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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第五十九話 家の都合という書き方は、先に渡されていた


 辞退という言葉は、本人が選んだ顔をしている。


 だから厄介だ。

 本当は押し出されたのに、自分で退いた形だけが残る。

 それでは、後から記録を追っても、誰がその手を添えたのか見えにくい。


 夏期拝謁式の補助席候補だったマヤは、記録院の奥にある小さな待合室へ通されていた。


 広くない部屋だった。

 白い壁。低い机。窓は細く、外の回廊の影だけが床へ伸びている。緊張した者を長く置くには、ちょうどよい狭さだとルカは思った。


 マヤはまだ若い。

 十代の終わりか、二十に届くかどうか。膝の上で両手を固く重ねている。辞退願を書いた者の顔ではなく、書かされた文が自分の筆跡で残った者の顔だった。


 ルカが向かいに座る。

 少し遅れて、エレノアもその隣へ腰を下ろした。灰青の衣は今日も崩れていない。だが、その静かなまなざしには、昨日までのものとは違う冷え方がある。アデルの話を聞いたあとの冷え方だった。


「急に呼び立ててすみません」


 ルカが言う。


「いえ……」


 マヤは小さく頭を下げる。


「辞退願のことを伺います」


 その一言で、マヤの肩がわずかに強張った。


「家の都合、とありました」


 ルカは紙を机の中央へ置く。


 ――夏期拝謁式補助席三番候補辞退願

 ――家の都合により


「これは、事実ですか」


 マヤはすぐには答えなかった。

 指先だけが、膝の上の布を少し強く掴んだ。


「……家の方が、反対したわけではありません」


「では、なぜそう書いたのです」


「そう書くのが、一番傷が少ないと」


 そこで、エレノアの目が静かに上がる。


「誰に言われたの」


 責める声ではなかった。

 だが、逃げる余地の少ない問い方だった。


 マヤは少し迷い、それから答えた。


「女房局の方です」


 やはり。


「名前は」


「存じません。ですが、東宮女房局の灰銀の内紋を袖に」


 ルカはその言葉を受けて、辞退願の下へ小さな照会札を重ねた。


「いつ、どこで」


「今朝、礼法係へ向かう手前の小回廊です。私は補助席三番の候補として朝確認を待っていました。そこへ、その方が来て」


「何と言いました」


 マヤは目を伏せた。


「“今は、下がるほうがよろしい”と」


「理由は」


「上位席が動く朝だから、と。下のお名前が先に立つと、あとで札に傷が残ると」


 ルカの指が、机の上でわずかに止まる。


 札に傷が残る。

 第一部の終盤で、マルゴットが口にしたのと同じ発想だった。

 いや、もっと前から王宮に住み着いていた言い回しかもしれない。


「あなたは、断りましたか」


「はい」


 今度の返答は少し早かった。


「まだ何も失敗していませんし、私は候補に上がっていたので」


「それでも、辞退願を書いた」


 マヤは唇をきゅっと結ぶ。


「“これは命令ではありません”と、その方は仰いました」


 まただ。

 命令ではない。

 だから責任が残りにくい。


「それで?」


「“今なら静かに済みます”と」


 エレノアの指先が、机の縁へそっと触れた。


「静かに済む」


「はい。そう仰いました。家の都合として一度下がれば、次の機会に悪い響きは残らない。けれど、上位席の朝に下の名が立って、あとから直す形になると、見苦しさだけが残ると」


 エレノアはしばらく黙っていた。

 その沈黙には怒りがあった。だが、それを安く外へ出さないだけの固さもあった。


「あなたのためだと」


 やがて彼女は言った。


「そう言われたのね」


 マヤは頷く。


「はい」


「そのとき、あなたの家の事情を、その方は知っていた?」


「いいえ。聞かれもしませんでした」


「なら、それは家の都合ではないわ」


 言葉は静かだった。

 だが、静かなぶんだけよく切れた。


「上の都合を、あなたの家の言葉に書き換えただけです」


 マヤのまつげが、そこで小さく震える。


 誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。

 自分でも分かっていたことを、ちゃんと別の人の言葉で確かめたかったのかもしれない。


 ルカは問いを進めた。


「その女房局の方は、口で言っただけですか」


 マヤは少しだけ迷ってから、袖の内側へ手を入れた。


「……これを」


 出てきたのは、小さく折られた薄紙だった。

 何度も開きかけてやめたような、浅い折り目がついている。


「捨ててよいと言われました。ですが、なんとなく」


 ルカは慎重に受け取る。


 中に書かれていたのは、わずか三行だった。


 ――本件、家都合にてよし

 ――公には触れぬこと

 ――辞退は朝確認前まで


 短い。

 だが、その短さがひどく嫌だった。


 エレノアもその紙を覗き込み、低く言う。


「また、“公には触れぬこと”……」


 アデルが残していた紙と、ほとんど同じ骨格だった。


 ルカは紙を裏返した。


 裏面の右端に、小さな貸出印がある。


 ――東宮女房局 外詰筆記束


 さらに、その下に細い頭文字。


 ――J.H.


