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婚約破棄されましたが、すべて計算通りです

作者: 佐久矢この

 

 陽光は庭園のバラの花弁に優しく触れ、赤と白の絨毯のような景色を作り出していた。

しかしその美しさは、ティールームの中に漂う重苦しい空気を和らげることはできない。


 アリアーネの銀の髪が朝の光を受けて柔らかく輝き、青い瞳がカップの縁をじっと見つめている。

向かいには婚約者である第一王子ハーベルト・アラッセが座っていた。

その瞳は冷たく、会話というよりも一方的な宣告をするためだけにここにいるようだった。


「それで決定だ。もう誰も口を挟むことはできない。」


 冷たく鋭い声が静寂を切り裂いた。


「私はアメリアを愛している」


彼は言葉を発したあと、視線を窓の外に向けてもう話そうとはしなかった。


「……では、明日の夜会ではそのように。」


 アリアーネは小さく頷く。

その指先は膝の上でしっかりと組み合わされている。


 この婚約に心が伴わないことは、彼女自身が一番よく知っていた。


 ハーベルトはお茶を飲み終えると、「では」と立ち上がった。

その背中が扉の向こうに消えた瞬間、アリアーネは心の中で小さな溜息をついた。




 家に戻ると、アリアーネは真っ直ぐに父親の執務室へと向かった。

重い扉の前で深呼吸し、ノックする。


「入れ。」


 扉を開けると、書類に目を通す家長、トラスト・リークベルトが座っていた。

その顔には厳しさしかなく、娘を見ても特に感情を動かす様子はなかった。


「父様……殿下の心は、私にありません。」


 父親の手が一瞬止まり、彼女に向けられる瞳が鋭さを増す。


「お前の努力が足りない。それだけだ。」

「お父様。いくら努力しても、心を得ることはできないのです……。私は――」

「黙れ!」


 アリアーネは拳を握りしめ、静かに息を整える。


 その言葉に、父親は険しい顔をさらに歪めた。


「お前の母親はもっと献身的で、淑女の鑑だった。お前が彼女に似ていたら、こんな恥をかくことはなかったのだ。」


 アリアーネの心が締め付けられる。

母の名を引き合いに出されるたび、彼女は自分がいかに父親の期待に応えられない存在であるかを思い知らされるのだ。


「……申し訳ありません。」


 そう答えるしかなかった。

父親は手を振り、追い払うように言った。


「夜会では、リークベルト家の名を汚すな。それだけだ。」


厳しい声が部屋の空気を震わせた。


「リークベルト家の繁栄は、お前の肩にかかっている。それを忘れるな。」


 アリアーネの心は冷たい鋼の刃で刻まれるようだった。

それでも彼女は、長年染み付いた淑女の振る舞いを崩すことはなかった。


「……わかりました。」


 アリアーネは深々と頭を下げ、執務室を後にした。

自室に戻った彼女は、窓辺の椅子に座り込む。夜空に瞬く星々は、どこか遠くに感じられた。


「何のためにここにいるのかしら……」


その囁きは、自分自身にすら届かぬほど弱々しかった。





 夜会の会場は、美の結晶を集めて固めたようだ。

黄金の光を湛えたシャンデリアが高い天井から揺れるように吊り下がり、その下には完璧に磨かれた大理石の床が広がっていた。

床には煌めく貴族たちの影が踊り、貴婦人たちのスカートの裾が、まるで花が咲き誇るように広がっている。


 重厚な扉が開かれるたびに、新たな来賓たちが姿を現し、鮮やかな衣装と笑顔が場内を満たしていく。

弦楽四重奏の穏やかな音色が貴族たちの談笑と交わり、夜会の華やかさをさらに高めていた。


 そんな中、銀糸のような髪を結い上げたアリアーネ・リークベルトが、静かにその場に現れた。

彼女の青い瞳は冷静で、背筋は淑女らしく伸びている。

しかし、その一歩一歩には重みがあり、内に秘めた覚悟と不安が、彼女をそっと覆っていた。


「大丈夫ですか?」


 アリアーネの隣に立つ義弟、ユーリ・リークベルトが静かに問いかける。

一人娘のアリアーネが嫁ぐからと遠縁から養子にきた彼は、本日のアリアーネのエスコート役である。

その紫の瞳には、彼女への深い気遣いが滲んでいた。


「ええ、大丈夫よ。」


