診断書を拝見? 『私は子をなせぬ病だ』と仰る旦那様、その紙一枚で家門ごと――
「ヴェアトリス、君に話がある」
夫であるヴェルナー伯爵フェルディナント様が、書斎で私と差し向かいに座られた。婚姻3年目の朝食後である。
夫の顔は青ざめていた。
これは、もう何度目だろう。
3年の間に、フェルディナント様の顔色が悪い朝は数え切れぬほどあった。
最初は心配した。次は呆れた。今は、紅茶の温度を確かめるくらいの感慨しか湧かない。
「私は、子をなせぬ病である」
私はティーカップを、そっと受け皿の上に戻した。
「左様でございますか」
「医師の診断だ」
「では、その診断書を拝見させていただいてもよろしいですか」
夫の目が、ほんの一瞬泳いだ。
「……書類は、医師の元に保管されている」
「お医者様のお名前を伺っても」
「な、なぜそんなことを聞く」
「夫の健康に関わる重大事ですもの。妻として、当然の関心ですわ」
私は微笑んだ。
喉の奥が、紙のように平たく乾いていた。
フェルディナント様は咳払いをし、お茶を一口飲み、また咳払いをした。
それから、ようやく本題を切り出された。
「ヴェアトリス。家門の血を絶やすわけにはいかぬ」
「ええ」
「そこで――」
「そこで」
「弟のルカスに、世継ぎを成してもらおうと思う」
紅茶のカップが、ことりと音を立てた。
私が立てた音ではなかった。
隣の控え部屋で、給仕の少女が皿を取り落としたのだろう。
夫は気づかぬ顔で続けた。
「ルカスとお前の間に子を作れ。生まれた子は私の嫡子として届け出る。これは家門のための、合理的な解決だ」
合理的、という単語を、私は口の中で転がしてみた。
合理という2文字が、こんなに醜く響いたのは初めてである。
「フェルディナント様」
「うむ」
「ひとつだけお尋ねしてもよろしいですか」
「申してみよ」
「ルカス様は、この件をご承知なのでしょうか」
「これから話す」
「左様でございますか」
「ヴェアトリス。お前は嫁いだ身だ。家門に従う義務がある」
「ええ。義務、ですわね」
私は、書斎の壁にかけられた、ヴェルナー家の家門法の写しを、ふと見上げた。
額装されたその一枚は、嫁いだ夜に夫自身が誇らしげに私に見せたものだった。
家門の誇りである、と。9世代続く誓いである、と。
私は、その第37条を、そらんじることができた。
「――承知いたしました」
私は静かに立ち上がった。
「少々、考えるお時間をいただいても?」
「明日の朝までだ」
「ありがたく存じます」
書斎を出ると、廊下に家令のハインリッヒが立っていた。
長年ヴェルナー家に仕える、痩せた老人である。
眼鏡の奥の目で、私を見た。
「奥様」
「ハインリッヒ。書庫を借ります」
「……家門法と、婚姻誓約書を、でございますか」
「ええ」
老家令は、深く頭を下げた。
「鍵は、いつでもお使いいただけます」
眼鏡の奥に、ほんの一筋、火が見えた気がした。
◇◆◇
書庫は、ヴェルナー家の北翼、最も日の差さぬ部屋にある。
革と埃と、わずかな黴の匂い。9世代分の家門記録が、天井までの棚に整然と並ぶ。
私が腰を下ろしたのは、中央の硬い樫の机である。
ハインリッヒが、求めずとも3冊の書を運んできた。
『ヴェルナー家門法・原本写し』
『婚姻誓約書・正室分・封蝋済み』
そしてもう1冊、表紙に何も書かれていない、黒革の手帳。
「ハインリッヒ、これは」
「先代様より、奥様にお渡しせよと言付かっております」
「先代様? お亡くなりになった先代の」
「左様でございます。お嫁入りの折、もしものことがあれば、と」
私は、その黒革を、そっと開いた。
中には、フェルディナント様の幼少期からの素行が、几帳面な筆致で記録されていた。
愛人の名前。送金の額。賭博の負け。領地金の流用先。
そして最後の1頁に、ただ1行。
『嫡男にふさわしからず。次男ルカスを観よ』
