目覚めの朝と、冷たい兄
──まぶたの裏が、うっすらと明るい。
昨日よりも軽くなった身体と、ほのかに暖かい朝の日差しに包まれて、私は静かに目を開けた。
天蓋の隙間からこぼれる光はやわらかく、まだ夢のなかにいるような気がする。
けれど、やっぱりここは夢じゃない。
私はもう、“立花香澄”じゃなくて──
「リリサンドラ・ヴァレンティーナ」なんだ。
昨夜の両親の愛情が、胸の奥にまだ残っている。
あの優しさに、きっと前のリリサンドラは慣れきっていたのだろう。
でも、私にとってはそれが新鮮で、少し怖いくらいにまっすぐだった。
「……ちゃんとやらなきゃ、だよね……」
呟いてから、ハッとする。
危ない。素が出るの、ほんとにやめたい。
「お目覚めですか、お嬢様?」
ドアをノックして入ってきたのは、昨日も給仕をしてくれたメイド──たぶん、私付きの人だろう。
整った身なりにきびきびとした動き、年は二十代後半くらいか。
「……おはようございます。わたくし、少しすっきりいたしましたわ」
しっかり言い直して返すと、彼女は一瞬まばたきして、ふっと笑った。
「それは何よりでございます。昨日のお嬢様のご様子を見て、皆、心配しておりましたから」
心配……
いや、待って、それって「いつもは我が儘なのに、今日はやけに素直だった」ってことでは……?
メイドは続ける。
「それに……お嬢様が“ありがとう”とおっしゃったの、初めてでして」
うっ。
それはもう、確実に前と中身が違うって気づかれてるやつじゃない!?
でも、口には出せない。
この世界では、**「おかしな令嬢」=「何か裏がある」**に直結するんだから。
「……それは、わたくしが少し、大人になったということでしょうね」
にっこり微笑んでみると、メイドはますます驚いたように目を見開いた。
……うん。たぶん“違和感”はもう完全にバレてる。でも、「良い方向に変わった」って思われるならそれでいい。
朝食を運んできた彼女の名前は「シェリル」と言うらしい。
付き合いは長いはずなのに、私にとっては初対面。
だけど彼女は、さりげなくフォローを入れてくれる。
「お兄様がもうすぐいらっしゃると伺っております」
「……兄様が?」
思わず素の声を出してしまい、慌てて口元を手で押さえる。
そうだ、前のリリサンドラには、五歳年上の兄がいたはず。
そして──
「距離を置かれている」という記憶。
原因はリリーのワガママさ。それを香澄はよく理解していた。
……うまくやれるかな。嫌われたままだったら、いやだな……。
扉が、静かにノックされた。
「リリサンドラ、入ってもいいか?」
落ち着いた、低くて理知的な声。
まるで絵本の中の“完璧な兄”がしゃべっているような、そんな声だった。
「……ええ、兄様。どうぞ」
静かに答えると、ドアが開き、一人の少年が現れた。
──整った顔立ち。金茶の髪に深い群青色の瞳。
凛とした佇まいで、まだ十歳そこそこなのに、すでに貴族の風格が漂っている。
リリーの兄。
名を、【ユリウス・ヴァレンティーナ】。
彼は一歩、また一歩と、私に近づいてくる。
その顔には笑みはなかった。
表情は穏やかだけど、どこか“観察している”目をしていた。
……うん、たぶんめちゃくちゃ警戒されてる。
「具合はどうだ?」
「ええ、だいぶ楽になりました。ご心配をおかけして……申し訳ありません」
ぴしっと礼儀正しく答えると、彼はほんの一瞬だけ目を細めた。
「……そうか。ならいい。無理はするな」
そしてそれ以上、何も言わずに、くるりと踵を返して出て行った。
──え、ええ……???
私、なんかやらかした!? それとも好感度がマイナスすぎるだけ!?!?
ぽかんとしている私に、メイドのシェリルがそっと告げる。
「……お兄様、いつもより、ずっと優しかったですよ」
そうなの!?
えっ、今のが“優しい”の!?!?
リリサンドラの人生、思った以上にハードモードかもしれない──
私は心の中でそっと頭を抱えた。