 アリアーネは微笑みを浮かべて答えたが、その言葉は自分自身を奮い立たせるためのものであった。


 扉が開かれると同時に、空気が変わった。

音楽も笑い声も、まるで遠ざかったかのように感じられる。

すべての視線が、彼女の美しい姿に吸い寄せられる。


 銀の髪が揺れるたび、会場の灯りが反射し、まるで夜空に流れる彗星のように輝いた。

青のドレスに包まれた彼女は、まさに第一王子の婚約者としてふさわしい姿だった。


 だが、彼女の胸には小さな震えが隠されていた。

彼女がこれから迎える瞬間を思うたび、その震えは胸の奥底に波紋のように広がっていく。


 静寂を切り裂くように、扉が開かれた。

 その先に現れたのは、第一王子ハーベルト。

そして、その隣には新緑の髪を持つ少女、アメリア・ロットが寄り添っている。

揃いの衣装を着た二人の姿はまるで絵画のように美しく調和しており、しっくりと似合っている。


 男爵令嬢であるアメリアには初めての大きな場だろう。

ただただ控えめな微笑みを浮かべている。

二人の姿が会場の中心をゆっくりと進むたび、貴族たちの視線が二人に集中した。


 ハーベルトがアリアーネの前に立つと、空気がさらに冷たくなった。

彼の冷徹な瞳が、まるで彼女を裁く者のように鋭く光る。


「アリアーネ。」


 彼の声は低く、抑揚がほとんどなかった。

その声に、会場中の視線が一斉にアリアーネに注がれる。


「私はここに、あなたとの婚約を破棄することを宣言します。」


 その言葉が放たれた瞬間、会場の空気が凍りついた。

 ざわめきが広がり、貴族たちは互いに顔を見合わせ、何かを囁き合う。

驚きと好奇が交錯する中、アリアーネはわずかに息を呑んだ。


 彼女は唇を噛み締め、すぐに冷静さを取り戻したように見えたが、その青い瞳には確かに影が差していた。


「……理由を伺っても?」


 彼女の声は静かだったが、その裏には鋼のような意思が感じられた。

 ハーベルトは一歩前に進み、会場中に聞こえるような声で続けた。


「あなたが私の愛するアメリアをいじめたという話をききました。」


 その言葉が放たれると、会場の貴族たちが再びざわめき始めた。

視線がアリアーネとアメリアの間を行き交い、次第に興味深げな囁きが広がっていく。


 アリアーネはその場に立ち尽くし、視線を落とした。


「そんなことはしておりません。」


 毅然とした声で否定するアリアーネ。

しかし、ハーベルトはその言葉に耳を貸さなかった。


「証拠はおありなのですか」

「証拠など必要ない。あなたの行動には以前から不信感を持っていた。これはただのきっかけに過ぎない」

「私は不信感を与えるような行動を取ったことはありませんわ」


 アリアーネは突然給仕を呼び寄せ、果物ナイフを受け取った。


「証明しますわ。私が殿下および王族を心から敬愛する忠臣であることを」


 髪にナイフをあてると、会場が震えた。

貴族たちは次々と驚きの声を上げ、彼女の銀髪に視線を集中させた。

長い髪は淑女の証。それを切るなど、女としての死を意味する。

さすがのハーベルトも驚いた顔をしている。


「アリアーネ……」


 呼ぼうとしたその声は、本人まで届かなかった。

 切られた髪が床に落ちる音が、静まり返った広間に響く。

その銀の束が、磨き抜かれた床にばさりと落ちる。


 アリアーネは短くなった髪をそっと撫でた。彼女は顔を上げ、会場全体を見渡した。


「私は王家の忠節なる臣下でございます。この髪に誓って」


 その声は震えながらも、毅然とした響きを持っていた。




 王はその場で怒りを爆発させ、ハーベルトに厳しい叱責を浴びせたが、アリアーネはただ黙っていた。

 彼女の目は、床に落ちた銀髪を見つめていた。


 彼女は静かに床を見つめながら、つぶやいた。


「私は、何を守るためにここまでしたのかしら……。」


 彼女のそのつぶやきは、貴族たちの記憶に強く刻み込まれることとなる。






 月の光が窓辺を滑り、薄絹のカーテンを淡く照らしている。

アリアーネの部屋には暖かなランプの灯がともり、どこか居心地の良い空気が漂っていた。

あれから婚約の解消、それに反対したアリアーネの父親が娘を側妃にしようとしたことや、それでもアメリアを娶ると主張した第一王子の廃嫡など、いろいろと濃厚な日々を過ごした。


