位は当該夫より剥奪され、最も近き直系男子へ移譲される。剥奪は親族会議の議決を要さず、書面と証人をもって自動的に成立する』」


 叔父は、卓を、軽く指で叩かれた。


「すでに、書面は揃った。証人も揃った」


「叔父上、お待ちを――」


「フェルディナント。お前は、自分の口で、自分を廃嫡した」


 フェルディナント様は、椅子に崩れた。


「な、なぜ廃嫡されるのは、私なのだ……!」


 声を、絞り出された。


「家門のためを思って、私は――」


「家門のため、ですか」


 私は、静かに申し上げた。


「フェルディナント様。家令ハインリッヒから、ご親族の皆様に、ご報告がございますの」


 ハインリッヒが、卓の脇に進み出た。


 眼鏡を、ゆっくりと直した。


 そして、痩せた手に、革の手帳を持っておられた。


「失礼を承知で、申し上げます」


 老家令の声は、極めて平坦であった。


「フェルディナント様は、過去3年の間に、領地金52,000マルクを、グラーフェンベルク街27番地の館に、計37回、送金しておられます」


 広間が、ざわめいた。


「同館にお住まいなのは、ヘレナ・フォン・リンデン嬢と、その私生子でいらっしゃるエリアス様。ご年齢は、2つ」


「ふた、つ……」


 叔父の声が、低くなった。


「フェルディナント様とヘレナ嬢のご関係は、ご婚姻のおよそ1年前から続いておられます。エリアス様の御父上が、フェルディナント様であることは、ヘレナ嬢ご自身が3日前、私の問い合わせに書面でお認めになりました」


 ハインリッヒは、淡々と続けた。


 何の感情も乗せず、ただ事実だけを並べた。


「子をなせぬ病、と仰せの間にも、ヘレナ嬢のもとには、毎月の養育費が滞りなく送られております。直近の送金は、つい先月、奥様にルカス様とのご縁を仰せになる、10日前のことでございました」