――先代様。
私は、もう亡き義父の筆跡に向かって、頭を下げた。
ハインリッヒは、何も言わずに茶を淹れ直し、書庫の隅で控えた。
私は、まず家門法を開いた。
第37条。
『夫が虚偽の理由により正室の貞節を弟または親族に委ねた場合、嫡男の地位は当該夫より剥奪され、最も近き直系男子へ移譲される。剥奪は親族会議の議決を要さず、書面と証人をもって自動的に成立する』
私は、その一文を、3度読んだ。
3度目に、少しだけ口角が上がった。
――フェルディナント様。
あなたは、この条文を覚えておられるのでしょうか。
嫁いだ夜に、私に誇らしげに見せて下さった、その9世代の誇りの中身を。
私は、次に婚姻誓約書を開いた。
封蝋は、嫁入りの夜に夫自身が押したものだ。
その内側に、私とフェルディナント様、双方の署名がある。
そして、末尾の脚注に、こう書かれている。
『本誓約書は家門法に従属し、家門法第37条の発動時、本誓約は当該夫の側より無効となる』
つまり――
夫が私を弟に委ねた瞬間、私の側からは、この婚姻はまだ生きている。
しかし夫の側からは、もう、何も主張できない。
喉の奥の、紙のように乾いていたものが、わずかに湿った。
それは涙ではなく、笑いの予兆であった。
「ハインリッヒ」
「はい、奥様」
「お医者様を、おひとりご紹介いただけますか」
「どのような」
「フェルディナント様の、本物の健康診断を下さる方を」
老家令は、眼鏡を直した。
「先代様の主治医でいらした、シュヴァルツ先生がご健在でございます」
「ご紹介を」
「明朝、屋敷へお呼びいたしましょう。フェルディナント様には、奥様の体調不良とお伝えします」
「ありがとう」
「奥様」
「はい」
「お礼は、まだ早うございます」
ハインリッヒの眼鏡の奥で、火が1段、強くなった。
◇◆◇
翌朝、シュヴァルツ医師が屋敷に到着した。
白髭の、品の良い老紳士である。
私は廊下で、フェルディナント様にこう申し上げた。
「昨夜から少し胸の痛みが。念のため、診ていただきたく」
「うむ。大事ないか」
「ご心配には及びません。ただ、家門の血を絶やさぬためにも、私の体は健やかでなければなりませんもの」
フェルディナント様は、満足げに頷かれた。
「賢明だ。診てもらいなさい」
「ありがとうございます。ついでと申しては失礼ですが、フェルディナント様も診ていただいては? お顔の色が、近頃すぐれませんでしょう」
「い、いや、私は別の医師にかかっているゆえ」
「では、念のため、もうひと方の所見もお取りになっては。シュヴァルツ先生は、先代様の主治医でいらしたとか」
「……父の」
「ええ」
フェルディナント様の顔色が、また1段、悪くなった。
しかし、ここで断れば、自分が嘘をついていると認めるに等しい。
夫は、しぶしぶ頷かれた。
「……分かった。短時間ならば」
診察は、午前のうちに終わった。
シュヴァルツ先生は、私と、ハインリッヒと、もうひとりの証人――先代様時代から仕える執事頭――の前で、こう仰った。
「フェルディナント様は、極めてご健康であられます。生殖能力に関しても、何ら問題は見受けられません」
「では、子をなせぬということは」
「考えにくうございます」
「念のため、診断書を頂戴できますか」
「もちろんでございます。3通、お作りいたしましょう」
「3通?」
「ご本人様、奥様、そして家令殿に。後日のため」
シュヴァルツ先生は、さらりと仰った。
しかし眼の奥には、ハインリッヒと同じ火があった。
――先代様。
あなたは、嫁ぐ娘のために、何重にも備えて下さっていたのですね。
私は、心の中で、もう一度頭を下げた。
◇◆◇
その日の昼、私は屋敷の庭で、ルカス様にお会いした。
正確に言えば、ハインリッヒが「庭にルカス様がおいでです」と耳打ちし、私は散歩を装って参ったのである。
