プロローグ
……いや、どこかで見たような、でも実際に来たことはない──
そんな不思議な感覚。
視界を覆う天蓋は繊細なレースに縁どられ、枕元には花の香り。
手に触れるシーツは絹のように滑らかで……ここが、少なくとも私の“自宅”でないことだけはすぐにわかった。
……あれ、私、死んだんだっけ?
目を開けたまま、そんな言葉が頭をよぎる。
たしかに私は、過労と睡眠不足でほぼ瀕死状態だった。
ブラック企業に魂を削られ、ろくに食事もせず、やっとの思いで帰宅した夜──
転んで頭を打った。
あれが、最後の記憶だ。
ぼんやりとした意識の中、頭の奥底から湧き上がる“知っているはずの世界”の景色。
この豪奢すぎる部屋。
高級そうなドレスを着た小さな身体。
そして──鏡に映った少女の姿。
藍色の髪。
薄紫の瞳。
氷のような美貌に、どこか冷ややかな雰囲気。
──これは、“リリサンドラ・ヴァレンティーナ”。
乙女ゲーム『ローズ・オブ・セレスティア』に登場する、悪役令嬢そのもの。
「……う、そ……でしょ……」
思わずこぼれた声は、前世の自分のそれより、ずっと幼くて澄んでいた。
信じたくない。でも、肌に触れる温度も、吐息も、すべてが現実を示していた。
私は今、悪役令嬢に転生してしまったのだ。
その瞬間、頭の中でパズルのピースがはまるように、断片的なゲームの記憶が蘇ってくる。
この世界では、ヒロインの恋路を邪魔する悪役として、最後には国外追放か、処刑が待っている──
どのルートでも、悪役令嬢に「救い」などなかった。
たしか、一番マシなエンディングで国外追放……。
「……冗談じゃない……!」
目の前が暗くなった。
私はのんびり人生をやり直すつもりだったのに、
なんでわざわざ“破滅ルート確定の役回り”なんかに転生しなきゃいけないのよ。
でも……でも、もう始まってしまったのなら、やるしかない。
せめて穏やかに、静かに──破滅だけは回避して、この世界を生き延びてみせる。
そんな決意を噛みしめた瞬間、部屋の扉がバン! と開いた。
「リリー! 目を覚ましたと聞いて──!」
まるで嵐のように飛び込んできたのは、まばゆい笑顔を浮かべる女性──リリーの母。
すぐあとに、お父様らしき男性も続いてきて、二人そろって私の枕元に駆け寄った。
「よかった……! よく頑張ったわね……!」
涙を浮かべる母に、私は思わず戸惑う。
まっすぐで、嘘のないその愛情に、胸がぎゅっとなった。
──ああ、そうか。
この子は、こんなにも愛されていたんだ。
そして、その愛を当然のものとして受け取っていたからこそ、
傲慢でワガママな“悪役令嬢”として育ってしまった。
「わたくし……ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
前世では絶対に口にしなかったであろう言葉を、静かに告げる。
すると両親はぽかんと目を丸くし、そして、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……今日はもう、何も考えなくていいわ。ゆっくり休みなさい」
「あなたの寝顔が見られれば、それでいいよ」
そっと額に口づけを落とされ、私は目を閉じた。
やり直しの人生は、想像以上に“あたたかい”。
だけど、ここはゲームの中。
一歩間違えれば、すべてが終わる世界だ。
私は“リリサンドラ・ヴァレンティーナ”として、破滅フラグをへし折るために生きる。
──自分だけの、幸せをつかむために。
これは、ある悪役令嬢の転生と、逆転の物語。
こういうのが読みたいって思ってたらいつの間にか書いてました