 アリアーネはそっとシャンパンの杯を傾けた。


 そこには、4人の若者が集まっていた。

婚約破棄を終えたばかりのハーベルト・アラッセとその彼女、アメリア・ロット。

そして、義弟であるユーリ・リークベルトとアリアーネ・リークベルト。


「さて、これでやっと全てが終わったわけだ。」


 ハーベルトがクリスタルのデキャンタを持ち上げ、微笑みながらテーブルの中央に置く。


その声には達成感とどこかほっとした色が混ざっていた。


「ありがとうございました。アリアーネ様。」


 アメリアが柔らかく微笑み、彼女に向かって頭を下げる。

ピンクの瞳がランプの灯に揺れている。


 アリアーネは短い髪を無意識に触れながら、小さく息をついた。

その仕草には髪を惜しむというよりも、どこかすっきりとした表情が見え隠れしていた。


「私の方こそ、皆さんに感謝しなくてはなりませんね。」


 彼女は微笑みながら言う。

その笑顔にはどこか張り詰めた糸が解けたような安堵があった。


 ハーベルトがワインを4つのグラスに注ぎながら、ふと真剣な表情で口を開いた。


「しかし……あの夜会で髪を切るなんて、正直驚いたよ。そこまでしなくても良かったんじゃないかと思う。」


 その言葉に、アリアーネは一瞬目を伏せたが、すぐに軽く笑った。


「あれくらいした方がインパクトがあるでしょう。演技は初心者ですし、力業で押してしまったほうが良いわ。それに、……今は少し軽くなった気がします。髪も、そして心も。」