 ルカは一瞬だけ目を細めた。


「頭文字がある」


「分かりますの」


 エレノアが問う。


「女房局の外詰名簿を取れば」


 そのとき、扉の向こうで短く足音がした。

 ミナが控えめに顔を出す。


「記録官」


「何です」


「お尋ねの女房局外詰名簿、出ました」


 早い。

 さすがに記録院の足だとルカは思う。


 受け取って、頁をめくる。

 今年度の外詰担当は三名。

 そのうち、J.H.に該当するのは一人しかいなかった。


 ユリアナ・ヘルム。


 ルカはその名を机へ落とした。


「東宮女房局外詰、ユリアナ・ヘルム」


 マヤが、わずかに顔を上げる。


「その方です。たぶん」


 エレノアは名簿を見つめたまま言った。


「ようやく、現在の名が一つ出ましたわね」


「はい」


 ルカは答える。


 古い箱。

 古い印。

 古い言い回し。

 そこへ、初めて今動いている名前が繋がった。


「マヤ」


 エレノアが向き直る。


「あなたは、下がるしかないと思ったのね」


「……はい」


「でも、本当は違った。下がるよう整えられただけよ」


 マヤは、すぐには頷けなかった。

 あまりにも、今日一日で自分に起きたことの名前が変わりすぎたからだろう。


「補助席に戻りたい?」


 エレノアの問いに、マヤは驚いたように顔を上げた。


「それは……」


 喉元まで上がった言葉が、そこで止まる。


 戻りたい。

 だが、戻ればまたどこかから別の“ご意向”が来るかもしれない。

 その恐れが見て取れた。


「今ここで答えなくていいわ」


 エレノアは言う。


「けれど、少なくとも“家の都合で自分から退いた”という形だけは、そのまま置かせません」


 マヤの瞳に、初めて少しだけ色が戻る。

 安堵ではない。

 自分の辞退が、自分ひとりの弱さとして片づかずに済むかもしれないと知った色だった。


 ルカは辞退願と薄紙を重ねた。


「この二枚は預かります」


「はい」


「そのかわり、あなたにはもう一度、誰に、どこで、どう言われたかを、順番どおりに記録へ載せてもらいます」


「……はい」


 マヤは今度ははっきり頷いた。


 待合室を出ると、回廊の灯はもう夕方の色へ寄っていた。


 エレノアは少し早い足で歩きながら、低く言った。


「静める、ではなく」


 ルカは隣を歩く。


「はい」


「書き換える、ですわね」


 その一言で、今回の手口の質がまた一段はっきりする。


「上の都合を、家の都合へ。

 押し出した事実を、自発的辞退へ。

 責任のある配置操作を、傷を避ける配慮へ」


 エレノアの声は冷えていた。


「全部、書き換えている」


「はい」


 ルカは答えた。


「だから痕跡が薄く見えるんです」


 回廊の角で、ロウェルが壁に背を預けて待っていた。

 最初からそこにいたような顔だった。


「顔を見れば分かるわ」


 彼女は二人を見る。


「引っかかったのね」


 ルカが薄紙を見せる。


 ロウェルは目だけで内容を追い、すぐに鼻で小さく息を鳴らした。


「家の都合。公には触れぬこと。辞退は朝確認前まで。綺麗な顔した汚れね」


「名前も出ました」


 ルカが言う。


「ユリアナ・ヘルム。東宮女房局外詰です」


 ロウェルの目が細くなる。


「ようやく、箱の外から来る手の指が一本見えたわね」


 そのとき、遠くの回廊で鐘が一度だけ鳴った。

 夜の前の短い合図だ。


 エレノアは薄紙を見つめたまま、静かに言う。


「次は、ユリアナ・ヘルムですわね」


「はい」


「ただし」


 彼女はそこで顔を上げた。


「問い方を間違えると、“配慮でした”で逃げられます」


 ルカは頷く。


「ですから、善意の顔を先に剥がします」


 ロウェルが小さく笑う。


「それでいいわ。こういう人間は、自分が誰のために汚れたのかを、まだ綺麗な言葉で信じているから」


 第三記録室へ戻る途中、ルカはふと足を止めた。


「もう一つ」


「何です」


 エレノアが問う。


「マヤの紙、“辞退は朝確認前まで”とあります。つまり、朝確認を越えるとまずいと分かっていた」


「正式な場へ乗る前に消したかった」


「はい」


 エレノアの目が、また静かに冷える。


「なら、ユリアナは知っていますわね。どこまで紙に乗ると、もう消しにくいのかを」


「ええ」


 ルカは答える。


 王宮の奥へ戻る回廊は、夕刻の白い光を細く返していた。


 静めるという処分は、やはり過去の箱の中だけにはいなかった。

 いまも誰かが、その場その場でもっとも無難な言葉へ書き換えながら、人の名を席から遠ざけている。


 今度は、名前まで出た。

 なら、もう“ご意向”のままでは済まない。

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