ルカス・フォン・ヴェルナー。
夫の3つ年下の弟君で、24歳。
騎士団史上最年少で隊長位を授けられ、フェルディナント様が領地経営を放擲なさっている間、3年にわたり実質の領主代行をなさっていた方である。
東方語、古典語、現代語の通訳資格をお持ちで、しかし――
しかし、無口でいらっしゃる。
私が嫁いで3年、彼と交わした言葉は、両手の指で足りるほどだった。
私のお茶の濃さも、好きな花も、ご存じない――そう、私はずっと思っていた。
ルカス様は、薔薇園の入り口で、剣帯を外しておられた。
軍服のままだった。
私の足音に振り返り、軽く目を伏せた。
「義姉上」
「ルカス様。少しお話を、よろしいでしょうか」
「……はい」
私たちは、四阿のベンチに、2人分の距離を置いて座った。
風が、薔薇の花弁をいくつか散らした。
「ルカス様。フェルディナント様から、何かお聞きになりましたか」
「兄上から、ですか」
「ええ」
「……いいえ。何も」
「左様でございますか」
私は、しばらく黙った。
どう切り出すべきか、考えあぐねた。
しかし、ルカス様の方が、先に口を開かれた。
「義姉上。兄上が、何か」
「ええ」
「私に、関わりのあることでしょうか」
「……ええ」
「お話しになれぬのなら、私からひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」
「どうぞ」
ルカス様は、しばらく薔薇を見つめておられた。
そして、極めて平坦な声で、こう仰った。
「兄上は、義姉上を、私に押し付けようとなさっておいでですか」
私は、息を、半拍止めた。
「――何故、お分かりに」
「兄上の思考の癖です。3年、領地を代行しておりますと、兄上の逃げ方が読めるようになりました」
「逃げ方」
「ご自身の不備を、家門のせいにし、家門の重荷を、最も近い者に押し付ける。今回、最も近い者は、私です」
「左様でございますか」
「義姉上」
「はい」
「私は、お受けしません」
ルカス様は、はっきりと、そう仰った。
軍人の声であった。
「義姉上を、兄上の都合の道具になさることは、私が許しません。これは家門法上の問題ではなく、私個人の問題です」
「ルカス様」
「はい」
「お尋ねしても」
「どうぞ」
「……あなた様は、何故、そこまで」
ルカス様は、しばらく答えになられなかった。
風が、また薔薇を散らした。
やがて、極めて平坦な声で、こう仰った。
「義姉上が嫁いでこられた日のことを、覚えております」
「はい」
「玄関ホールで、初めてお目にかかった。兄上の隣で、義姉上は雨に濡れた銀の薔薇のような色をしておられた。あの日、私は初めて、誰かを欲しいと思いました」
私は、息ができなかった。
「兄上の妻でいらした。一生、黙るつもりでおりました」
「ルカス様」
「ですから今、兄上が自分から壊してくださったことを――私は、感謝してしまっております。そのことが、私には何より許せません」
ルカス様は、初めて、私の目をご覧になった。
静かな目だった。
火ではなく、深い湖のような目。
「義姉上。私は、お受けしません。しかし、もし――」
「もし」
「兄上の家門法違反が、書面と証人によって証明されたなら、ヴェルナー家の嫡男位は、家門法第37条に従い、自動的に私に移ります。その時は」
ルカス様は、軍人の声に戻られた。
「その時は、私から、改めて義姉上に、求婚いたします。兄上の道具としてではなく、私個人として」
私は、しばらく黙った。
それから、ようやく――3年ぶりに、心からの笑みを、漏らした。
「ルカス様」
「はい」
「あなた様は、お茶の濃さは、お濃いめがお好みでしたかしら」
「……はい」
「では、後ほど、お持ちいたしますわ」
ルカス様の耳が、ほんの少しだけ、赤くなった。
◇◆◇
その夜、私は書斎で、フェルディナント様にお伺いを立てた。
