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第一話 空の欠ける音

 空が欠ける音は、氷の湖に走るひびのようだった。

 遠くで鳴っているのに、皮膚の内側で響いた。朝の六時を少し回った屋上で、私はそれを数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。

 湿った風でノートの罫線がふるえる。鉛筆の芯は細く削られ、その黒い粉が指先に移る。


 この街では、空が欠けても誰も驚かない。市場の屋根は半分崩れて、瓦の隙間から冷たい光が落ちていた。通りの角の店は、シャッターにチョークで「今日も焼きます」と書いて、本当にパンを焼くらしかった。遠くの家からは洗濯物を叩く音がして、煙突から出る煙は、欠けていく空に負けないようにまっすぐ立った。


 私はノートに書く。「六月十三日。欠けの縁が南から北へ移動。音は三回。風は、海の匂い。」


 ページの端で、灰がひとつ、白い虫のように舞って落ちる。頬についた灰を指で払いつつ、私は街の輪郭を見下ろした。まるで古い地図だ。色が抜けて、紙が薄くなって、端から向こう側が透けている。


 老人が扉から顔を出した。私よりずっと軽い足音だった。


「また空を聴いているのかい、お嬢ちゃん」

「ええ」

「わしには、もう耳鳴りと区別がつかんよ。……それでも、朝は腹が減る」

「おはようございます」

「おはよう。パンをもらってきてな。あそこは今日も焼くって、昨夜も言っておった」


 老人は笑って消え、扉の閉じる音が風に混じる。私は視線を空へ戻す。欠けの縁は、ゆっくりと、しかし確実に広がっていた。そこだけが、昼のも関わらず夜のように深く、星のいない絶対的な闇だった。


 ノートに線を引き、ページを閉じる。鉛筆を耳に挿す癖は、いつ身についたのだろう。思い出せない。思い出してはいけない気もする。私は階段を降り、屋上から街へ戻る。古い階段の鉄は朝露で冷えていて、靴底に薄い水の音を刻んだ。


 通りをひとつ曲がると、匂いが変わった。灰と塩気の混じったこの街の匂いに、温かいものが混ざる。小麦と、少し甘い焦げ。呼吸のしかたが勝手に深くなる。体はよく知っている。生きていくための匂いだ。


 シャッターにチョークの文字を残したまま、横の勝手口が開いている。覗き込むと、薄暗い店内の向こうに、火の明るさがあった。背丈の低い窯。握り拳ほどの薪がいくつも赤く、吐息のように光っている。窯口の前に、三つ編みの少女が立っていた。


 彼女は真剣な顔つきで、生地の表面を指先で押し、耳を傾け、微かに頷いた。パンが膨らむ音を聴いている。窯から立ちのぼる熱の層に、彼女の髪の先が揺れた。


 私に気づいたのは、そのすぐ後だった。


「お客さん?」

「……いいえ。ただ通りすがっただけ」

「へぇ。通りすがりの人も、お腹は空くでしょ?」


 少女は笑った。あたたかい笑い方だった。窯の火に似て、近づくほど静かに強くなる。彼女――あとで名前がノアだと知る――は、焼き上がったばかりの丸いパンを布に包み、少しだけ切って差し出した。


「味見。焦げてたら怒っていいよ」

「怒るのは得意じゃない」

「じゃあ、褒めるのは?」

「……上手くない」


 パンを受け取る。手のひらに熱が移る。皮は薄いのに、音を立てて割れた。中から白い湯気が立つ。私は小さくちぎって口に入れる。歯に触れる弾力と、舌に残る甘さと、遠い麦畑の匂い。喉を通るとき、胸の奥深くに押し込めていた何かの蓋が外れたように、少し痛んだ。


「どう?」

「……記録に困る味」

「記録?」

「私は、記録をしているの。世界がどう終わるのか、空がどんなふうに欠けるのか、誰が何をして何を残そうとしたのか。だから、味について書くのは、あまり良くない」

「なんで?」

「記録が、私の内面につくから。私は、内側を空にしておきたい」

「ふーん。難しいこと言うね」


 ノアは窯の中を覗き込み、火の様子を棒で整えた。火は素直で、棒の行く先を追いかけた。彼女はまた私を見た。目は夕焼けみたいに、橙が強い。


「でもさ、覚えてるって、生きてるってことだよ?」

「……そうかもしれない」

「うん。多分そう。だから、食べて。」


 彼女は自分の分をちぎって、頬張った。口の端に粉がついて、指で拭って笑う。私はもうひと口、噛む。胸の痛みは少し弱くなって、代わりに、遠い記憶が薄く泡立つ。誰かとパンを分け合った匂い。知らないはずの台所。名のない手。名のない笑い声。


 外から、乾いた金属の音が響いた。空の音ではない。避難警報の合図だった。街の中央にある錆びた鐘が、三回、間を置いて鳴る。崩れかけた地区で、地面の裂け目が広がっている合図。