 彼女の言葉には、芯の通った潔さがあった。


 ハーベルトは眉をひそめ、アメリアが彼の手をそっと取った。


「でもあんなにお美しい御髪だったのに」


 彼女の静かな声に、アリアーネは感謝の微笑みを返した。

あの婚約破棄のすべては、この4人の思い通りに進んだ。


 どうしてもアメリアと結婚したいハーベルトから相談されたとき、すべてを失う覚悟はあるのかを問うた。

彼は毅然と「アメリアと添い遂げられるなら」と答えた。

公妾でさえ身分が届かないアメリアのために王族の地位を捨てる覚悟をしたハーベルトだが、王子はハーベルトひとりしかいない。

父王が許さないことを分かっていて、あえてあのような愚行をしでかした。


「無事にアメリアと添うことができる」


 ハーベルトの声音に王家への未練は感じられない。


「私のように国よりひとりの女性を選ぶような人間に、子爵位はもったいないくらいだ」


 廃嫡が決まり、新たに子爵位を賜って王家の家臣となった。

新しく王弟が立太子することも決まり、ハーベルトの胸には安堵が広がる。

これからアメリアとの新しい日々が始まるが、それは穏やかではないかもしれない。

それでも、二人はその道を選んだ。


 祝杯が進むうちに、アリアーネの頬が赤く染まり始めた。

ワインが2杯目、3杯目と進むたびに、普段は見せない無邪気な表情が浮かんでくる。


「それでね、ハーベルト様ったら、私に惚気ばっかりするのよ!」


 彼女が言うたびに手振りが大きくなり、笑顔が崩れていく。

その姿にアメリアが微笑み、ハーベルトが声を上げて笑った。


「君がこんなに酔うなんて、なかなか珍しいな。普段の冷静な淑女らしさはどこへ行ったんだ?」


「淑女ですって? 私はただ……何て言うのかしら……ああ、わからないわ!」


 アリアーネは頭を抱えながらも笑い声を漏らし、その姿がどこか愛らしかった。


 一方で、ユーリは黙って彼女の様子を見つめていた。

その紫の瞳には、静かに燃える決意が宿っている。

彼は立ち上がり、空になったグラスをテーブルに置いた。


「姉上。」


 彼の声が静かに響く。

アリアーネはふと彼を見上げた。

頬が赤らんでいる彼女は、まだ酔いの気配がする。


「何かしら、ユーリ?」


 ユーリは彼女の前に立ち、まるで夜会の時のように片膝をついた。

驚きで目を見開くアリアーネの手を取り、その瞳を真っ直ぐに見つめる。


「ずっと言いたかったことがあります。」


 その言葉に、部屋の空気が変わった。

ハーベルトとアメリアが顔を見合わせ、小さく声を漏らす。

その視線は、まるで恋愛小説の展開を目の当たりにしているかのように興奮していた。


 ユーリはアリアーネの手を握りしめ、その手の温かさを感じながら続けた。


「ずっとあなたのことが好きでした。」


「ユーリ……?」


 アリアーネの声が小さく震えた。


「僕は、あなたと共に生きたい。そして、これからのリークベルト家をあなたと一緒に支えたいんです。」


 その言葉には、すべてを賭けるような力が込められていた。


「え、えっと、これって……本当に小説みたい!」


 アメリアが声を上げ、ピンクの瞳を輝かせる。

その隣でハーベルトは軽く咳払いをし、ワインを飲み干した。


「ついに言ったな」


 アメリアは頷きながら、そっと拍手をした。


「本当に素敵……。おめでとうございます!」


 アリアーネは目を伏せた。

彼女の顔には驚きと戸惑いが混じっていたが、その瞳の奥には小さな光が灯っていた。


「考えさせて……と言いたいところだけれど……。」


 アリアーネは少し微笑みながらユーリの手を握り返した。


「ありがとう、ユーリ。」


 その言葉が、彼女の返事のすべてを語っていた。


 4人は再びグラスを持ち上げた。

新しい未来と、それぞれの選んだ道を祝うために。

 短くなったアリアーネの髪がランプの光に揺れ、まるで新しい時代の幕開けを象徴しているかのように輝いていた。


「私達の未来に、乾杯!」


 かつんとワイングラスの音が弾けた。






 舞踏会の会場へと続く長い回廊。

月明かりが大理石の床に影を落とし、アリアーネ・リークベルトの短く整えられた銀の髪をかすかに照らしていた。

彼女の歩みは、静かでありながらどこか決意に満ちている。

青い瞳には一片の揺るぎもなく、ただ前方を見据えていた。


 隣を歩く義弟のユーリ・リークベルトは、ふと足を止めると、軽く微笑みながら手を差し出した。

紫の瞳には優しさが滲んでいる。


「姉上」


 アリアーネは差し出された手を一瞥した。

 この子は賢い。

 それが申し訳なかった。

 その指先まで整えられた動きに、一瞬だけ微かなためらいが胸をよぎる。


 ――ユーリもまた、私の目的を果たすための一つの駒。


 それでも彼女は微笑みながらその手を取った。

その笑みは、柔らかく穏やかなものだったが、その奥には秘められた冷静さが潜んでいた。


「ありがとう」


 彼女の言葉は軽やかで、どこか風のように軽やかだった。

それを聞いたユーリの表情には一瞬だけ戸惑いが浮かぶが、すぐにそれを隠して歩き始める。


 アリアーネの短い髪は、それにまとわせるように小さなアメジストをいくつも連ねた髪飾りをつけている。

頭を覆うようにつけられたそれらは、歩くたびに美しく光る。


「行きましょう。ユーリ」


 アリアーネの心の中には、父親の姿がちらついていた。

同情票が集まるアリアーネに無理を強いようとしたことで、今や彼は社交界から軽蔑の眼差しを向けられている。


「何のためにリークバルトにいたのかしら」


 リークバルトの家長は領地経営の手腕は良く社交界での立ち回りも上手いのだが、彼には決定的に人の心が欠けている。

どれだけ優れていても、人心の掌握が下手であれば思わぬところで足を掬われることになる。

 