「フェルディナント様」
「決心がついたか」
「ええ」
「賢明な判断だ」
「ただ、ひとつだけ、確認させていただきたく」
「申してみよ」
「ルカス様は、本件をご承諾なさったのでしょうか」
「無論だ。今朝、話を通した」
「左様でございますか」
「明後日には、書面に起こす。お前も署名するように」
「承知いたしました」
私は、深く頭を下げた。
下げた顔の角度の中で、口元だけが微笑んでいた。
フェルディナント様は、この時、2度目の嘘をつかれた。
ルカス様は、何も聞かされていない。それは庭で本人から確認した。
しかし、夫はそれをご存じない。
そして、夫が「弟を承諾させた」と私に告げたこの一言――これこそが、家門法第37条発動の、最後の証拠であった。
『夫が虚偽の理由により正室の貞節を弟または親族に委ねた場合』
虚偽の理由――偽診断書。
正室の貞節を弟に委ねた――今、まさに口頭で。
私は、書斎の扉を閉める間際、振り返って申し上げた。
「フェルディナント様。本件、親族会議で正式に承認をいただきとう存じます」
「親族会議?」
「家門の血に関わる重大事ですもの。叔父様方、ご親族のお歴々にお集まりいただき、書面と証人をもって、決定いたしましょう」
「……それは、おおごとに過ぎぬか」
「いえ。家門のためですわ。フェルディナント様のご決断が、合理的であると、皆様にご理解いただかねば」
「うむ」
「明後日、お招きいたしましょう。よろしゅうございますか」
「……分かった。任せる」
「ありがたく存じます」
扉を閉めた。
廊下に、ハインリッヒが控えていた。
「奥様」
「ハインリッヒ。明後日の親族会議の招待状を」
「すでに、用意してございます」
「叔父様方の他に、もうひと方、お呼びすべき方が」
「シュヴァルツ先生でいらっしゃいますね」
「ええ」
「お声がけ済みでございます」
「あら」
「奥様。先代様のお言いつけは、こうでございました。『嫁いだ娘が3日笑わぬ日が続いたなら、書庫の鍵と、医師の名と、親族の連絡網を渡せ』と」
「先代様は」
「お見通しでいらっしゃいました」
私は、廊下の窓から、夜空を見上げた。
亡き先代様が、星のどれかでいらっしゃるならば――今、私は、あなた様にこそ嫁いだのだと、申し上げたい気持ちであった。
◇◆◇
親族会議の朝。
ヴェルナー家の大広間に、12人の親族が集まった。
長老格の叔父様、伯母様方、傍系の従兄弟方。
末席に、ルカス様。
そして、ヴェルナー家の家令ハインリッヒと、シュヴァルツ医師、執事頭が証人として控えた。
フェルディナント様は、上座でいくぶん落ち着かぬご様子であった。
私が「親族会議」を提案した時には、御しやすい場で押し切るつもりでおられたのだろう。
だが、集まった顔ぶれを見て、雲行きの違いを察しておられる。
私は、夫の隣で、卓に3枚の紙を、静かに並べた。
1枚目。
フェルディナント様が「医師の元に保管されている」と仰った、偽の診断書。これはハインリッヒが昨日、夫の書斎の鍵のかかった引き出しから「お掃除のついでに」取り出してきたものである。
筆跡は、見覚えのない、粗い字であった。署名欄の医師名は、王都の医師名簿に存在しない名前であった。
2枚目。
シュヴァルツ医師による、フェルディナント様の本物の健康診断書。3通のうちの1通。フェルディナント様は、極めてご健康。生殖能力に問題なし。
3枚目。
私とフェルディナント様が嫁入りの夜に署名した、婚姻誓約書。封蝋済み。家門法第37条への従属条項を末尾に持つ。
3枚は、互いを裁き合うように、静かに並んでいた。
長老格の叔父――先代様の弟君に当たる方が、咳払いをなさった。
「ヴェアトリス。話を伺おう」
「叔父様。ありがとうございます」
私は、立ち上がった。
声を、わずかに張った。
ただし、感情は乗せなかった。
