第六章
短い初夏の休息日を終え、目を閉じれば白い砂浜とコバルトブルーに輝く海面、静かに寄せては返す波音、穏やかな光に照らされた景色、そして親切な住人たちの笑顔が脳裏に浮かぶ。
我が家は人里から遠く離れ、魔物の領域の只中にひっそりと佇む一軒家だ。
人との関わりを避けて選んだ場所ではない。結果的に人が近くにいないこの環境は、今の私にとって自由に研究や生活を営むうえで好都合だった。だが、ずっとここで暮らすのは少し違う。
漁村での休息が私に合っていた理由は単純で、自然と人、両方が調和しているからだ。両者が揃う機会は滅多にない。
「ここは本拠地として、向こうは避暑地…」
思いついた案に私は頷いた。夏は今が盛りで、海を存分に楽しめる。
脳裏に浮かんだのは、既存の道具を少し上回る程度の性能を持ち、しかし突飛すぎて騒ぎにならない魔道具。工房に籠もり、手を動かしながら組み立てていく。
「良し、完成」
外は初夏の陽射しが強く、暑さにだらけているドベルを急かし、笛を吹いた。瞬間、夏バテなど感じさせない力強い突風と共にイリスが現れる。目的地はあの漁村だ。
伝えただけで方向を理解したのか、イリスは自らの意思で進路を定め、風魔法を操りながら速度を上げる。空を裂く風が肌を撫で、光が雲間から差し込む。ドベルも慣れた様子で、尾を静かに揺らしていた。
片道七日かかる道程を五日で駆け抜けた褒美に、竜種の肉を与える。そしてまずは村をまとめている最初の案内人――あの時世話になったお婆さんの家を訪ねた。懐かしい木の香りが漂う家屋の前で、ドベルの尾は嬉しげに揺れ動く。お婆さんに可愛がられてきた記憶が蘇ったのだろう。
「今より安全になるなら構いませんよ」
イリスが滞在していた間、村の周囲では魔物の姿がしばらく見えず、漁に出た船も何事もなく平和に過ごせていた。その実績から、今回の提案――イリスの鱗を用いた魔道具の効果を説明し、設置の対価として空き地を譲ってもらえることになった。
「では、イリスはここが縄張りだとわかるように挨拶してきてください」
「クィ~」
小物といえど容赦しないという意志を宿したかのような鋭い目付きで、イリスは領域を示すために空へ舞い上がる。その姿に住人たちから歓声が上がった。私には食いしん坊な巨漢のワイバーンにしか見えないが、彼らには守護者に見えているのだろう。もっとも、それだけで全てが解決するほど魔物は単純ではない。鋭敏な感覚を持つ者もいる。
森の一軒家を離れると、ドベルが「荒らすな」と言わんばかりに仕留めた獲物を庭に置いていく日も少なくない。だからこそ、私はイリスの鱗と中型以上の魔物から得た核を組み合わせ、結界擬きの魔道具を作った。イリスは中型の上位に位置し、その魔力は下位の魔物を容易に遠ざける。さらに核を媒介にすることで影響を増幅し、通常ならイリスが恐れる大型の魔物すら寄り付かなくなる。効果は半ば永続的だ。
核のエネルギーが尽きれば効力は弱まるが、魔道具はそのまま使える。整えた新しい核を嵌め込むだけで、私が不在でも村人たちの手で効果を維持できるよう設計した。
その仕組みをお婆さんと孫夫婦に説明すると、口伝によって住人たちに広まり、期待に満ちた眼差しを向けられた。イリスは特に子供たちの憧れの的である。
既存の結界魔道具も似た仕組みではあるが、成長と共に自然に剥がれ落ちた鱗を大量に保管している私とは違い、他者にとって鱗の入手は困難だ。中型上位の魔物を相手取るとなれば、プラチナ帯の傭兵たちが徒党を組み、命を賭してようやく素材を持ち帰る。それほどの危険を伴う。
イリスの鱗を市場に納品することもあるが、価格が高騰するため、多くは買い手に手が届かない。以前、欲しい物を我慢するような表情で話されたこともあった。今回は無償ではなく、対価としてイリスが休める広い土地を受け取った。浜辺を一望できる高台で、眺望も風通しも良い場所だ。
別宅を建てる前に、約束の魔道具を設置する。陸地では、効果が漁村に害を及ぼさない範囲に発光杭を打ち込んでいく。この杭そのものが魔道具になっている。均等に打ち込み、海の方へは遠くまで潜り込ませて設置した。魔法で周囲に空間を展開し、水中での作業を可能にする。水圧を防ぎながら、自らの手で杭を打ち付ける行為は、単なる労働でありながら自然との対話のようでもあった。
村人が今後も継続させるなら中型の魔核じゃなくとも、魔核であればそれなりに威力が増幅される。交換せずともイリスの鱗でイリス以下への効果は維持される。今回は初回サービスだと思って、より強固にした完成品とも一言添えてある。
すべてを魔法任せにせず、体を使って作業を進めていくうちに季節は移ろい、過ごしやすい気候が訪れていた。夏の盛りを逃したことは仕方がない。また来年を楽しみにすればよい。私は次の段階――家の建築に取り掛かる。
「ほら、これ食いな」
「立派な蛸ですね」
「そんなん喜ぶの、兄ちゃん位だけどな」
高台で作業していると、住人がよく遊びに来る。必ずといっていいほど手土産を持参し、ドベルやイリスには手作りの玩具を渡していく。イリスはあまり関心を示さないが、ドベルは犬の習性を強く持ち、投げれば取ってきて遊び相手になる。結果として、彼の寝床は住人からの贈り物で溢れていた。
子供たちは体格で三倍は違うドベルを恐れることなく近づき、ドベルもイリスの真似をして背中に人を乗せてやる。私よりもよほど村に馴染んでいるようだ。
この日のように私には蛸が渡されることが多い。網にかかると厄介者として捨てられるものを、欲しがった私に気を利かせ、以後は蛸がかかればその日のうちに持ってきてくれるようになったのだ。
海にはクラーケンという巨大なイカに似た魔物が存在し、その肉は切り身にされ流通している。だが、姿を知らない者にとって、蛸は同じ軟体生物であっても奇妙に映り、虫のように扱われることが多い。
私は簡単な塩揉みの下処理を教えたが、塩が貴重で勿体ないとされ、結局は私だけが蛸を喜んで食べる変わり者という扱いになった。それでも気にはならない。
魔道具設置により漁の範囲が深瀬にまで拡大し、漁村には近隣から商人が買い付けに訪れるようになった。だが、高台に至る道は険しく、地元の住人しか知らない秘密の道となっている。
「敢えて言わないのか、特に理由は無いのか分かりませんが、有難いことです」
静かにそう告げるお婆さんの瞳には配慮が宿っていた。魔道具の良さを広めれば人の出入りが増える。それを避け、騒がしさを私に与えまいとした心遣いだろう。私はその思いやりに深く感謝した。