コンソメ革命、始動します
厨房の空気は、ぴんと張り詰めていた。
無理もない。
何しろそこに突然、公爵令嬢リリサンドラ・ヴァレンティーナが「台所で料理をしたい」とやってきたのだから。
「……お、お嬢様。ご冗談では……?」
料理長が額に汗を浮かべながら、何度も私を見ては言葉を選んでいる。
「ご心配なく。火も刃物も、扱いには気をつけますわ。必要であれば、そばについていてくださって構いません」
きちんとお辞儀をして言うと、彼はますます困ったような顔になった。
「で、ですが……! そのようなこと、いえ、“労働”は……!」
ああ、この世界では“貴族の娘が自分で料理する”なんて、きっとありえない行為なのだ。
でも、私はもう“ただの箱入り”じゃいられない。
「これは、わたくし自身の食事の問題ですの。どうか……協力していただけませんか?」
その言葉に、料理長がはっと目を見開いた。
やがて彼は深々と頭を下げる。
「……承知いたしました。ですがどうか、無理だけはなさいませんように」
「ええ。ありがとう、料理長」
厨房の隅に場所を作ってもらい、まな板と包丁、そして食材が並べられる。
見慣れない野菜や、聞き慣れない名前もあるけれど──
大丈夫。だてに社畜OLしてなかった。
コンビニやカフェ、たまに作ってた自炊スープの知識、ここで活かす時!
「まずは香味野菜。にんじん……これは“ルベル”で代用。玉ねぎ……“オニナ”。セロリ……代用品は、これでいけるかも」
異世界の食材を確認しながら、私は前世で覚えた“基本のスープ”を思い出す。
香味野菜をバターでゆっくり炒めて、焦がさないように注意しながら……
やがて、香りがふわりと立ちのぼる。
「……いい香り……!」
周囲の料理人たちも、徐々に手を止めてこちらに目を向け始めていた。
物珍しさもあるけれど、それ以上に──この香りが、“未知の味”を感じさせるから。
「……お水、入れて……お肉のだしは……あっ、あれを少し。鶏と牛の混合で……うん、いけるはず!」
塩の量を調整し、ゆっくりと煮込んでいく。
焦らない。慌てない。
優しく、丁寧に、味を重ねていく。
じゅうぶんに火が通り、アクを取り終える頃。
鍋の中には──琥珀色に澄んだ、静かなスープが完成していた。
「これが……この世界の、わたくしのコンソメ」
おそるおそる、ひと匙すくって、口元へ運ぶ。
──優しい。
舌の上でふんわりと広がる、淡くて透明な旨味。
身体にすっと馴染んでいくような、温かさ。
決して派手ではないのに、心がほどけていく。
これだ。これが欲しかった。
「……美味しい……っ」
思わず口元が緩む。
こんなにも温かいものを、前世でいつ飲んだだろう。
あの忙しい日々、何も感じずに流し込んでいたはずのスープが、今は“生きている”味になっていた。
「お嬢様……まさか、これを自分で……」
料理長が、信じられないというような顔でスプーンを手に取る。
一口含んだ瞬間、彼は目を見開いた。
「……っ、これは……! 薄いのに、旨味が、深い……!?」
「薄くないのですわ。ただ、重くないだけ。舌にのるのではなくて、喉に落ちるスープ──それが、わたくしの目指した味」
小さく笑ってそう答えると、料理長はしばし呆然とし──
やがて、ふっと、静かに頷いた。
「……恐れ入りました。まさか、お嬢様からこんな味を教わるとは……!」
厨房にいた誰もが、それを認めてくれた。
私は椅子に腰かけ、スープをもう一口すする。
美味しい。
身体が温まっていく。
少しずつだけど、食欲が戻ってきた気がする。
「……これで、ちゃんと食べられるかもしれない……」
食べることは、生きること。
まずはその一歩から始めよう。
破滅ルートの未来なんて、全部変えてやるんだから──
私はスプーンを握りしめながら、心の中で小さく拳を握った。