「フェルディナント様は、先日私にこう仰せになりました。『私は子をなせぬ病である。家門のため、弟ルカスとの間に世継ぎを成せ』と」
広間が、しんとした。
「私は、診断書の提示を求めました。フェルディナント様は、医師の元にあると仰り、医師のお名前を伏せられました」
「ふむ」
「念のため、こちらに先代様の主治医でいらしたシュヴァルツ先生をお招きし、フェルディナント様の本物の診断を取らせていただきました。シュヴァルツ先生」
シュヴァルツ医師が、立ち上がった。
「フェルディナント様は、極めてご健康であらせられます。子をなすことに、何の障害もございません。これは、私の名誉と医師免許に懸けて、申し上げます」
叔父の眉が、上がった。
フェルディナント様の顔が、白くなった。
「お、お待ちを。それは、別の医師の所見と異なる――」
「フェルディナント様」
私は、静かに申し上げた。
「お掛かりの『別の医師』のお名前を、この場で仰っていただけますか」
「そ、それは――」
「叔父様。1枚目の紙を、ご覧くださいませ」
叔父が、偽の診断書を手に取った。
しばらく眺めて、眉間に皺を寄せた。
「ヴェアトリス、この医師の名は、王都に存在せぬぞ」
「左様でございます。私も同じ確認をいたしました」
「フェルディナント。これは、何だ」
「い、いや、それは、その医師は、地方の――」
「地方のどこだ」
フェルディナント様は、答えられなかった。
私は、2歩、夫の方へ近づいた。
「フェルディナント様。あなた様が私に、ルカス様との間に子を成せと仰った時――『ルカスは承諾した』ともお伝え下さいましたわね」
「あ、ああ」
「ルカス様」
私は、末席を見た。
ルカス様が、立ち上がった。
「兄上から、当該の件について、いかなる相談も、説明も、承諾要請も、私は受けておりません。これは、私の名誉と騎士団入団時の宣誓に懸けて、申し上げます」
広間に、低いどよめきが走った。
フェルディナント様の手が、震え始めた。
「叔父様。3枚目の紙を、お開きくださいませ」
叔父が、婚姻誓約書を開いた。
末尾の脚注を、読み上げた。
「『本誓約書は家門法に従属し、家門法第37条の発動時、本誓約は当該夫の側より無効となる』」
叔父は、顔を上げ、フェルディナント様を見た。
「フェルディナント。家門法第37条を、暗唱できるか」
「……は、はい」
「言ってみよ」
「『夫が、虚偽の、理由により――』」
声が、続かなかった。
叔父は、ご自身で続けられた。
「『正室の貞節を弟または親族に委ねた場合、嫡男の地位は当該夫より剥奪され、最も近き直系男子へ移譲される。剥奪は親族会議の議決を要さず、書面と証人をもって自動的に成立する』」
叔父は、卓を、軽く指で叩かれた。
「すでに、書面は揃った。証人も揃った」
「叔父上、お待ちを――」
「フェルディナント。お前は、自分の口で、自分を廃嫡した」
フェルディナント様は、椅子に崩れた。
「な、なぜ廃嫡されるのは、私なのだ……!」
声を、絞り出された。
「家門のためを思って、私は――」
「家門のため、ですか」
私は、静かに申し上げた。
「フェルディナント様。家令ハインリッヒから、ご親族の皆様に、ご報告がございますの」
ハインリッヒが、卓の脇に進み出た。
眼鏡を、ゆっくりと直した。
そして、痩せた手に、革の手帳を持っておられた。
「失礼を承知で、申し上げます」
老家令の声は、極めて平坦であった。
「フェルディナント様は、過去3年の間に、領地金52,000マルクを、グラーフェンベルク街27番地の館に、計37回、送金しておられます」
広間が、ざわめいた。
「同館にお住まいなのは、ヘレナ・フォン・リンデン嬢と、その私生子でいらっしゃるエリアス様。ご年齢は、2つ」
「ふた、つ……」
叔父の声が、低くなった。
