第四章
隠居生活を始めてから、もう数年が過ぎていた。イリスの風圧で屋根が吹き飛んだのを機に、土台から家を建て直すことにした。改装ではなく新築だ。とはいえ、古い家にも思い出が染み付いている。だから壊すのではなく、そのまま魔法鞄に仕舞い込んである。時間はいくらでもあるので、いつでも修繕して取り出せるのだ。
森の奥に建つその家は、外観だけを見れば街の中の民家と何ら変わりはない。木漏れ日が落ちる緑に囲まれているだけに、どこか不思議な光景だった。家の内部には、汚れを分解する魔道具を設置してあり、起動すれば掃除の手間も不要となる。つまり、私の意識にある「こうあれば便利だ」という発想が、魔道具として形になり、生活をより快適にしているのだ。
快適な住まいと隣接する工房を行き来しながら、時折は最寄りの街へ出向き、魔物を討伐して卸すことで傭兵としてのランクを維持している。街の石畳は賑やかで、行商の声や子供たちの笑い声が絶えない。
コリンからは定期的に念話が届き、近況報告や助言を交わす。言葉だけでは伝えにくい時には、イリスに乗って空を翔け、ネオンベルベへと向かうこともある。
魔道具作りへの熱も落ち着き、これまで魔法で済ませていたことを魔道具が代わりに担ってくれるようになった。考える必要もなく暮らせるのは心地よく、そのまま怠惰に日々を過ごしていたのだが――私の安穏を揺さぶる存在がいる。愛すべき相棒、ワイバーンのイリスだ。
彼女はさらに成長し、私が形見として受け継いだ頃の倍ほどの大きさになった。すると本能なのだろう、素材を求めて遠方へ出かけると、必ず他の魔物に喧嘩を売るようになってしまった。以前は自分より大きな存在、特に空を舞う竜種を避けて飛んでいたのだが、今ではまるで人間の「肩パン」のような行為をする。速度を上げて体当たりし、挑発するのだ。
そのせいで、火竜と衝突した時には私まで炎に巻き込まれてしまった。幸いイリスは結界のトルクを装着していたため被害はなく、私も火竜の核を手に入れることができた。
燃え盛る火の粉の中、火竜がまっ逆さまに墜落していく姿を見て慌てて魔法鞄へと収納したが、心臓の鼓動はしばらく治まらなかった。何度も厳しく言い聞かせてはいるのだが、イリスの反省はその場限りで、結局また同じことを繰り返す。それが悩みの種である。
さらに家の庭には、イリスが拾ってきた魔物――マッドドッグと呼ばれる、ドーベルマンに似た魔物まで加わった。
「お座り」
「ん」
「待て」
「ん」
見た目は勇ましい犬なのに、鳴き声が妙に可愛らしい。これ以上は飼えないとイリスにはきつく言い渡してある。その魔物には「ドベル」と名を付け、今は私の使役獣として登録している。中型魔物であるため遠方への素材集めには連れて行けず、留守番を任せることが多い。その代わり、土産に魔物肉を与えるとイリスと並んで嬉しそうに食べる。血の匂い漂う生々しい光景ではあるが、それも彼らの営みだと受け入れるしかなかった。
イリス繋がりで思いがけない再会もあった。ヴァイスの義理の息子、ハリーに会ったのだ。彼が住む街の上を遠征中に通りかかり、立ち寄った際に偶然出会えた。イリスの巨大化した姿を見て彼は驚き、同時に元気でいることに安堵していた。彼はすでに父親となっており、二人の子どもに恵まれているという。その幸福そうな笑顔にヴァイスの面影が重なり、私も自然と頬が緩んだ。
「ん」
「気をつけて」
ドベルは日々、家の周辺を駆け回って運動している。イリスの縄張りとなったこの森では、彼女に逆らう魔物はいない。さらにイリスの鱗から作ったアミュレットを身につけたドベルは守護の力に包まれ、自由に走り回ることができる。それでも、なぜイリスがわざわざこの魔物を拾ってきたのか、その理由はいまだに分からない。
『――久しぶり。今は大丈夫?』
『ええ、もちろん』
コリンからの念話が届いた。そういえばドベルのことをまだ話していなかったと思い出し、彼の用件を聞いたあと、いくつか近況を語った。最後にドベルのことを伝えると――
『イリスが拾ってきたの?』
『そうなんですよ。怪我もなく、怯えた様子のマッドドッグを咥えて帰ってきて』
『イリス、寂しいんじゃない?』
『元気にしてますけどね』
コリンの見識をもってしても、イリスの不可解な行動の真意はつかめなかった。森を渡る風が、静かな午後を揺らしていた。