「お前が母親似だったら良かったのに。」


 父親の言葉は、じんとした鈍い痛みを伴って胸にある。

 それは彼女自身が最も理解していることでもあった。

外見はどれだけ母親に似ていても、内面は父親に似ていると。

冷静で、効率を重んじ、目的のためには手段を選ばない。

そんな自分を思い、彼女はふと笑みを漏らした。

アリアーネの気質は、父から受け継いだもの。

きっと父にとっては、それがとてつもない皮肉だった。





 扉が開かれ、煌びやかな舞踏会の世界が広がった。

金と銀の光が満ちる大広間には、無数のシャンデリアが光を落とし、その輝きが貴族たちの衣装をさらに際立たせていた。

磨き上げられた大理石の床に、女性たちのドレスの裾が波のように揺れ、男性たちの磨かれた靴が音を立てる。


 アリアーネが会場へ足を踏み入れると、その短い銀髪が光を反射して揺れた。

たったそれだけで、空気が一変した。

すべての視線が彼女に集まり、その目には驚きや戸惑い、そして好奇が浮かんでいた。


「まあ……短い……本当に髪を切ってしまわれたのね。なんて可哀想な。」


 年配の貴婦人たちが囁く。その言葉には哀れみ以上の軽蔑が滲んでいた。


「女性なのにな」


 年配の紳士たちは笑い声を漏らしながら、グラスを傾ける。


 その一方で若いご令嬢たちは、彼女を見つめる目に憧れの光を宿していた。


「ねえ。あの髪飾り美しいわ。でもあれは長い髪では映えないわね。」

「確かにそうね」


 その小さな囁きは、静かに会場の空気を染めていった。


 会場の中央に進むと、取り入ろうとする貴族たちがアリアーネとユーリを囲んだ。笑顔を浮かべ、持ち上げるような言葉を次々と投げかける彼ら。その話題の中には、短い髪について軽く触れる者もいた。



「髪が短くても、貴女の美しさは変わりませんね。」

 その言葉に、アリアーネはわずかに微笑みを浮かべたが、答えはしなかった。彼女の沈黙と態度が、すでにその答えを示していた。

 静かな会話の流れが一段落した時、アリアーネはふと声を上げた。その声は決して大きくはなかったが、会場全体に響くような力を持っていた。


「皆さま。」


 その一言に、周囲が静まり返る。


「淑女とは、長い髪を持ち、見た目を美しく飾るだけの存在でしょうか?」


 彼女の青い瞳が会場を見渡した。その瞳には、強い意志が宿っていた。


「私の髪はそんなに醜いかしら?」


 ふるふると首を振る周囲。

 誰も言葉は発せなかった。


「髪なんて、ただの飾りだわ。私はこんなものよりも多くのものをこの頭の中に持っています。それが淑女の証です」


 その言葉に、会場は一瞬静寂に包まれた。まるで誰もが息を止めたかのようだった。


「だれが笑っても、だれが醜いと言っても、だれがおかしいといっても、いま私の髪は短いのです。それでいいのです」


 そう言うと、アリアーネはくるりと後ろを振り返った。


「それで、先程醜いと仰っていたあなた、どなただったかしら?」


 顔を向けられた子爵は人の視線が集まって竦み上がった。

 彼はアリアーネの入場の際に、他の群衆にまみれて分からないだろうと思い笑って冗談まじりに蔑む言葉を言っただけで、彼女と一対一では決してそんなことを言うような人物ではなかった。

みんなの声に紛れて、自分の声など届かないと鷹を括っていた。


 なぜなら、高位貴族に自分の言葉など届いたことがないからだ。ただただ、周囲の気持ちに乗っかっただけなのだ。

 彼は同じように笑っていた寄親や友人を振り返ったが、哀れな子爵を助ける人は誰もいなかった。


「ごめんなさい。不勉強なもので、まったくお話しする機会もなかったメーレント子爵家の方のことはあまり存じ上げないの」


 彼、メーレント子爵は卒倒しそうな体に鞭打って、なんとかその場に留まった。

 彼女の言葉は、冷たい刃のように会場の空気を切り裂いた。その中で、若いご令嬢たちの一部が息を呑んだ。彼女たちの瞳には、驚きと共感、そして新たな希望が浮かんでいた。



 アリアーネの死後、その短い銀髪は「革命の象徴」として語り継がれることとなる。

 貴族女性たちは次第に、長い髪を切ることもあったし、切らないこともあった。

ただただ、自由な生き方を選び始めた。

どれだけ父親が怒鳴ったところで、彼女たちの結束は強かった。


 アリアーネ・リークベルト――

 後の世に、彼女は女性の地位向上に努めた革新者として伝わっている。


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