「フェルディナント様とヘレナ嬢のご関係は、ご婚姻のおよそ1年前から続いておられます。エリアス様の御父上が、フェルディナント様であることは、ヘレナ嬢ご自身が3日前、私の問い合わせに書面でお認めになりました」
ハインリッヒは、淡々と続けた。
何の感情も乗せず、ただ事実だけを並べた。
「子をなせぬ病、と仰せの間にも、ヘレナ嬢のもとには、毎月の養育費が滞りなく送られております。直近の送金は、つい先月、奥様にルカス様とのご縁を仰せになる、10日前のことでございました」
フェルディナント様の手が、卓の上で、ぴくぴくと震えた。
「ち、違う、それは、それはエリアスは私の子ではない、私は――いや、ルカスが私を陥れようとして――」
ルカス様が、初めて声を荒げられた。
「兄上。私は今朝、初めてエリアス様の存在を、家令から伺ったところです」
「お、お前が、糸を引いて……」
「兄上が、ご自身でお書きになった送金記録を、私が偽造できるとお思いですか」
フェルディナント様は、もはや言葉を失っておられた。
叔父が、低く仰った。
「フェルディナント。最後に、お前自身に問う」
「は……はい」
「お前は、子をなせぬ病であったか」
「……いいえ」
「ルカスに、世継ぎを成すよう、相談したか」
「……いいえ」
「正室を、虚偽の理由により、弟に委ねようとしたか」
長い沈黙の後、フェルディナント様は、呟くように仰った。
「……はい」
叔父は、頷かれた。
「家門法第37条、発動。書面ここに、証人ここに、本人の自認ここにあり」
ハインリッヒが、すかさず1枚の紙を、夫の前に置いた。
『嫡男位辞退届』
すでに、家門の書式で清書されていた。
「フェルディナント様。お署名を」
フェルディナント様の手が、ペンを取った。
ペン先が、紙の上で、何度か揺れた。
そして――
震える文字で、ご自身の名を、書かれた。
自分で、自分を廃嫡なさった。
ペンを置く音が、紙の上で、ことりと鳴った。
◇◆◇
私は、その音を、生涯忘れぬだろうと思った。
3枚の紙が、互いを裁き合った末に、最後の1枚が加わった。
夫が、自身の手で書いた、4枚目の紙。
それは、私を縛っていた、最初の1枚――偽の診断書――を、完全に焼き尽くす紙であった。
叔父が、立ち上がられた。
「ルカス・フォン・ヴェルナーを、本日付をもって、ヴェルナー家嫡男に認定する。異議のある者」
広間に、誰ひとりとして、声を上げる者はいなかった。
「異議なし。よって、決定」
叔父は、私の方を向かれた。
「ヴェアトリス。3年、よく耐えた」
「叔父様。耐えてはおりません。ただ、読んでおりました」
「読む?」
「家門法を。婚姻誓約書を。先代様の手帳を。そして――夫の顔色を」
叔父が、静かに笑われた。
「ヴェルナー家の嫁とは、こうあるべきだ」
フェルディナント様が、呆けた顔で、私を見上げておられた。
私は、夫であった方の前で、深く一礼を申し上げた。
「フェルディナント様。3年間、お世話になりました」
「ヴェアトリス、待ってくれ、私は――」
「家門法第37条発動により、私の婚姻は、あなた様の側より無効になりました。私の側からは、まだ、生きておりますが」
「では!」
「私の側から、本日をもって、解消いたします」
私は、嫁入りの夜にいただいた指輪を、卓の上に、静かに置いた。
「お返しいたします。あなた様の合理に、お似合いの方へ、お贈りくださいませ」
そして、ヘレナ嬢の名前を、口にした。
「エリアス様の御母上に、お贈りなさるのが、最も合理的かと存じます」
フェルディナント様は、もう、何も仰らなかった。
◇◆◇
親族会議の半年後、夏の盛りである。
ヴェルナー家の大広間で、私とルカス様の婚礼が執り行われた。
新嫡男ルカス・フォン・ヴェルナーと、その正室ヴェアトリス。
招待客は100名を越えた。
長老格の叔父様が誓約の証人を務められ、シュヴァルツ医師は来賓席で目を細めておられた。