 ノアは顔を上げ、すぐに布袋を背負った。袋の口から、包み紙にくるまれた小さなパンがいくつか顔を出している。


「行かなきゃ」

「どこへ?」

「湖の方。母に……渡したいんだ。最後のパン」

「もう、届かないかもしれない」

「うん。でも、焼いて渡すって約束したから」


 彼女の目の橙は、火とは別の強さを宿していた。私は言葉を探した。見つからない。ノートを開く。鉛筆が「約束」という時の途中で止まる。手が、少し震えた。


 店を出ると、通りの空気は慌ただしかった。荷車のきしむ音、壊れた看板を外す音、犬が遠吠えして、それが別の犬に連鎖する。頭上を鳩の群れが渡り、欠けの縁に並ぶように散っていく。誰も泣いていない。泣く時間はとうに使い切って、みな手を動かすことに決めたのだ。


「高いところに上がるな。荷車の後ろに子供を乗せろ。壊れた橋に近づかない」


 声の主は、銀の短い髪の女だった。肩に軽い防具を付け、腰に剣を帯びている。顔は冷たく見えなかったが、目は定規のように真っ直ぐで、揺れなかった。彼女は私たちを一瞥した。視線が、すぐにノアの背負った布袋に落ちる。


「避難所は北。南は地面が割れている。行くなら迂回しろ」

「北は、湖から遠ざかるよ」ノアが言った。

「生き延びたければ、遠ざかれ」

「生き延びるために、生きてない」


 女は短く息を吐いた。呆れる時の音だったが、ほんの少しだけ、口元が動いた気がした。


「名前は」

「ノア。こっちは……」

「リス」

「私はシエル。隊じゃない。人手が足りないから動いているだけだ」


 シエルは人垣に目を戻し、続けて指示を飛ばす。私はノートを閉じ、ノアの肩紐がずれないよう軽く直す。布越しに、焼きたての熱がまだ残っていた。


「湖はどっち?」ノアが尋ねた。

「南東。三日の道のり。橋が無事なら、二日」シエルが答える。

「じゃあ、行けるね」

「行ける、とは言わない。行く、とは言う」


 シエルはほんの一瞬だけ空を見た。欠けの縁はさっきより広く、昼の色が少し薄まっている。鐘が二度、間を置かずに鳴った。急ぐべき合図だ。


「同行しよう」シエルが言った。「子どもと、記録者と、パン袋。目立つ」

「助かる」私は言う。自分でも驚くほど素直な声だった。

「やった」ノアは笑った。「三人の方が、パンもたくさん食べてもらえるし」

「……その理屈でいいのか?」

「いいの。美味しい理屈はだいたい正しい」


 人混みを抜ける。崩れた門の影で、誰かが赤ん坊をあやしていた。鳴き声は出ない。代わりに、指を握る小さな音がした。犬は吠えるのをやめ、尻尾だけを速く動かしていた。風は海の方角から来て、洗濯物の端をかすめ、私たちの頬をすり抜けた。


 通りの端に、誰かが落としていった空の写真が転がっている。昔の空だ。端は青く、真ん中は白く、どこにも穴はなかった。写真の角は擦り切れて、指で摘むとすぐちぎれそうだ。私は拾わない。拾えば、ノートに貼りたくなる。


「リス」

「なに」

「空、欠けてくね」

「ええ」

「でも、まだ綺麗だね」


 ノアはそう言って、パン袋を少し抱き直した。腕の中で、小さくやさしい音がした。パンがパン同士でぶつかる、柔らかな音。


 私はその言葉を、心の内側のどこにしまえばいいか、わからなかった。仕舞う引き出しが足りない。だから、初めて外側に書くことにした。ノートではなく、舌の上で。


「……綺麗だ」


 自分の声が、記録とは無関係な響きを持った。それは、空の音とも、孤独な屋上の風の音とも似ていない。誰かと同じ側に立って、初めて発する声だった。シエルが振り返り、わずかに目を細める。彼女の目にも、ほんの少し色が差して見えた。


 街の外れの坂道を登る。瓦礫が朝日に照らされて、砂糖のように白かった。欠けた空は、ちょうどこの街の上をかすめていく。その漆黒の縁が、街の輪郭を切り取っていくように見えた。

 そして遠くで鐘が最後に一度だけ鳴り、音は風に細く延びて消えた。


 坂の上に立つと、道が伸びていた。南東へ、海へ、そして湖へ。三人の影が長く伸びる。私はノートを開き、今朝の最後の行を書いた。


「世界の終わりにも、朝は来る。旅は、朝に始まる。」


 鉛筆を耳に戻す。ノアが一歩、また一歩と踏み出す。シエルがその肩越しに周囲を見渡す。私は空の音を一度だけ数えて、それから数えるのをやめた。数えない音も、記録になる気がしたからだ。


風が、パンの匂いを運んできた。灰の匂いより強く、欠けた空よりも確かだった。私は首を上げる。空は欠けていく。けれど、まだ綺麗だ。


 そして私たちは、歩き出した。

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