《薩摩》建艦記〜誰も知らぬ主砲の重さ〜
明治四十一年。
薄暗い設計室の一角。重く引かれた図面の上で、一本のペンが迷いなく線を引いていた。
「……初速760。砲弾重量は約500キロ。装薬増量による後座力はおそらく……うん、装架には改良が必要だな」
三好秀彦中佐。
英国ヴィッカース社に学び、帰国後すぐに「戦艦《薩摩》」の設計責任者に任命された。彼はまだ30代半ば。だがその設計思想は当時の日本海軍にあっては異端――いや、狂気の類だった。
主砲、31センチ。
だがこれは仮の姿に過ぎない。将来的に36センチ砲を搭載する前提で、艦体構造・揚弾装置・バーベットを設計するという。
「砲のない艦は、ただの箱です。ですが、“未来の砲”を撃てぬ艦もまた、ただの鉄の棺桶です」
技術会議でそう言い切った瞬間、室内の空気は凍ったという。
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《薩摩》建造が始まると、まず困難に直面したのは砲塔基部の重量過多だった。
従来の設計で31cm砲を搭載すれば安定する。しかし、将来換装予定の36cm砲を想定すると――砲塔だけで数十トンの追加重量。しかも、それを回転させる駆動系も今までにない力を必要とした。
「艦が傾くぞ!」
「こんなもん、沈まないのが奇跡だ!」
造船所では不満と嘲笑が飛び交った。
艦政本部でも、「やはり若造には任せすぎた」との声があがる。
それでも、三好は設計変更を拒んだ。
彼は1枚の図面を艦政本部長に差し出した。
「この艦は、38ノットを出せる設計です。速力、火力、拡張性。すべてを備えた――新しい時代の礎になる艦です」
「出せるなら、出してみろ。もしできなければ……貴様はその艦と一緒に沈む覚悟でいろ」
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建造は遅れに遅れた。
砲塔回転機構が3度、設計をやり直し。蒸気タービンは爆発を2度起こし、艦首形状の修正案は実に14回にも及んだ。
ようやく進水を迎えた日。
鋼鉄の巨艦がゆっくりとドックから海へ滑り出ると、集まった造船工たちが一様に黙り込んだ。
「本当に……浮いたぞ」
無骨な職人が、ぽつりとつぶやいた。
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そして、初の公試。
その日、三好は艦橋で双眼鏡を構えていた。機関最大出力。速度計がじわじわと針を上げていく。
「……27、28、29……30、まだ上がる……32……35……!」
最終記録――36.7ノット。
目標の38にはわずかに届かなかったが、それでも当時の世界戦艦の中では群を抜いていた。
続く射撃試験では、31センチ砲が実弾を吐くたびに艦体が軋んだ。
だが、揺れることはなかった。
――艦が砲の重さを受け止めていた。
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《薩摩》就役。
だがその名はすぐに知られることはなかった。
外見は31センチ砲の“凡庸な戦艦”。特異な速度も、「試験時のみ」と報告され、過少評価される。
それでも、三好は構わなかった。
彼が本当に望んだのは、「その艦が未来を開く技術の礎になること」だったからだ。
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時代は移り、のちの《能登》《対馬》では33センチ砲が実装された。
そして昭和初期――《薩摩》は再びドックに入る。36センチ砲換装、主機の改装、艦橋の再設計。
十数年の時を経て、《薩摩》は本当に“化けた”。
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最初に誰も信じなかった戦艦は、
やがて、誰もが信じた「型破りの正統」になった。