末席で、ハインリッヒが眼鏡を直しておられた。眼鏡の奥の火は、ずっと、温かい色をしていた。
ルカス様は、軍服を脱ぎ、白の礼装を召しておられた。
私は、薄水色のドレス。嫁入りの夜の色とは、違う色を選んだ。
お披露目の挨拶で、ルカス様が壇上に立たれた。
私の手を取り、招待客に向かって、こう仰った。
「皆様。私の妻ヴェアトリスは――」
私は、隣で微笑んでおいた。
優しい言葉のひとつやふたつ、お話になるのだろう、と。
ルカス様は、続けられた。
「――誰よりも美しい字で、誓約書を読み解きます」
広間が、一瞬、しんとした。
そして、誰かが、噴き出した。
それを合図に、笑いが、波のように広がった。
私は、扇を、ぱしりと閉じた。
ルカス様の肩を、軽く叩いた。
「ルカス様」
「はい」
「誓約書を読むのは、妻の仕事ではございません」
「……そうでしたか」
「ええ」
「では、何を、申し上げればよろしかったでしょうか」
「『美しい』のひと言で、お止めになるのが、よろしうございましたわ」
ルカス様の耳が、また、赤くなった。
広間の笑いが、もう1段、大きくなった。
叔父様が、お腹を抱えて笑っておられた。
ハインリッヒが、柱の陰で、肩を震わせておられた。
シュヴァルツ先生は、ハンカチで目元を押さえておられた。
私は、扇の影で、小さくため息をついた。
――この方は、3年お待ちくださった末に、結局、朴念仁のままでいらっしゃる。
それが、嬉しかった。
◇◆◇
その夜、屋敷の書斎で、私は1通の手紙を見つけた。
机の上に、ハインリッヒが置いておいたものらしい。
差出人は、東部の小領地。フェルディナント様の蟄居先である。
『ヴェアトリス。一度だけ、会ってくれぬか。私は間違っていた。やり直したい』
私は、それを、2度読んだ。
2度目に、口角が、少しだけ上がった。
扉が、ノックされた。
ハインリッヒが、入ってきた。
「奥様。お読みになりましたか」
「ええ」
「いかがいたしましょう」
「ハインリッヒ」
「はい」
「あなた様、暖炉の火を、お絶やしになりませんわよね」
「奥様の書斎の火は、年中絶やしませぬ」
私は、手紙を、ハインリッヒに渡した。
老家令は、それを受け取り、暖炉の前まで歩いた。
そして、紙を、火にくべた。
紙は、よく燃えた。
ぱちりと、小さな音を立てた。
ハインリッヒは、火を見ながら、ぽつりと呟かれた。
「……ざまぁみろ」
私は、聞こえなかったふりをした。
老家令の名誉のために。
扉が、また、ノックされた。
ルカス様が、お入りになった。
「ヴェアトリス。何か、燃えていますか」
「ええ。家門の埃ですわ」
「埃?」
「焼かねば、後々のためにならぬ類の、埃でございます」
「左様ですか」
ルカス様は、それ以上、お尋ねにならなかった。
賢明な朴念仁でいらっしゃる。
そして、背後から、私の肩に、そっと手を置かれた。
「ヴェアトリス」
「はい」
「来春の予定を、書いておきました。お部屋に届けてございます」
「あら。何の予定を」
「お受け取りになってから、お確かめくださいませ」
私は、書斎を後にした。
私室の机には、1枚の紙が置かれていた。
ルカス様の几帳面な筆跡で、こう書かれていた。
『来春、長子誕生予定。ヴェルナー家嫡孫として、登録手続き要』
私は、思わず、笑った。
それから、その紙を、胸に当てた。
「ルカス様、これは、まだ早うございますわ」
窓の外で、夏の蝉が鳴いていた。
書斎の暖炉では、紙がよく燃えていた。
私の手の中の紙は、温かかった。
喉の奥が、紙のように、温かく、潤んでいた。
3年前のあの朝、紙のように乾いていた喉が――
今、同じ紙で、こんなにも、潤うのである。
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