第十六章
屋根の下で眠る安心感からか、デベスは昼近くまで熟睡していた。長い遠征を終えたばかりの彼は、未だに現実と夢の境目が曖昧なまま、寝ぼけ眼で食堂に現れた。窓からは柔らかな昼の光が差し込み、食堂の空気はゆるやかに温まっていた。
「師匠…俺。火竜倒したっすよね?」
「夢じゃないですよ」
私が庭に火竜の亡骸を出すと、デベスは素足のまま飛び出し、陽光の下でハルと共に小躍りして喜んだ。春の風が芝を揺らし、燦めく光の中で彼の表情は子供のように純粋だった。冒険が確かに現実だったと、胸に深く刻み込んでいるのが伝わってくる。
興奮のあまり大の字になって庭に寝転ぶ姿を、私は声を掛けずに静かに眺めていた。汗で額が光り、息を弾ませながらも満ち足りた笑みを浮かべる彼には、余韻に浸る時間こそ必要だと思えた。
私は私で、贈り物を渡すために鞄の中を探す。そこには、予備として用意していた仕上げが残る未完成のパーチがある。加えて、冒険に必要な魔道具一式も揃っていた。
パーチはデベスの物語を記録し続けるだろうし、ハルの進化の糧となる魔物の肉も、新鮮なまま持ち運べる。すべてがデベスとハルの旅に必要なものだ。
「師匠、目を覚ますので風呂使わせて貰うっす」
「どうぞ、ゆっくりしてきなさい」
気が済んだのか庭から戻り、汗を流すため浴場に向かう。廊下に射し込む光に背を照らされるその後ろ姿は、元々鍛錬された体躯だったが、ハルとの実戦を重ねたことで余計な筋肉は削ぎ落とされ、しなやかさと均整の取れた姿に仕上がっていた。空を駆ける者にふさわしい身体だ。私にとっても新たな観察対象であった。
やがて浴場から戻った彼は、火照った頬を紅潮させながら髪から滴を落としつつ、台所で水を飲み干した。
「良いお湯だったす。最初はめんどくさいとか思ってましたけど。夜営中に風呂が夢に何度も出て来て、何度帰りたいと泣きつこうか思ってましたけど」
「気に入ったのなら入りに来ればいいですよ」
私は彼を食堂の椅子へ座らせ、契約書を取り出した。
「では、契約に従い、これを解除しますね」
「それはそのままでいいっす」
「良いんですか?」
私が破棄しようとしたのは、秘密保持を誓わせた魔法契約書だ。未だ効力を保っていた。
「師匠が俺を信用するかは別でしょ」
「まあ、人を信用するのは難しいですね」
「俺もそうっす。だからそれはそのまま残して師匠とも長い付き合いがしたい」
「分かりました。私も実はその方が疑わずにすむので助かります」
「俺と師匠で全く違うのに思うことは一緒なんすね!近くに来たら遊びに来るんで風呂も貸して下さい」
こうして同居は終わったが、師弟関係は続くこととなった。契約があろうとなかろうと、私は渡すつもりだった魔道具を、デベスが荷物を整理する前に手渡した。
「師匠の魔法鞄と同じすか?え、師匠の手作りすか?やったぁぁぁ!」
彼が一番喜んだのはパーチだった。物を大切にする彼のことだ、そこにはこれから数えきれないほどの思い出や戦利品が収められていくだろう。
パーチの使用法を教えるには一晩の座学が必要だったが、翌朝には全てを理解していた。理解の速さは、学びたいという情熱に支えられているのだろう。
新しい飛翔鞍には結界やハルの能力を向上させる仕組み、さらに回復や分解、空調といった効果を重ねたトークが組み込まれている。それと同じ型であるが、通信機能を持つトークを身に着けたデベスは、使い慣れた杖を腰に刺し、背負い袋ではなくパーチを一つ杖の横に下げていた。
「ネアム師匠…ありがとうございました」
何度も聞いた感謝の言葉だが、最後は深く頭を下げ、目が合うと何処か気はずかしそうに目は潤んでいた。誤魔化すようにハルを急かし、背中に飛び乗る。
ハルもまた私達に軽く首を下げ礼をするような仕草を見せた。
そして、跳躍の挙動から一気に青空へ舞い上がった。陽光を浴び、旋回しながらゆるやかに高度を上げていく姿は、未来へ進む者の象徴のようだった。
彼等の冒険章の無事を祈る。そしてもう一人、懐かしい顔が浮かぶ。彼もまた私の知らない若かりし頃は、デベスのように無茶ばかりしていたのかもしれない。
私の知る大人のヴァイスではなく、青年のヴァイスの姿まで空に浮かび上がる。私の記憶が辛い物から、ヴァイスの楽しい頃の知らない筈の面影へと上書きされていくようだった。
「さて、支部長へ報告し、納品で誤魔化しましょうかね」
森を離れてから数か月、一度も顔を出していなかった傭兵組合へのお詫びに、私は秘蔵の酒を一本手に取った。琥珀色に澄んだ液体は瓶の中で静かに揺れ、長年寝かせた芳醇な香りが栓越しに漂っている。長年の友ならば、この一本で笑って許してくれるだろう。




