大切(3)
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月曜日の夕方──。
授業が終わったとはいえ、校舎はざわめきや明るい笑い声に満ちている。
大方の生徒は部活動に勤しんでいるし、補習や委員会などもあって学校内はどこも多くの生徒でいっぱいだ。
だから、今や部外者である星歌としては校舎内に入り込むのは、それだけで肝が冷えたものだ。
元職員なので人の少ない通路は知っているといっても、下校時刻のどさくさにまぎれて入り込めたのは運が良かったと言えよう。
高校生らが通りすがる中、なまじビクビクすると怪しまれるからと関係者のような素振りで渡り廊下を横切る。
逆にそうすると、数日前に辞めた職員ということで──しかも理由が理由なので──顔を覚えられてやしないかと不安になり、人とすれ違うたびに顔を俯ける始末。
つまり、高校の校庭や校舎をうろつく挙動不審な人物、それが今の星歌であった。
「もう、何なの。あの天然は!」
スマートフォン片手に、さすがに苛立った様子。
もはやケイの呼び名は「天然」になっていた。
さっきから行人の番号に何度も電話をかけているのだが本人はおろか、ケイが出る気配もない。
行人がどうやら危機に瀕しているらしいということだが、広い校内のどこにいるのか皆目分からないではないか。
まさか教室をひとつひとつ開けて回るわけにもいかないし、人目だって気になる。
次第に星歌は人の気配の少ない特別教室の集まる一画に来ていた。
書道教室や音楽室、視聴覚室などが並ぶ場所で、今日は部活で使う生徒もいないらしく閑散としている。
ツンと鼻孔を刺す独特な絵の具の匂いが強まる中で、ふと聞き覚えのある声が耳をくすぐった気がして、星歌は足を速めた。
声の出処がすぐ分かったのは、廊下を曲がったところに立つ不審げな女子高生の姿を見つけたからだ。
「てんね……ケイ、ちゃん?」
「はっ!」
驚いたようにその場でピョンと跳ねるその姿。
大きな声をあげないように、両手で口を押えている。
背の高い身体を小さく丸めて気配を消すようにして、ひとつの教室を覗いていたようだ。
今更遅いのであろうが、唇の前に人差し指をたてて「静かにしろ」というジェスチャーを送ってくる。
彼女がいるのは美術室の前であった。
そういえば、と思い出す。
呉田先生は美術教師であったと。
この教室も週のうち何日かは美術部が使っているはずだが、今日はその日ではないらしい。
「ケイちゃん、ここにゆき……義弟がいるの?」
一応、声をひそめて彼女の隣りに並ぶとコクコクと頷きながらケイは扉の隙間を指さされ、女ふたりで顔をくっつけるようにして中を覗く羽目になる。
普通の教室と比べて広い美術室には木製の大きな机が八卓並んでいた。
その周囲を小ぶりの椅子が取り囲む形で設えられている。
絵の具の匂いとともに漂う、古臭い木の香り。
教室の向こうは窓に面しており、星歌の元からも中庭の木々が見える。
木の緑を背景にするように、居た。
行人と呉田が教卓を挟むような形で立っている。
「いや、その……話し合うというか。一応、生徒のことなのでちょっと問題かなと。呉田先生もできれば思慮なさって……」
「美しいものを美しいと言って何が悪いんだ、白川先生」
「いやまぁ……先生は美術に造詣が深くていらっしゃるから。その、でもコンプライアンス的にというか、ちょっと今は時代ですかね。そのぅ……」
先輩教師に対しての遠慮が先立つのだろうか。
行人の抗議の言葉も語尾が弱い。
「コンプライアンスが何だ!」
呉田は声を張り上げる。
「石野谷ケイは美しいだろう。まるで西洋絵画から抜け出たようじゃないか。あの美貌はなかなかない。絵描きの端くれとして、彼女をモデルに絵を描きたいと思うのは当然だろう!」
「ヒッ!」
自分の名前が出たためか、星歌にくっついて教室を覗いていたケイが悲鳴をあげる。
それが妙に星歌を苛立たせた。
「……行人のヤツ、歯切れが悪いな。完全に圧し負けてるじゃないか」
コンプライアンスがとか、ちょっと問題かなとか……強く言えないのは、教師といえどサラリーマンの悲哀だろうかなんて思いながらも星歌も静観の構えである。