 フェルディナント様の手が、卓の上で、ぴくぴくと震えた。


「ち、違う、それは、それはエリアスは私の子ではない、私は――いや、ルカスが私を陥れようとして――」


 ルカス様が、初めて声を荒げられた。


「兄上。私は今朝、初めてエリアス様の存在を、家令から伺ったところです」


「お、お前が、糸を引いて……」


「兄上が、ご自身でお書きになった送金記録を、私が偽造できるとお思いですか」


 フェルディナント様は、もはや言葉を失っておられた。


 叔父が、低く仰った。


「フェルディナント。最後に、お前自身に問う」


「は……はい」


「お前は、子をなせぬ病であったか」


「……いいえ」


「ルカスに、世継ぎを成すよう、相談したか」


「……いいえ」


「正室を、虚偽の理由により、弟に委ねようとしたか」


 長い沈黙の後、フェルディナント様は、呟くように仰った。


「……はい」


 叔父は、頷かれた。


「家門法第37条、発動。書面ここに、証人ここに、本人の自認ここにあり」


 ハインリッヒが、すかさず1枚の紙を、夫の前に置いた。


『嫡男位辞退届』


 すでに、家門の書式で清書されていた。


「フェルディナント様。お署名を」


 フェルディナント様の手が、ペンを取った。


 ペン先が、紙の上で、何度か揺れた。


 そして――


 震える文字で、ご自身の名を、書かれた。


 自分で、自分を廃嫡なさった。


 ペンを置く音が、紙の上で、ことりと鳴った。


 ◇◆◇


 私は、その音を、生涯忘れぬだろうと思った。


 3枚の紙が、互いを裁き合った末に、最後の1枚が加わった。


 夫が、自身の手で書いた、4枚目の紙。


 それは、私を縛っていた、最初の1枚――偽の診断書――を、完全に焼き尽くす紙であった。


 叔父が、立ち上がられた。


「ルカス・フォン・ヴェルナーを、本日付をもって、ヴェルナー家嫡男に認定する。異議のある者」


 広間に、誰ひとりとして、声を上げる者はいなかった。


「異議なし。よって、決定」


 叔父は、私の方を向かれた。


「ヴェアトリス。3年、よく耐えた」


「叔父様。耐えてはおりません。ただ、読んでおりました」


「読む?」


「家門法を。婚姻誓約書を。先代様の手帳を。そして――夫の顔色を」


 叔父が、静かに笑われた。


「ヴェルナー家の嫁とは、こうあるべきだ」


 フェルディナント様が、呆けた顔で、私を見上げておられた。


 私は、夫であった方の前で、深く一礼を申し上げた。


「フェルディナント様。3年間、お世話になりました」


「ヴェアトリス、待ってくれ、私は――」


「家門法第37条発動により、私の婚姻は、あなた様の側より無効になりました。私の側からは、まだ、生きておりますが」


「では!」


「私の側から、本日をもって、解消いたします」


 私は、嫁入りの夜にいただいた指輪を、卓の上に、静かに置いた。


「お返しいたします。あなた様の合理に、お似合いの方へ、お贈りくださいませ」


 そして、ヘレナ嬢の名前を、口にした。


「エリアス様の御母上に、お贈りなさるのが、最も合理的かと存じます」


 フェルディナント様は、もう、何も仰らなかった。


 ◇◆◇


 親族会議の半年後、夏の盛りである。


 ヴェルナー家の大広間で、私とルカス様の婚礼が執り行われた。


 新嫡男ルカス・フォン・ヴェルナーと、その正室ヴェアトリス。


 招待客は100名を越えた。


 長老格の叔父様が誓約の証人を務められ、シュヴァルツ医師は来賓席で目を細めておられた。


 末席で、ハインリッヒが眼鏡を直しておられた。眼鏡の奥の火は、ずっと、温かい色をしていた。


 ルカス様は、軍服を脱ぎ、白の礼装を召しておられた。


 私は、薄水色のドレス。嫁入りの夜の色とは、違う色を選んだ。


 お披露目の挨拶で、ルカス様が壇上に立たれた。


 私の手を取り、招待客に向かって、こう仰った。


「皆様。私の妻ヴェアトリスは――」


 私は、隣で微笑んでおいた。


 優しい言葉のひとつやふたつ、お話になるのだろう、と。


 ルカス様は、続けられた。


「――誰よりも美しい字で、誓約書を読み解きます」


 広間が、一瞬、しんとした。


 そして、誰かが、噴き出した。


 それを合図に、笑いが、波のように広がった。


 私は、扇を、ぱしりと閉じた。


 ルカス様の肩を、軽く叩いた。


「ルカス様」


「はい」


「誓約書を読むのは、妻の仕事ではございません」


「……そうでしたか」


「ええ」


「では、何を、申し上げればよろしかったでしょうか」


「『美しい』のひと言で、お止めになるのが、よろしうございましたわ」


 ルカス様の耳が、また、赤くなった。


 広間の笑いが、もう1段、大きくなった。


 叔父様が、お腹を抱えて笑っておられた。


 ハインリッヒが、柱の陰で、肩を震わせておられた。


 シュヴァルツ先生は、ハンカチで目元を押さえておられた。


 私は、扇の影で、小さくため息をついた。


 ――この方は、3年お待ちくださった末に、結局、朴念仁のままでいらっしゃる。


 それが、嬉しかった。


 ◇◆◇


 その夜、屋敷の書斎で、私は1通の手紙を見つけた。


 机の上に、ハインリッヒが置いておいたものらしい。


 差出人は、東部の小領地。フェルディナント様の蟄居先である。


『ヴェアトリス。一度だけ、会ってくれぬか。私は間違っていた。やり直したい』


 私は、それを、2度読んだ。


 2度目に、口角が、少しだけ上がった。


 扉が、ノックされた。


 ハインリッヒが、入ってきた。


「奥様。お読みになりましたか」


「ええ」


「いかがいたしましょう」


「ハインリッヒ」


「はい」


「あなた様、暖炉の火を、お絶やしになりませんわよね」


「奥様の書斎の火は、年中絶やしませぬ」


 私は、手紙を、ハインリッヒに渡した。


 老家令は、それを受け取り、暖炉の前まで歩いた。


 そして、紙を、火にくべた。


 紙は、よく燃えた。


 ぱちりと、小さな音を立てた。


 ハインリッヒは、火を見ながら、ぽつりと呟かれた。


「……ざまぁみろ」


 私は、聞こえなかったふりをした。


 老家令の名誉のために。


 扉が、また、ノックされた。


 ルカス様が、お入りになった。


「ヴェアトリス。何か、燃えていますか」


「ええ。家門の埃ですわ」


「埃?」


「焼かねば、後々のためにならぬ類の、埃でございます」


「左様ですか」


 ルカス様は、それ以上、お尋ねにならなかった。


 賢明な朴念仁でいらっしゃる。


 そして、背後から、私の肩に、そっと手を置かれた。


「ヴェアトリス」


「はい」


「来春の予定を、書いておきました。お部屋に届けてございます」


「あら。何の予定を」


「お受け取りになってから、お確かめくださいませ」


 私は、書斎を後にした。


 私室の机には、1枚の紙が置かれていた。


 ルカス様の几帳面な筆跡で、こう書かれていた。


『来春、長子誕生予定。ヴェルナー家嫡孫として、登録手続き要』


 私は、思わず、笑った。


 それから、その紙を、胸に当てた。


「ルカス様、これは、まだ早うございますわ」


 窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。


 書斎の暖炉では、紙がよく燃えていた。


 私の手の中の紙は、温かかった。


 喉の奥が、紙のように、温かく、潤んでいた。


 3年前のあの朝、紙のように乾いていた喉が――


 今、同じ紙で、こんなにも、潤うのである。


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